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航空巡洋艦利根、筑摩 利根最後の戦い [航空巡洋艦利根、筑摩]

 1945年7月28日の空襲で、利根は全門開いて
応戦しました。しかし、左舷艦橋横に被弾し、
岡田艦長は、大振動で倒れ、手すりに
つかまって体を支えました。

 利根は、この他多数の至近弾を浴びて、
浸水がひどくなりました。

 大淀はさらにひどく、右舷に多数の直撃と
至近弾を受け、大火災となり、総員退去を
命じています。夜半になり、大淀は、横転
してしまいました。

 江田島兵学校では、利根と大淀の負傷者が
多数運び込まれ治療を受けていました。ここに
運び込まれる負傷者の中には、生徒の先輩に
あたり、親しくしていた人も混じっていました。

 目の前に親しい先輩が、重傷をおって助から
ない状態で横たわり、見かけた後輩に、苦しみたく
ないから軍刀で首を跳ねてくれと、頼まれた生徒も
いました。

 利根は、28日の戦闘は耐えたものの、翌日の
29日になり、左舷からの浸水が激しくなり、
岡田艦長は、右舷に注水することで、復元を
図っていました。しかし、利根の傾きは直らず、
傾斜したまま着底しました。

 上甲板は、波が洗う始末となり、利根は完全に
戦闘能力を失いました。真珠湾攻撃から、空母の
目として活躍した利根型巡洋艦一番艦利根は、
二番艦筑摩に遅れること9か月で、除籍となりました。

 利根は、戦闘能力を失っても、8門の20cm主砲は
天を指し、砲撃の姿勢を示していました。利根の執念と、
天を仰いで慟哭する、日本海軍最期の姿でした。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 呉での奮闘 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 1945年7月24日午前7時、大淀の電探は、
敵の大編隊を探知しました。大淀は、長10cm
新型高角砲8門を振り立てて対空戦闘を開始
しました。

 敵の一番機を撃墜するなどの奮戦をしましたが、
第二波の攻撃時に、直撃弾を食らいました。

 利根は、三式弾を炸裂させ、数機を火だるまに
しながら、江田島内に叩き落としていました。これを
見ていた江田島兵学校の生徒は、喝采をあげて
いました。

 一方で、動けない利根は、直撃弾を数発浴び、
損傷が激しくなってきました。この日、七次の攻撃を
受け、午後4時30分に空襲は終わりました。

 岡田艦長が、利根の前に艦長を務めていた磐手は、
この日の空襲が元で、7月26日に撃沈しています。

 江田島兵学校は、大淀と利根に対し、防火隊を
組織して派遣し、利根と大淀の消火に努めていま
した。大淀の火災はなかなか消えず、2日かかり
ましたが、沈没と転覆を免れました。

 7月27日にも空襲があり、利根は、さらに被弾し、
火災を発生させましたが、防火隊により鎮火して
います。そして、利根にとって最後の戦闘となる
7月28日の空襲が始まりました。

(追記)
 軽巡洋艦大淀は、艦これに登録されている特殊な
巡洋艦です。

 当初は、潜水戦隊の旗艦として計画され、高角砲
のみを積むという予定でしたが、最上の改装により、
あまった15.5cm砲を利用することになりました。

 通信能力の高さを買われ、一時、連合艦隊の旗艦を
努めたことがあります。

 大淀は、天一号作戦に参加することも検討されましたが、
機関の破損により、呉に停泊することになっています。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 呉空襲 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 1945年3月19日の空襲で、停泊中の艦船にも
被害があったので、利根は江田島湾に回航する
ことになりました。

 湾内には、大淀が既にいましたが、かなりの損害を
受けていました。

 当初は、海軍兵学校に近い津久茂沖に停泊しましたが、
ここは深水があったので、浅い対岸の能美島小町沖に
前後4つの錨を入れて固定しました。ここなら浸水しても、
甲板より上に水がひたる恐れはありませんでした。

 4月6日、天一号作戦が発動され、大和と矢矧率いる
水雷戦隊が、沖縄に向かうことになりました。利根の
乗員は、「燃料さえあれば俺たちもついていくのに」と
思っていましたが、大和は片道燃料だと聞かされ、
いよいよ追い詰められたと感じました。

 利根については、座して空襲を待つのみとなって
しまいました。

 6月22日と、7月1日の大空襲は、多数の焼夷弾を
伴い、呉海軍工廠は潰滅、呉市内も焼け野原になり
ました。利根は、空襲のたびに、対空戦闘を行い
ましたが、効果はあまりありませんでした。

 7月24日、江田島内に停泊していた利根と大淀に対し、
機動部隊からの艦載機が襲ってきました。江田島の
兵学校には、この時、75期~77期の生徒8000人が
在校していました。

 利根と学校の距離は2kmほどしかありませんでした。
岡田艦長は、生徒の前でみっともないことをしては
いけないと、言い聞かせ対応に当たりました。

(追記)
 この日の戦闘は、江田島にいた生徒の一人の
乾尚文氏が、海軍兵学校の最期という著者で、
在校生との目で見た利根と大淀の最後の
戦闘を記しています。

 この方は、後に、防衛大学の教授として活躍しており、
著者も何冊かある方です。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 黛艦長退任 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 レイテ沖海戦が終わり、ブルネイで燃料補給をした
利根は、母港の舞鶴に戻り、損傷した箇所の修復を
することになりました。

 1945年1月6日、黛艦長は、利根を退艦して、
横須賀鎮守府参謀副長に就任することになり
ました。

 黛艦長は、自分が主砲を撃つことは、もうないのでは
ないかという漠然とした思いを、抱いていました。そして、
この予想は現実となりました。

 利根には、岡田有作大佐が着任することになりました。
利根は、岡田新艦長の元で、修理を急いでいました。

 この頃、敵軍は、本土に迫る勢いでした。2月20日、
アメリカ軍が、硫黄島に上陸した日に、利根は修理が
完了しました。そして、呉に向かうことになりました。

 呉に着くと、戦艦の伊勢と日向、空母の天城と葛城、
巡洋艦青葉と磐手(いわて)、駆逐艦梨などがいました。

 しかし、この時期は、燃料が不足しており、満足に
動ける状態ではありませんでした。利根も、経済速力
12ノットで5昼夜、35ノットだと14時間しか航海でき
ない量しかありませんでした。

 これでは、レイテ沖海戦のような戦闘は到底できません
でした。この様な時の3月19日に、呉方面に大空襲が
ありました。

(追記)
 巡洋艦磐手(いわて)は、日露戦争直前に就役した
装甲巡洋艦で、艦これには、現時点では登録されて
いない艦です。

 日露戦争では、殿として活躍しています。日露戦争後、
海防艦に類別変更されましたが、練習巡洋艦として
使用されています。

 利根の新艦長、岡田有作大佐は、利根に着任する前は、
この磐手の艦長でした。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 レイテ沖海戦終了 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 白石司令官が移乗して間もなく、利根は爆撃を
食らいました。右舷後部舵取機室の前に命中し、
艦橋の舵輪と舵取機室を結んでいた電気系統が
破損し、舵が利かなくなりました。

 航海長は慌てず、直接操舵を命じましたが、
直接操舵も不可能でした。そこで、人力操作による
舵取りを命じました。これは、教範に載っている手順で、
航海長は冷静でした。

 新たに乗艦した新人少尉の航海士は、この状況は、
筑摩が魚雷を受けて舵が利かなくなったのと同じで
あると感じ、不安が出てきました。筑摩は、この状況で
空襲を受けて大破しています。

 幸いにも利根は、筑摩ほど状況はひどくなく、艦橋からの
伝声管により、人力で舵を動かす人力操舵はできました。
そして、破孔が生じた箇所は、復旧することができたので、
1時間後には30ノットで、航海することが、できるように
なっていました。

 利根は、勇戦しましたが、この日の午後9時35分、
栗田長官はレイテへの突入をあきらめ、反転して
います。

 そのため、戦闘が終了となりました。レイテ沖海戦は、
主力艦の損失が激しく、日本軍の大敗でした。

 とはいえ、この時期であれば、どのような作戦を持って
しても、勝利する可能性は低く、予想通りの結果といえます。

(追記)
 この開戦前に、少尉に昇進した新人乗員にとって、
日本軍の敗北よりも、ライオン艦長の闘志と、航海長の
冷静さを感じた海戦でした。

 同時に、筑摩で多くの同期の友人を失ったことが、
胸を締め付けていました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 僚艦との別れ [航空巡洋艦利根、筑摩]

 北上をすると、僚艦の筑摩が見えました。敵機相手に
奮闘しており、黛艦長は、「貴艦の奮闘と武運を祈る。
利根全乗員より」という信号旗を、揚げさせました。

 筑摩からは、「貴艦の好意を謝し。今後の奮闘を期待す。
我の舵修理後、戦列に復帰せんとす」という返事がきました。
則満艦長以下全員の決意でした。筑摩の近くには、野分が
付き従っていました。

 利根は、筑摩に別れを告げて、羽黒の後を追いました。
そして、栗田艦隊に合流すると、最後尾を走っていた
利根に敵の爆撃機が群がっていました。

 砲戦は終わったと判断した黛艦長は、防空指揮所に登り、
艦橋の航海長に伝声管で連絡を取り合いながら、操艦を
していました。

 しばらく北上すると、鈴谷が見えてきました。この時、
魚雷の誘爆により艦中央部が大破して、傾斜していま
した。白石司令官は、この時、熊野から鈴谷に移動して
いましたが、利根を発見し、移乗することにしました。

 航海長が、利根を鈴谷に近づけると、黛艦長から、
「待て。全速後退。」の命令がきました。慌てて後退
すると、魚雷が誘爆を引き起こしました。

 黛艦長の位置からは、魚雷から火の手が上がって
いるのが見えたので、誘爆することが分かり、後退の
命令を出すことができました。

 爆発がおさまると、短艇を出し、白石司令官らを
移乗させました。移乗が終わると、今度は、鈴谷の
高角砲が誘爆を始めました。鈴谷は、艦と運命を
共にした艦長と一緒に、撃沈していきました。

 利根は、この日のうちに、筑摩と鈴谷の2隻の
僚艦を失うという事態になりました。

 それでも、栗田艦隊はレイテへの突入を続けました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 サマール沖海戦終了 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 羽黒は反転したものの、前方に5隻の無傷の
空母がいるのを、黙って見逃すことはできないと
考えていた黛艦長は、航海長に、「一気に突っ
込もう。ここで引き返せるか。」と、艦橋中に響き
渡るような大声をあげました。

 艦橋にいた乗員は、この形相は、やはりライオン
だと感じていました。

 黛艦長は、航海長に、「目の前の空母群に対し、
追撃を続行するを有利と認む」と書いて、羽黒の
司令官に送信するよう命じました。

 これに対し、航海長は、武蔵の件の通りで、
単艦で残っても袋叩きに合うだけだと意見具申し、
利根の反転を認めさせています。

 しかしながら、納得のいかない黛艦長は、
羽黒司令官に、「空母5隻は健在なり」と
電話で督促していました。これを聞いた
艦橋の乗員は、ほとほと感心していました。

 しかし、羽黒からきた返事は、「統制雷撃を
しても効果はない」というつれない返事でした。
利根は、空母ガンビア・ベイと、駆逐艦ホエールを
撃沈するという戦果を上げて、サマール沖海戦を
終わらさざるおえませんでした。

 利根の戦果以外のアメリカ軍の撃沈記録は、
駆逐艦2隻でした。対して、日本軍は、巡洋艦
だけで鈴谷、筑摩、鳥海が撃沈しており、戦果が
見合わないと言えます。

(追記)
 栗田長官が、中途半端な状況で戦闘を終了
させたのは、戦況の報告がほとんど上がって
こなかったので、敵を取り逃したと考えていた
からでした。

 敵の正規の機動部隊と考えていた栗田長官は、
足の遅い戦艦で追いかけても無駄だと考えたという
ことです。

 しかし、この考えには矛盾があります。栗田長官は、
レイテ沖海戦の目的は、敵の殲滅を含むと考えており、
機動部隊とぶつかったのであれば、これはいい機会と
なります。

 同時に、利根の乗員はレイテへの砲撃が作戦目的
だと考えていたので、黛艦長の行動も目的から外れる
ことになります。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 栗田長官からの命令 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 羽黒の支援に乗り出した利根は、羽黒の後ろに着くと、
「我、後尾につく」と信号を送り、砲撃戦を開始しました。

 利根の援護を受けた羽黒は、元気を取り戻し、前方の
空母に砲撃をして撃沈しています(サマール沖海戦で
撃沈したアメリカ軍の空母はガンビア・ベイのみですので、
撃沈したというのは誤報です)。

 羽黒は、さらに前方に3隻の空母を発見しました。
同じころ、利根は、5隻の空母を視界にとらえていま
した。黛艦長は、雷撃戦を考えましたが、利根の魚雷は
残り3本でした。これでは、戦果は望めませんでした。

 そこで、まだ魚雷があるだろう思われる羽黒に対し、
共同で雷撃戦を行うよう意見具申しています。羽黒は、
第五戦隊の旗艦で、司令官が座乗していたので、
黛艦長からは意見具申という形をとることになります。

 ところが、羽黒からは何の返事もなく、黛艦長は、
再度督促の信号を送りました。この時、羽黒には、
栗田長官から、逐次集まるようにと言う命令が下されて
いました。この後、黛艦長にも同じ命令がきています。

 羽黒は、黛艦長に返事することなく、旋回しています。
黛艦長は、この決定に納得していませんでした。

(追記)
 羽黒に乗っていた橋本司令官は、「水雷屋の橋本」と
言われていた、海軍で知らないものがいない、水雷の
名手でした。

 当然、黛艦長からの意見具申に対し、水雷専門の自分に
水雷戦を行えと督促するとはと感心しており、栗田長官の
命令がなければ、統制雷撃を命じるつもりでいました。

 橋本司令官は、ライオン艦長の異名をとる黛艦長が、怒る
だろうことは想像できましたが、致し方なく反転したというのが
実態でした。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 筑摩落伍 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 ガンビア・ベイを沈めた利根の前に、7000t級の
巡洋艦が現れました。これも、実は駆逐艦でしたが、
そんなことは、知るよしもない利根は、砲撃を開始
しました。

 ところが、さらに前方に空母を発見したので、途中から
空母に目標を変更しています。空母に斉射中、駆逐艦が
割り込んできたので、目標を駆逐艦に変更するという
忙しさでした。

 一方で、筑摩も、利根同様空母や駆逐艦に砲撃を
行っていましたが、艦尾に航空魚雷を受け、落伍して
います。これを見た黛艦長は、「則満さんもやられたか」と、
予感が当たったことを嘆いていました。

 (筑摩の最期は、野分で紹介しました通り、この後撃沈
しており、野分に救助された乗員は、野分が撃沈した時に
戦死しています。筑摩で助かった乗員は、1名だけとなって
います。

 第七艦隊は、利根のみとなりましたが、利根は前進を
続け、煙幕の切れ目から見える空母に砲撃を続けて
いました。この時、空母用にとっていた魚雷の存在を
思い出し、雷撃しています(戦果は不明です)。

 利根は、同じく僚艦が落伍したため単艦になっていた
羽黒を発見しました。羽黒は、駆逐艦3隻を相手に、
砲撃戦を行っており、これをみた黛艦長は、侠気が
湧き上がり、支援しようと考えました。

(追記)
 利根の水雷長は、海戦直前に病気で入院しており、
水雷も出来るとして黛艦長が兼務していました。

 しかし、愛宕が撃沈したことで、愛宕の水雷長が、
利根に乗り込んでいたので、代理で任せることに
しました。

 この水雷蝶は、空母用にとっていた魚雷を、空母への
攻撃の邪魔になる駆逐艦に撃つことを黛艦長に進言し、
駆逐艦を撃沈しています。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 ガンビア・ベイ撃沈 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 空母まで7kmまで近づいた利根は、ここぞとばかりに
砲撃を開始しました。負傷した黛艦長は、艦橋内で
軍医の治療を受け、杖をつきながら指揮をとって
いました。

 アメリカ軍の記録では、この時の空母は、ガンビア・ベイで、
初弾命中が8時10分となっています。この命中弾により、
速力が大幅に低下しています。この後も、1分おきに
命中弾を食らったようで、8時50分には、総員退去を
命じています。

 空母に命中弾を当てた艦は、近くにいた金剛や大和、
利根と一緒に突撃していた羽黒も当てたと主張していま
すが、もっとも当てたのは利根だったようです。

 この空母を沈めたのは、利根だと利根乗員は考えて
おり、日本軍の記録でも、利根となっています。

 傾斜しながら沈んでいくガンビア・ベイの有様を、
見張り員が拡声器で全艦に知らせると、歓声が
利根を包みました。

 黛艦長が負傷し、2名の死者と3名の重傷者を
出しながらの戦果でした。アメリカ軍の記録では、
沈没は9時11分となっています。

 巡洋艦が、砲撃戦で空母を沈めるという戦果が、
サマール沖海戦を、世界海戦でも指折りの珍事と
言われた所以と言えます。、

(追記)
 ガンビア・ベイが沈没しても、戦闘が終わったわけで
はないので、ガンビア・ベイから退艦した乗員は、
戦場の真っ只中で漂流することになりました。

 この時、日本軍の巡洋艦が近くを通りすぎましたが、
日本兵が、「気をつけ」の姿勢をとっていたと証言して
います。この時通過した巡洋艦は、状況から考えて
利根だと思われます。

 ガンビア・ベイは、800名ほどが退艦し、救助された
のは10月29日で、700名ほどでした。

 後に、生き残ったガンビア・ベイの乗員の証言が
まとめられ、ガンビア・ベイの活躍と同時に、利根の
奮闘も明らかになりました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘
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