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雷、伏見宮博義王殿下ご着任 [雷]

 友人達は、さっさと問題起こして退艦するのが身のため
だという無責任な助言をしていました。結局は、当たって
砕けろという気になりました。

 伏見宮博義王殿下ご着任の日、長身の胸に勲一等
旭日章の略章を着け、御付き武官帯同で、噂通りの
長いお顔に精悍な気をみなぎらせて乗り組んで
来ました。

 宮様のご乗艦となれば、艦長はその光栄に感激し、その
感激に迷惑するのが水兵達でした。甲板は塵一つないよう
に、金属は仏壇の金具のようにと磨けという厳命がされます。
しかも、褌一つで歩けば厳罰もの、艦内での合唱や猥談は
禁止、酒も許された時だけというお達しでした。

 冗談ではないというのが本音です。駆逐艦のような小型艦は、
一回航海すれば波をかぶるので、お寺の小僧のように雑巾がけ
ばかりしているわけにも行きません。飲酒や歌も禁止となると、
さすがの駆逐艦乗りも音を上げてしまいました。

 さらに追い打ちをかけたのが、怪しげな人は乗艦を許さず、
面会も身分証明のないものはまかりならぬとなっていました。
給料日にツケの催促に、料理屋の女将が殴り込んでくるのも、
艦内生活の潤いになっていましたが、これもなくなりました。

 8月の日曜日、宮様が上陸されずに艦内を散策されるという
ことで、水兵達は、暑いさなか制服を着せられ、人形のように
本などを読まされることになりました。

 艦内散策をしていた宮様が、あまりの静けさに不審に思い、
水兵の一人に「今日は、酒保はまだか」とお尋ねになられ、
「司令在艦中は、酒は一切許されないことになっております」
という一種の直訴をしていました。

 宮様は、直訴を受けた名君の行動通り、先任士官になぜ
兵達に酒保の許可をしないのかとお怒りになり、久しぶりに
愉しむことが出来たと記録しています。

(追記)
 伏見宮博義王殿下の父君の博恭王も、喧嘩早い型破りな方
でした。大佐時代、艦長として青森港に入港した時、そこにいた
陸軍第八師団とのいざこざで師団長相手に大喧嘩をやり、
皇族旗を振り回したという伝説化した逸話があります。

 このことで、明治天皇の怒りを買ってしまい明治天皇在任中は、
将官になれませんでした。このような父君だったこともあり、宮様は
海軍の飾りなどは許さず、最も厳しい艦隊の駆逐艦乗りをやらされた
ようです。

雷に乗艦 [雷]

 著者の大高氏が、1937年に第六駆逐隊司令部付として
雷に乗艦を命じられた時、第六駆逐隊は、日本海軍の華で、
雷を旗艦に、電(いなづま)、響(ひびき)の3隻で構成されて
いました。

 雷は特型駆逐艦と呼ばれ、艦形は荒野を疾走する流線型で、
世界初61cm魚雷発射管3連装3基、合計9本の魚雷を
集中発射させることができ、12cm連装砲3基の装備は、
他国の巡洋艦と対抗できるものでした。

 雷は、この当時、駆逐艦乗りなら誰でも一度は舵輪を握って
みたいあこがれの艦だったと記録しています。

 同じ駆逐艦乗りの友達にこの旨を話したところ、不敬罪で
軍法会議になるからやめとけと言われました。なぜ?と思い
訳をきくと、第六駆逐隊の司令官はウマハン殿下だとのこと
でした。

 ウマハン殿下というのは、伏見宮博義王のことで、面長で、
馬がハンモックを縦にくわえたように見えたことから水兵が
奉ったあだ名です。ウマハンの宮と呼ばれていました。
(このあだ名は不敬ではないのでしょうか?)

 皇族で海軍に籍を置く方は多かったのですが、通常は、
大型艦のサロンで飾り物的な海軍生活を楽しんでおられ
るますが、この伏見宮博義王だけは、駆逐艦に勤務して
いました。

 とはいえ、この当時の皇族は、法を超越した存在であり、
側近に奉仕するものはやかましい基準がありました。品行
方正、学業優秀は当然として、血筋も考慮されます。大高氏
は自分の出自は、北海の海賊の血を引く放蕩児と評しており、
選ばれたことに狼狽していました。

(追記)
 この当時、暁は第六駆逐隊には所属していませんでした。
暁が第六駆逐隊になるのは、「特型駆逐艦「雷」海戦記」の
著者、橋本衛氏が雷に乗船した後の、1939年11月となり
ます。

 暁型駆逐艦は、海軍軍縮条約の影響で、暁、響、雷、電の
4隻しかいないので、暁だけがいないのは寂しさを感じます。

雷、大陸方面での活躍 [雷]

 今回から、
著名:「第七駆逐隊海戦戦記」
著者 大高 勇治
出版 光人社NF文庫
を元に紹介していきます。

 著名にある第七駆逐隊は、艦これでもお馴染みの
朧(おぼろ)、曙(あけぼの)、漣(さざなみ)、潮(うしお)
の綾波型駆逐艦7番~10番艦が所属していた駆逐隊
です。

 著者の大高氏は、通信士として潮に乗船して、太平洋
方面で活躍していましたので、この著書は、潮の話が中心と
なっています。しかし、潮の前は雷に乗船しており、この時の
様子も記録されています。

 大高氏が雷に乗船していた期間は、1937年(昭和12年)頃
です。「特型駆逐艦「雷」海戦記」の著者、橋本衛氏は、1939年
4月に雷に乗り組んでいますので、時期的には重なっていないと
思われます。

 大高氏が、雷に乗り組んだ1937年は盧溝橋事件が発生し、はて
しない泥沼のような戦争の口火を切った年です。雷は、上海に派遣
され活躍しております。

 次回から、雷の太平洋開戦以前の大陸方面での活躍を紹介して
いきます。

(追記)
 大高氏は、盧溝橋事件で発砲したのが誰かわからないが、高くついた
小銃弾だったと記録しています。盧溝橋事件は、毛沢東が、日本軍と
蒋介石の軍を戦わせて疲弊させ、大陸全土を支配下に収める為に
引き起こしたというのが定説です。

 しかも、近衛文麿が、この毛沢東の作戦に協力するために、戦争を泥沼化
させたという疑いがあります。日本が、なぜ国土の大半を焦土とするまで
戦争を行ったのかということに関しては、徹底的な検証がなされたとは
思えず、再び同じ失敗を起こすのではないかという懸念があります。

雷、座礁事故を起こす [雷]

 巡検がないことに対し、橋本氏らの仲間内では船を
ぶつけて艦スケ、頭がおかしくなったんじゃないのと
いう嘲笑が出ていました。相変わらず慕われて
いないようです。

 夜食は汁粉ということでした。橋本氏らは、横須賀に
帰れるからという理由で赤飯を炊くわけにもいかない
ので、赤飯がわりかという邪推をしていました。

 夜食後、橋本氏が中継所に降りようとした時、ズシーン
という大きな音とともに振動が襲い、慌てて中継所に
飛び込みました。橋下氏は、魚雷が命中したのかと
思い、その旨を当直に訪ねました。

 返事は、陸に乗り上げたとのことです。甲板に出て確認
すると、砂浜に乗り上げてしまっていました。潜水艦の
奇襲攻撃なら対処できるように訓練していても、座礁
したときの対処は全く出来ておらず、驚き呆れるしか
ありませんでした。

 実際、橋本氏が立っていた前甲板の下は砂浜になっており、
渚に行儀よくかしこまって座っているような姿でした。重量物を
後部に移動させ、前を浮かせて後進を繰り返しました。竿で
つきはなすようなことまで行い、奇跡的に海に戻ることが
できました。

 橋下氏らは、こんな明るい月の下で、しかも灯台まで見える
位置で、なんで座礁したのか首をひねるばかりでした。実際は、
見張りは灯台を早くから見つけており、艦長の報告したものの、
そっちの方角に灯台があるわけないの一言で却下されたため、
近づいても黙っていたということでした。

 横須賀に到着後、橋下氏は、転属で雷をおりることになり、
手記は終わっています。雷は、橋本氏が退艦した約1年後
潜水艦に撃沈されています。

(追記)
 評価の低い前田艦長ですが、1943年11月以降、駆逐艦
磯風の艦長を勤め、操船技術で信頼を集めながら、大和特攻
作戦まで奮闘しています。

 前田艦長が着任してから、磯風は激戦をくぐり抜けており、
武勲艦と評価で得きるほどの実績を残しています。これらの
実績は、前田艦長の手腕によるといえるもので、無能な方
ではなかったと思われます。

 雷では、前任の工藤艦長と比較されたのが、不運だったと
いえます。

雷、横須賀へ出港 [雷]

 波にさらわれないように、腹ばいになりながら手すりに
しがみつき、前の方に出ていきました。艦首から4,5m
ほどがばっくり下に折れ、工作室の灯が見える状態
でした。その旨を報告すると、5,6m名が工作室に
向かい浸水に備えて補強にあたりました。

 若葉を見ると、士官室通路を防水作業のためにハン
モックを抱えて走る兵隊の姿が見られるほど大穴が
あいていました。

 居住区に戻ると、「これで帰れる。万歳」という声が
聞こえました。南にいたときは、そんな話は冗談の
ネタにしかなりませんでしたが、この海域にいると
同意したくなると橋本氏も記録しています。

 貴重な戦力が、戦闘によらない理由で損失したという
責任感は橋下氏らは持ち合わせていなかったようです。
帰れるという感情はまっとうなものなので、万歳しても
咎められはしないと考えていました。

 大湊に寄港し潰れた艦首に、鉄板のツギハギをして
4月3日に横須賀へ出港しました。茨城県の鹿島灘
あたりまで来た時、沈痛な面持ちの艦長を尻目に、
乗組員たちはウキウキした気分になっていました。

 本日巡検なし。夜食受け取れという珍しい号令がかかり
ました。厳格な艦長の指示で、巡検は戦闘配置以外の時は、
時化でも必ず行われていました。この後、とんでもないことが
起こり、さらに艦長は青ざめることになります。

(追記)
 駆逐艦若葉ですが、艦これに登録されている初春型三番艦
です。四番艦の初霜と一緒に行動することが多かった艦です。

 雷との衝突事故では小破で済んでいますが、この後に行われた
キスカ撤収作戦において、島に着く前に初霜と衝突し、修理の
ために撤退しています。

雷、若葉と衝突 [雷]

 再興を期して待機中の3月30日にの夜、風速30mの
暴風が吹き荒れ、阿武隈に行っていた司令を迎えるのに
苦労していました。この後も、風は強くなる一方だったの
で、走錨(錨を下ろしたまま、流されること)の可能性が
あり、抜錨することにしました。

 抜錨作業の為、錨甲板に出た橋本氏らは、海に吹き
飛ばされそうな危険の中、命綱をつけて困難な揚錨
作業を行いました。しかし、風圧のため、揚錨機の
限界を超え、抜錨できない状態になっていました。

 仕方なく、12ノットに機関を動かし、ようやく錨が揚がり
始めました。しかし、同時に行脚が強くなり、狭い泊地に
多数の艦艇が錨泊していたことと、風で操船がままなら
なかったことで、駆逐艦若葉の前部右側に衝突しました。

 衝突の直前、橋本氏は下を向いて作業しており、同僚
から「危ない、逃げろ」という怒鳴り声がして、背中を
叩かれた為、顔を上げたらしぶきの向こうに、駆逐艦
の艦橋がのしかかるように近づいていました。

 慌てて、艦橋の下まで転がるように逃げ延びたとき、
雷の艦首が若葉の右腹を深々と抉り取って、火花が
10m以上も高く上がるのを見ていました。

 「艦首の破損状況を調べろ」の号令にも、あっけに
とられていた橋下氏は、動けませんでした。「早く
処置しないと、時化で海に沈没してお陀仏だ」と
いう号令が飛び、橋本氏が確認のため艦首に
向かいました。

(追記)
 僚艦の電は、大戦前に深雪と衝突して、深雪を沈没
させています。旗艦の阿武隈も、大戦前の演習で北上
と衝突事故を起こしており、衝突事故は珍しい話で
ありませんでした。

 今回ぶつけられた若葉も、衝突事故は今回だけでは
ありませんでした。

雷、アッツ島沖海戦の砲撃に参加 [雷]

 第一水雷戦隊に敵の全砲火が集中しだすと、被弾運動の
ため速度を落とすことになりました。結果、全速力で退避
している敵との距離は、離れていったため、司令部から
突撃待ての命令が、ありました。この頃、雷の射程ギリ
ギリの距離に入ったので、雷は、砲撃を開始しています。

 6時45分頃、阿武隈、初霜も砲撃を開始し、那智たちと
敵をはさむ格好になりました。それに対し、敵は、煙幕を
はりながら、一斉回頭し、逃げ切ることに成功しています。

 この後、敵機が来るという虚報や、駆逐艦の燃料不足も
考慮し、追撃はせず、この海戦は終了となりました。この
海戦は、後にアッツ島沖海戦と呼ばれました。

 長時間にわたった海戦のため、燃料を大量に消費していま
した。そのため、アッツ島への突入は中止となり、船団ととも
に幌筵に帰投しています。

この海戦では、重巡洋艦那智と摩耶は、20cm砲を1611発
発射し、命中は9発というものでした。大量の砲弾や魚雷を
消耗しながら、決定的な戦果を得られなかったことが問題に
なり、第五艦隊司令官は、予備役編入となっています。

 橋本氏は、この結果に対し、実戦に参加もしていないで、
机上の空論を振り回す幕僚らには、腹立たしく我慢なら
ないと記録しています。

(追記)
 上記の橋本氏の意見はもっともであり、幕僚らが机上の空論を
振り回した作戦のために、膨大な損失をおって失敗している
ことも多々あるので、幕僚らを弁護する気にはなりません。

 しかし、この海戦については、スラバヤ沖海戦で同じ失敗を
しており、那智はその時スラバヤ沖海戦に参加して砲撃戦に
従事していたので、戦術展開に問題があったという非難も
的外れではないというのが実態です。

雷、敵巡洋艦との砲撃戦闘準備 [雷]

 橋本氏は、頭が働いていないということもあり、指揮伝令所に
訓練ではないのかという質問をしています。返答は、「訓練では
ない、戦闘」というものでした。これに対しても、橋本氏は、
艦隊戦は想定していなかったので、潜水艦か飛行機を
見つけたのかぐらいに捉えていました。

 この後、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、反航右砲戦の予定という
号令が来て、驚いていました。南太平洋で戦った同僚らは、
新人に対して、こっちの方が優勢だし、面白い戦闘が
見られると威張っていました。

 橋本氏は、ソロモンでの凄惨な光景を思い出し、恐怖に
包まれていました。「なんだみんな、青い顔して。しっかり
しろ」と気合をかけたものの、落ち着くことはありません
でした。こんな時は、動いていれば不安が消えるもの
ですが、距離が遠く、撃ち方はじめの号令はなかなか
来ませんでした。

 15分ほど経ってから、那智と摩耶が砲撃を開始し、水上
偵察機を着弾観測のために発艦させていました。第一水雷
戦隊は、旗艦の阿武隈が、燃料節約のため罐を1個にして
いたため、なかなか速度が出ず、那智達に引き離されること
になりました。

 那智と敵艦との距離は20kmと、巡洋艦でもギリギリの
距離であり、雷は射程外となったため、橋本氏は見物と
なりました。アメリカ軍は、劣勢と見て、退避する動きを
見せ煙幕を貼りながら、離脱を図っていました。

 第一水雷戦隊と軽巡洋艦の多摩は、敵の頭を抑える
コースをとり、那智から分離しました。そうなると、第一
水雷戦隊にも、砲撃がくることになりました。午前6時に、
全軍突撃せよの命令が下りました。

 3時間近く焦らされた、橋本氏らも生気が満ちてきました。

(追記)
 この海戦で、那智は遠距離からの射撃となりましたが、敵巡洋艦
ソルトレイクシティを大破させ、那智自身は小破ですんでいます。
軽巡洋艦多摩は、敵弾2発を浴びるものの、被害は軽微でした。

雷、アッツ島への輸送護衛任務 [雷]

 1943年3月11日に、アッツ島への第一船団の輸送が
成功し、3月22日に北方部隊全力をあげての護衛のもと
第二次増勢作戦が決行されました。

 北方を担当したのは第五艦隊です。旗艦は重巡洋艦の
那智で、他に重巡洋艦摩耶、軽巡洋艦多摩、第一水雷
戦隊の阿武隈、若葉、初霜、雷、電で、輸送船2隻を
護衛していました。

 3月25日に上陸する予定でしたが、天候が悪く荷揚げは
不可能でしたので、延期されました。2日経過した3月27日
に、平穏になり、雷では、午前3時に総員起床し戦闘訓練を
実施しました。

 これに先立ち、殿の電が、午前2時に敵を発見し第一水雷
戦隊司令部に報告していましたが、ちょうど味方の艦隊と
合流するころだったので、味方の艦と勝手に判断し、
第五艦隊司令部には報告していませんでした。

 午前3時20分に、雷で戦闘訓練が終わり、橋本氏らはもう一眠り
しようかと話していた頃、戦闘配置に付けの号令がありました。
この時阿武隈が、敵巡洋艦2隻と駆逐艦4隻を発見したので、
伝令してきたということです。

 しかし、橋本氏はこんな島の近くで敵艦と出会うということは想定して
おらず、また訓練かという程度でした。おまけに、連日の時化で食事も
まともにできず、防寒着も着用しなければならないという状態だったので、
緩慢な動作でした。

(追記)
 軽巡洋艦多摩は、艦これに登録されている球磨型二番艦です。
1918年の就役とだいぶ古いということもあり、輸送任務などに
従事していたことが多いかった艦です。

 この作戦も、輸送任務だったので参加していたと思われますが、
のちに海戦と判断されており、数少ない戦闘への参加例となり
ました。

雷、甲板整列が復活 [雷]

 シラミと船酔いで当直も満足に立てないという士気の沈滞を
回復させようと、戦争が始まってからやらなくなっていた、甲板
整列が復活しました。甲板整列は、規則で決められた日課
ではなく、伝統的な慣習で、躾教育の場です。

 善行賞(3年間無事に勤務すると1本付与される)が、1本も
ない一等兵、二等兵、三等兵を整列させ、1本でも持っている
ものが、列外で1日のもろもろの事柄について反省会をする
ものです。

 とはいえ、整列している方は、直立不動で、2,3時間立って
いることになり、名指しで態度が悪いと指摘されたものは、
棒で叩かれることになるので、辛い時間となっていました。

 橋本氏も若い頃は、戦争状態でないため、甲板整列を体験
しており、これさえなければ海軍は過ごしやすいと言っていま
した。一方で、人格形成には意義があり、制裁も自分が悪いと
思えることであるので、反感などはなかったといっています。

 かつて、第一水雷戦隊は、阿武隈を旗艦とした駆逐艦16隻の
陣容だったものが、今は、第二十一駆逐隊(若葉、初霜)、
第六駆逐隊(雷、電)、第九駆逐隊(薄雲、朝雲、白雲)という
有様でした。

 任務も、2隻ぐらいが交代で、輸送船の護衛や、警戒などが
主なもので、水雷戦隊は過去の夢となっていました。

(追記)
 雷は、今は電と一緒の行動しています。第六駆逐隊の旗艦暁
は、ソロモン海戦で司令官ごと沈没し、響は、修理は完了した
ものの水雷戦隊に編入するまでに性能を回復させることが
できず輸送船の護衛任務をこなしていました。
(詳細は、「響、護衛任務に復帰」をご参照ください)。

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