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航空巡洋艦利根、筑摩 呉空襲 [航空巡洋艦利根、筑摩]

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 1945年3月19日の空襲で、停泊中の艦船にも
被害があったので、利根は江田島湾に回航する
ことになりました。

 湾内には、大淀が既にいましたが、かなりの損害を
受けていました。

 当初は、海軍兵学校に近い津久茂沖に停泊しましたが、
ここは深水があったので、浅い対岸の能美島小町沖に
前後4つの錨を入れて固定しました。ここなら浸水しても、
甲板より上に水がひたる恐れはありませんでした。

 4月6日、天一号作戦が発動され、大和と矢矧率いる
水雷戦隊が、沖縄に向かうことになりました。利根の
乗員は、「燃料さえあれば俺たちもついていくのに」と
思っていましたが、大和は片道燃料だと聞かされ、
いよいよ追い詰められたと感じました。

 利根については、座して空襲を待つのみとなって
しまいました。

 6月22日と、7月1日の大空襲は、多数の焼夷弾を
伴い、呉海軍工廠は潰滅、呉市内も焼け野原になり
ました。利根は、空襲のたびに、対空戦闘を行い
ましたが、効果はあまりありませんでした。

 7月24日、江田島内に停泊していた利根と大淀に対し、
機動部隊からの艦載機が襲ってきました。江田島の
兵学校には、この時、75期~77期の生徒8000人が
在校していました。

 利根と学校の距離は2kmほどしかありませんでした。
岡田艦長は、生徒の前でみっともないことをしては
いけないと、言い聞かせ対応に当たりました。

(追記)
 この日の戦闘は、江田島にいた生徒の一人の
乾尚文氏が、海軍兵学校の最期という著者で、
在校生との目で見た利根と大淀の最後の
戦闘を記しています。

 この方は、後に、防衛大学の教授として活躍しており、
著者も何冊かある方です。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘


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