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雷を退艦 [雷]

 雷は、あいかわらずジャンクの臨検を行っていました。
最後の1隻は、臨検隊の人数が少ないと見て、武器を
持って臨検隊に襲いかかってきました。臨検隊も
しかたなく応戦し、全員を射殺し、死体を海に
投げ込みました。

 投げ込んだ死体が雷の方に流れて来てしまい、偶然
艦橋に来た宮様に死体を発見されてしまいました。艦長
が事情を話すと、民衆の無益な殺害は許さぬとお怒りに
なられました。

 この夜、宮様は、40度の熱を発し、その状態が続くこと
になりました。これでは危険と見た軍医は、上海に帰投
し病院へ入院される許可を求めましたが、任務続行を
告げられ、許しは出ませんでした。

 仕方なく、司令部に打電して、指示を仰ぎました。司令部
からは、「雷は、司令官乗艦のまま横須賀に回航し、特定
修理を完了させ、次の命令を待て。電と響は任務続行」
という命令が下りました。

 艦隊命令ということで、急ぎ東京に向けて3日後に芝浦に
到着し、宮様を海軍病院へ送りました。しかし、回復せず、
宮様は、惜しくも薨去されました。大高氏も、陸上勤務を
命じられ、雷を退艦しています。

 駆逐艦の雷の紹介は、終わりにします。次回から、引き
続き、「第七駆逐隊海戦戦記」から、駆逐艦潮(うしお)を
紹介していきます。

(追記)
 大高氏の雷の記録に、宮様が入浴されるということで、
若い水兵と一緒に通路から覗き見したという記述があり
ます。

 大高氏は、先任下士官として、一応は止めているものの、
水兵の生涯の記念にという言葉におされ、覗いたという
ことです。宮様は近眼ということもあり、覗かれていた
ことにお気づきがなかったようです。

 宮様の乗艦は、他の駆逐艦ではあまり経験がないような
話題を振りまいていました。

雷内で下痢の流行 [雷]

 ジャンクを発見する前は、空も海も平和そのもので、
戦争もない状態でした。しかし、封鎖命令は実行する
必要があり、眠りながらやっていたというのが実態
でした。

 なので、ジャンクを発見したということで、艦内に
警報ベルがなると、みんなたたき起こされることに
なりました。

 そして、頼まれもしないのに、戦闘に関係ない機関科の
士官や軍医が艦橋に集まってきました。この人たちは、
眠気ざましのやじうま根性で来ているだけで、仕事を
しに来たとは明らかに違っていました。

 この頃、ジャンクは、積荷は没収、船体焼却、乗員は追放と
なっており、その通りに実行しています。追放された船員は、
口々に悪口や呪いの言葉を履き遠ざかっていきました。

 翌日、雷内で下痢の症状を訴え、若い三等水兵が次次に
診療所に駆け込んできました。艦長と軍医は、宮様の乗る
船で伝染病を流行させたとなったら、文句なしに軍法会議
でクビになるので、顔面蒼白となりました。

 ところが、よくよく原因を探ると、昨日のジャンクから押収した
積荷の黒砂糖に、若い三等水兵がありのように群がって食べて
いた事による食中毒と分かり、艦長は安堵していました。

 このような事件を起こしながらも、大陸封鎖作戦は続きました。

(追記)
 支那事変が長期化した理由の一つに、宣戦布告をせずに
戦闘になってしまったことが挙げられます。これは、この当時
日本は、アメリカから石油を購入しており、宣戦布告しアメリカ
を中立にした場合、石油の購入ができなくなるため、しません
でした。

 蒋介石も同じ理屈で、アメリカやイギリスから武器を購入して
いるため、宣戦布告で日本以外を中立にできなかったという
事情があります。このため、どこと戦争しているかが明確に
できず、泥沼化したという事情があります。

雷、宮様の保険上陸 [雷]

 大陸沿岸封鎖作戦を続けているうちに、宮様の衰弱が
ひどくなっていきました。保険上陸させようという話になった
ものの、宮様は、官人や民間人のお世辞を嫌い、補給や休養
のために寄港しても、上陸されたことはありませんでした。

 そこで、御付武官は舟山列島はかつて倭寇が根拠地として
活躍していた地であり、無人島なので探索遊ばれてはいかが
ですかとお勧めしました。宮様は、探索ということで興味をもた
れ、上陸することになりました。

 下士官が下見をし、農家が5件ばかりあるが危険はないという
ことでしたので、小銃で完全武装した10名で護衛をしながら、
御付武官と大高氏もお供を仰せつかり、小島に上陸しました。

 草原と岩だけの荒涼としている生物もいないような島でしたが、
宮様は、楽しまれ戦闘食も平らげていました。宮様の衰弱は、
船にい続けたことによる運動不足から生じていたようでした。

 この後は、宮様の健康も戻り、任務に励まれていました。
上海でのご負傷、青島での敵前上陸、蓮雲港沖の封鎖など
激務に耐えられていました。

 1938年3月またしてもジャンク船を発見し、臨検をかけることに
しました。

(追記)
 盧溝橋事件から始まった戦闘ですが、当初、陸軍のみが戦闘を行い
北支事変と呼ばれていましたが、上海で大山事件が起きたため、
海軍が介入し、陸軍も続けとばかりに南支那に関わるように
なってから、支那事変に名前が変更されています。

 教科書では、軍閥が戦争を拡大したといった記述になっていますが、
この当時は、陸軍と海軍は強調はしておらず、自分の縄張りに個々に
介入したため、戦闘の名前が変わるという現象が生じています。

 これを見ても、日本軍は無計画に進軍しているだけで、ヒトラーが
ヨーロッパで計画的に侵略していたのとは、全く違うことにないます。

雷、人買い船を捕獲 [雷]

 ジャンクに積まれていた大砲は、口径が5cmの明治
23年(1890年)に大阪で作られたものでした。大高氏は、
明治時代に日本でも大砲を作っていたのかと感心していま
した。古いとはいえ、弾丸と火薬があれば使用可能でした。

 「汝は海賊か」の問に、「海賊と戦うための砲だ」という回答
でしたが、このあたりの船は普段は漁船で、相手が自分より
弱ければ、海賊に変身する人たちである。結局、船内を徹底的
に調べろということになり、補給基地に曳航して捜索をしました。

 船底から7人の女性を見つけました。どうやらこの船は、
女性専用の人買船らしいということになりました。とんだ
ものを捕まえたと後悔しましたが後の祭りであり、処置に
困ることになりました。

 司令部の出雲に、人買い船を捕獲せりと打電して、処置を
確認しようとしたものの、「人買い船とは何なりや」という問い
合わせがきてしまい、返事に困ることになりました。結局、
錨泊を命じて、ほっておくことにしました。

 人買い船の船長が、「自分たちは何の罪も犯していない。
あの女たちは、正当な代価で購入したものである。今は餓死
寸前にあるので、釈放して欲しい」と懇願され、宮様の命で
釈放することになりました。

(追記)
 雷が哨戒していた杭州湾から、少し南下したところに
舟山列島があり、人目につかない格好の停泊地があり
ました。ここは、海賊の格好の巣窟となっていました。

 倭寇の「八幡船」もここを根拠に、大陸を荒らしまわって
おり、雷もここを封鎖部隊の秘密補給基地としていました。

雷、大型ジャンクを発見 [雷]

 雷の大陸封鎖作戦は、はてしなく続きました。恐るべき
単調、戦闘なき戦争、海を昼となく夜となく見つめるもので
人間の耐えうる極限を要求するものでした。

 雷は、駆逐艦としては、世界第一といっていい優秀な
性能と装備を誇り、外国の軽巡洋艦が相手なら、ひけを
とらないものでした。そのため、居住性は最悪で、兵器の
隙間に兵員室が設けられているという状況でした。

 通常港を出ると、3日で野菜や生魚等はなくなり、缶詰
や乾物のみとなります。大高氏は、人間は兵器の付属物の
扱いであり、500年前のコロンブスのアメリカ発見の航海より
ひどい生活だと記録しています。

 杭州湾を哨戒任務中、1隻の大型ジャンクを発見し、格好の
獲物とばかりに、「止まれ、然らば砲撃す」の国際信号による
警告を送りました。ところが、ジャンクは止まる様子がなく、
空砲で威嚇し、ようやく停船させることができました。

 近寄ると、積荷はなく乗員だけが30人位いました。面も、
服装も良くなく、一般の商業船とは思えませんでした。
艦長とジャンクの船長が筆談で問答をしている時、
面白半分に船内を見学していた雷の水兵が
大砲を発見しました。

 このジャンクは、海賊船ではないかという疑いを持つことに
なりました。

(追記)
 給糧艦間宮は、本来の任務は食糧の運搬ですが、他にも
特務艦として、いろいろな役割をこなしていました。

 身だしなみにうるさい海軍の方針を受けて、洗濯物を引き受け、
街のクリーニング屋以上にきっちり仕上げるということ行っていました。
限定的に医療施設や工作施設を設けており、治療や修理も対応して
います。優秀な通信設備を持っていたので、無線探知艦としての
機能も発揮するなど、広範な支援業務を行なった艦でした。

雷、七面鳥とお別れ [雷]

 栄養失調という診断に従い、栄養剤の注射を行いましたが、
これに頭にきたのか、これまで鳴き声すら上げなかったのに、
ギャーギャーと鳴き始め、乗組員を苛立たせていました。

 宮様が、これは船酔いではないのかとおっしゃられ、大高氏
もヤブ医者の診断より確率が高そうだと感じました。この後、
宮様から、「大高、これを東京に送りなさい」と命令され、
七面鳥殿は、転地療養ということになりました。

 とはいえ、雷は南シナ海のど真ん中で作戦行動中であり、
どうやって送るかを、お付武官や艦長と相談することになり
ました。そして、封鎖部隊の軍需品補給をやっている特務艦の
「間宮」に送ってもらうことにしました。

 間宮に「我に近寄れ」の伝令を送り、何事だと思いながら近づいた
間宮に、「東京 伏見宮邸行き」と名札がついた七面鳥の檻を、丁寧
に艦長室に入れ、佐世保に直行してもらうことにしました。最後は、水兵
たちは、七面鳥に別れを言っていました。

 この後も、大陸を封鎖するという馬鹿げた大作戦は果てしなく続き、
単調な生活でノイローゼ気味になっていました。問題を起こしたとはいえ、
七面鳥は、艦の刺激になっていたと思われます。七面鳥とお別れのとき
に言葉をかけていたのはその表れでしょう。この七面鳥は、上野動物園に
送られました。

(追記)
 給糧艦間宮は、艦これには使用することはできないNPCとして登録されて
いる、特務艦に分類される艦艇です。1924年に、日本軍初の給糧艦として
就役し、1944年12月に撃沈されるまで連合艦隊の胃袋を支えてきました。

 全食材の搭載量は、1,000tになり、13,000人の食事を3週間まかなえる
量を運ぶことができました。その他、豆腐やこんにゃく、モナカやようかん、アイス
クリームといった嗜好品を艦内で作ることができたので、間宮が寄港することは
将兵にとって楽しみであり、人気のあった艦でした。

雷艦内で、七面鳥を飼育 [雷]

 上海に陸戦隊を運んだ後、第六駆逐隊は、大陸沿岸の
封鎖作戦に就きました。文字通り、宣戦布告のない戦争
でした。黄海、日本海、南支那海を含む広大な海洋を、
封鎖し蒋介石に対する海外からの援助を断ち切ろう
という作戦でした。

 しかし、広大な範囲に及ぶので、労多くして効少なしの作戦
でした。この作戦に従事したのは、概ね駆逐艦ばかりでした。
来る日も来る日も、海を眺め、星を仰ぐだけという状態が続き
ました。

 ある日、付近の測量をしていた海防艦の「駒橋」に遭遇しま
した。駒橋の艦長は、宮様の御機嫌伺いにやってきて、一羽
の生きている七面鳥を持ってきました。宮様は喜ばれて、
大高氏に雷艦内で、七面鳥を飼育するように命じられ
ました。

 とんでもない話とはいえ、殿下の仰せとあればということで、
後甲板の一角に檻を作って飼うことにしました。この七面鳥殿
は、水兵の食膳にも登らないような豪華な食事を与えられて、
もてなしを受けました。

 ところが、七面鳥は食事には見向きもせず、水をすするだけ。
下痢の症状を起こし、日に日に衰えていきました。宮様にも、
隠しようがなく、艦内の軍医を呼んで、診察してもらい、栄養
失調という診断をしていました。

 大高氏は、人間の病気でさえロクにわかりもしないヤブ医者に
七面鳥の食欲不振の原因がわかるわけもないというひどい
記述がありますが、この時は、大高氏の評価が的を
得ていました。

(追記)
 支那方面艦隊の旗艦として活躍している出雲ですが、
出雲型装甲巡洋艦一番艦で、1900年に就役し、日露
戦争、第一次世界大戦で活躍しています。この時点でも、
就役して37年もたっていましたが、現役で活躍しています。

 終戦間際の1945年7月24日の呉空襲時に転覆するまで、
45年間も現役で活動し続けた艦です。

雷、陸戦隊の陸揚げ [雷]

 陸戦隊の陸揚げの時、支那方面艦隊の旗艦「出雲」は、
河の中央で停泊し、監視を行っていました。上陸する桟橋
の前面には、倉庫と幾百人かの労働者が見ていました。
この中を、完全武装の隊員が艦上から岸壁に移っていき
ました。

 この瞬間、どこかから飛んできた手榴弾3個が炸裂し、
陸戦隊が数十人が倒れました。労働者の中に便衣隊(ゲリラ)
が潜んでいたようです。駆逐艦から「撃て」の号令が飛び、
防空用20mm機銃が、群衆に向かって火を吹きました。

 大高氏は、この当時は戦争を英雄的ドラマに考えていま
したが、この初陣により、機銃掃射で桟橋に死体が並ぶ
光景は、英雄的ともドラマ的とも全く違い、悲惨という
レベルすら超えていました。

 桟橋の管理人らしい日本人が労働者を指揮して死体の
片付けをはじめました。片付けといっても河の中に放り
込むだけでした。生きている人も救急車が来た様子が
なく、放置されました。世界屈指の大都市の昼間に
こんな野蛮なことが行われる戦争という行為は、
醜悪の一言でした。

 こうして、戦火は大陸全域に広がっていったのでした。

(追記)
 上記の記録を見ると、機銃掃射した時、便衣隊とは違う人も
掃射された可能性がありますが、日本軍に責任はありません。
便衣隊は、ハーグ陸戦規定に違反する行為で、捕まえた場合
捕虜として扱う必要がないと定められています。

 理由は、上記のとおり、一般住民との区別がつかないので、
巻き添えを食わせる可能性が高いからです。住民が生活して
いる都市部での便衣隊は論外といえます。

雷、陸戦隊を陸揚げ [雷]

 砲台の下過ぎるという緊張の時間の中にいましたが、
砲台からの砲撃は一向にありませんでした。気負って
いるのはことらだけで、敵は無人のような沈黙を保って
いました。

 砲台の下を通りすぎても何事なく進んでいました。
右岸は、軍の工路があり、機銃がねらっている殺気を
感じました。一方、左岸は水田が広がり、鍬を手にした
農夫の姿も見えるのんびりした風景でした。

 上流から、海軍の旧式戦艦が2隻近づいてきました。
旧式とはいえ、駆逐艦のかなう相手ではありません
でした。川では、魚雷も使えませんでした。喧嘩腰で、
待ち受けていると、「貴艦の平和なる航海を祈る」と
いう国際信号が届き、唖然として見送っていました。

 敵の海軍は、上海事変は陸軍が起こしているもの
なので、我は関知しないという、日本軍と同じ体質
でした。日本軍も、大陸での戦闘は陸軍の縄張り
なので、海軍は、本来は傍観しているだけでした。

 しかし、海軍が縄張りとしていた上海で、海軍中尉が
惨殺され(大山事件と呼ばれています)たため、逆上
して陸戦隊を送っているというのが実態です。

 雷は、日本郵船の桟橋に横着けし、陸戦隊の揚陸を
行いました。この様子を、アメリカ、イギリス、イタリアの
艦隊が、錨泊したまま、監視していました。

(追記)
 上海は、世界屈指の自由貿易港で、東洋のカサブランカ
とも呼ばれた魔都でした。植民地主義的な各国の権益が
あるので、利権国が勝手に行政を行っていました。

 結果、上海は、謀略とスパイ、あくなき享楽と悪徳の街と
なっていました。

雷、上海に向け出撃 [雷]

 1937年8月、上海の在留邦人を保護する海軍陸戦隊は、
蒋介石の第十九路軍三万の大軍に包囲されており、戦闘
すれば3日と保たない危機的状況でした。支那艦隊方面
司令部は、急速な増援を要請したので派遣が決まりました。

 派遣されたのは、横須賀鎮守府麾下の第一特別陸戦隊
です。同時に第二特別陸戦隊に準備の命令が下されました。
この部隊の緊急輸送に、横須賀にいた第六駆逐隊が指定され
ました。

 駆逐艦は、身軽で小回りきくとので、このような緊急事態で
使われることになります。深夜ひそかに陸戦隊員を満載した
第六駆逐隊は、20ノットの高速で、上海に向け出撃しました。

 3日目の朝には、揚子江につき、遡っていました。8月の
大陸は灼熱の底にいるような暑さで、戦闘準備を完了した
駆逐艦内は、釜の中にいるような感じでした。そこに、白服だと
狙撃されるということで、ゴムの雨具を着せられたので、気が遠く
なるように暑くなっていました。

 上海は、揚子江の支流の黄浦江に入って20kmばかり奥にあり
ます。黄浦江に入るところに、日本製の15cmの旧式砲が装備
された砲台があります。宮様から、「取舵、右砲戦に備え」の
命令が下り、汗が引いていくのを感じました。

 大高氏は、距離300mの砲台の下を、矢のように突き進むことに
恐怖を感じ、タバコで落ち着けようとしても、火がつけられません
でした。

(追記)
 盧溝橋事件の後、東京の参謀本部は事件の拡大を嫌がって
いましたが、通州事件で日本人居留民が惨殺されると、世論は、
「支那を懲らしめよ」という雰囲気になっていました。これに乗っか
かるように、近衛文麿が煽っていたという背景があり、上海での
行動となっています。

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