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海防艦205号、マニラ出港 [海防艦205号]

 海防艦205号は、200名ほどの陸兵を載せて、
マニラを出港しました。この航海は、台風に会う
こともなく順調な航海を続け、岡山県の玉野港に
入港しました。陸兵は、ここで下ろされ、故郷へ
帰って行きました。

 海防艦205号の乗員も、大半が召集解除となり、
江口氏も、退艦することになりました。1945年12月
20日でした。江口氏が、舞鶴海兵団に入団したのは、
1944年2月5日でしたので、1年10ヶ月の軍隊生活でした。

 退艦するとき、おにぎり2食分と、乾パン2袋、魚の
缶詰5個、清酒1本を、艦から支給され、いいお土産
ができたと感じていました。

 海防艦205号を退艦する時は、名残惜しいという思いは
しなかったものの、まだ残っている人達が居るので、
目立たないようにしていました。

 同じ方向に向かう同僚2人と一緒に、故郷の新潟まで、
列車で帰って行きました。途中、宮内駅で、同僚二人とは、
再会を約束して別れ、江口氏は、故郷の小千谷まで乗り
継いで行きました。

 帰宅した江口氏は、分厚い布団に潜り込み、思いきり
手足を伸ばして、束縛から解放されたことを実感しました。
しかし、揺れることもなく、機関の音もしない静寂な大きな
部屋でなかなか寝付けなかったと記述し、著書は終わって
います。

 なお、海防艦205号ですが、復員輸送後の1947年7月31日
中国に引渡されています。

(追記)
 戦後、防衛庁で、海防艦205号はなぜ沈まなかった
のかと、話題に上がったことがあったそうです。佐伯
訓練隊にいた海防艦12隻のうち、205号以外は
全て撃沈しており、話題になるのも当然と言えます。

 艦長の卓見と乗員の奮戦により、1名の戦死者も
出さずに生き残った205号は、何かによって生かさ
れていたと感じると江口氏は、あとがきで締めくくって
います。

海防艦205号、マニラで陸軍兵を収容 [海防艦205号]

 マニラについた海防艦205号は、岸壁にいる原住民
らしい浅黒い顔をした40最前後の男の集団が、腰を
かけているのを見つけました。彼らは迷彩服を着て
おり、大きな袋を各自一つづつ持っていました。

 服には前後に“PW”の文字が描かれていました。江口氏は、
なんの作業をする人達なのかと首を傾げていましたが、隊長
らしき人が話はじめ、「はーい」という返事を聞いて、日本人
だということを知りました。

 “PW”は、捕虜という意味で、海防艦205号は、この人達を
引き取りに来たということです。この人達は、江口氏が原住民と
間違えるほど変わっていたということです。飢餓に苦しめられて
いたようで、足は、枯木の棒きれのようでした。

 江口氏は、この足でどうやって乗艦してきたのかと思うほど
衝撃を受けていました。しかも、40歳前後と考えていたのが、
実は20代だったということを知り、いかに飢餓の戦場をさま
よい苦しんでいたかを見せつけられたように感じました。

 海軍はひもじい生活ではあったものの、3度の食事は取る
ことができました。江口氏は、乗り込んできた人達(若き
陸軍兵)に対し、「ご苦労さま」と「ゆっくり静養してください」
という言葉を、心の中で願わずにはいられませんでした。

(追記)
 マニラを離れる時、収容した陸軍兵のひとりが、
「さらばマニラよ」と口ずさむと、別の兵がさえぎる
ように「二度とくるもんか」と吐き捨てるように叫んで
いました。

 ガダルカナル島やマニラなど、陸軍は過酷な場所に
派遣され、戦闘以外の理由で死ぬことになっています。
これを見ても、本土の司令部の作戦がいかにめちゃ
くちゃだったかが分かります。

海防艦205号、2回目の引き揚げ [海防艦205号]

 海防艦205号は、2回目の引き揚げ任務のために、
フィリピンのマニラに向かいました。1945年1月に、
船団を率いて、激戦地のリンガエンに突入しようと
していたのが遠い過去のように思われていました。

 船団護衛中に引き返すことになったバシー海峡を
抜け、マニラに接近しました。左舷前方に、青く霞んで、
緩やかに起伏する山と、細長く伸びた半島が見えて
いました。ここが、緒戦で苦戦したバターン半島でした。

 艦長従兵である江口氏は、艦長からの「両舷前進微速」
の命令を復唱して、通信機を通じて機関司令室に伝える
という任務を行いました。ちょうどこの頃、マニラ湾に入り、
右舷にコレヒドール要塞島が見えてきました。

 マニラ湾に入ると、何十隻という沈没船が、マストを墓標の
ようにして林立していました。傾いている船や、船首だけの船、
焼けただれた船橋や煙突を残して擱座しているものなど多数
ありました。しかも、見えているのは比較的大型の船なので、
小型船はどれだけ沈んでいるのかと思われました。

 海防艦205号は、これらの沈没船の間を蛇行しながら、仮に
設置された桟橋に向かい、無事たどりつくことができました。

(追記)
 コレヒドール要塞島は、スペイン統治時代から、
マニラ防衛のために全島全て要塞とし構築された
島です。後に、アメリカが、さらに大規模な改築を
行い、マッカーサーはここに立てこもって必死に
日本軍に抵抗しました。

 江口氏が来た時は、何事もなかったかのように熱帯の
強い日差しの中で、静かに眠っているように見えました。

この状態を、奥の細道の、
“夏草や つわものどもが 夢の跡”
という句で表現しています。

海防艦205号、台風の中を内地に帰還 [海防艦205号]

 海防艦205号は、招かれざる客である台風が
おこす荒波に揉まれながらの航海となりました。
艦体が軋む不気味な音が絶えず響き、難破
するのではないかと気になるような航海でした。

 江口氏は、乗艦して1年になりますが、艦の
揺れにまだ慣れませんでした。この時は、
江口氏が苦しんだ最初の東シナ海の
季節風より激しいものでした。

 江口氏は、食事は1日1食お粥だけしか食せま
せんでしたが、以前ほど苦しむことなく、1週間
任務を果たしていました。

 この時、一緒に乗艦していた同僚と、後に再開した時、
この時の台風を、「戦争じゃ生き残れたが、この航海で
難破して死ぬかと思っていた」と述懐しています。

 この台風を抜けた時は、日本に到着していました。
右に大隅半島、左に薩摩半島を見ながら、海防艦
205号は、鹿児島湾に入って行きました。

 子供たちの何人かは、湾に入る頃には、甲板で
はしゃいでいました。桜島が噴煙をたなびかせている
ところが見える頃、大人たちも甲板に出てきました。

 この当時の日本は、文字通り、“国破れて山河あり”の
状態でした。江口氏は、引揚者たちが、この故国を
どのように眺めていたのかと思い巡らせていました。

(追記)
 引揚者が降りて行く時、江口氏は、「本当にご苦労さん
でした。頑張ってください」と励ましていましたが、長い
台風で疲れきっていたのか、江口氏の言葉になんの
反応も示さなかったと記録しています。

 一方で、佐竹艦長も、ここで海防艦205号を退艦して
います。艦と200名もの乗員の命を守り通して無事
退艦できたためか、退艦するときは、帽子を振り
ながら、乗員の盛大な見送りを受けていました。

海防艦205号、内地への引き上げ [海防艦205号]

 海防艦205号では、引揚者の苦労に報いるために、
艦長の発案で、慰労会が催されました。飲み物は、
カルピスとサイダーでした。江口氏ら乗員は、一番
外側にいました。

 主婦たちは、恥ずかしさで、何もしませんでしたが、
子供たちに何かやらんかと急き立てていました。
小学生くらいの少女が、トップをきって、ダンスを
しながら歌っていました。

 お世辞にもうまいとは言えなかったとものの、国防色(緑)
の服しか見ていない、女性から隔絶されたところで生活して
いた江口氏は、少女のピンクのワンピースが艶やかに映った
と記録しています。

 翌日、日が昇ると、直ちに出稿準備に取り掛かりました。
出港して3時間くらいたったころ、艦尾に安置していた
遺体から死臭が立ってきました。灼熱の太陽の下で、
鋼鉄の艦に乗せている以上当然とも言えます。

 遺体は内地に届けるつもりでしたが、致し方なく水葬に
しました。乗員、引揚者全員で合掌して冥福をお祈り
しました。

 出発した日の夕方から強風が吹き出し、波も高くなって
きました。左の方には、不気味な黒雲が膨らんで、横に
広がって行きました。これは、熱帯性低気圧が発生した
ためでした。

 この低気圧は、台風に変わり、海防艦205号は、
この招かれざる客と一緒に内地まで行くことに
なりました。

(追記)
 江口氏は、催し物の中で、小学校4,5年生の少年が、
堂々と詩吟を行っていたことに感心していました。その時、
吟じていたのは、下記の詩で、少年の両親がこの詩を
口にしながら入植したと思われます。

男児立志出郷関 学若不成死不還 埋骨豈惟墳墓地 人間到処有青山
(大意)
 男子は、ひとたび志を立てて故郷を出たら、学が成就しないうちは
何があっても故郷に、帰ってきてはならない。
骨を埋める場所を、故郷にすることを望むものではない。
どこに行っても、墓地となる青く美しい山はあるのだから。

海防艦205号、ダバオに移動 [海防艦205号]

 1週間停泊した海防艦205号は、ダバオに
回航せよの命令が届きました。ダバオは、
フィリピン第二の大島ミンダナオ島に
ある港で、日本人も入植していました。

 ダバオには、夕方に到着しました。夕食もすんで、
涼を取っていた頃、岸壁から女性の集団の悲鳴が
聞こえました。邦人が、原住民に襲われたのかと思い、
探照灯を照射してみましたが、分かりませんでした。

 カッターを降ろして、下士官たちが確認に行きました。
帰ってきた下士官に聞いてみると、引揚邦人を運ぶ
水陸両用車が、故障して沈没し、引率の米軍中尉と
数名の邦人が溺死したようでした。

 その後、海防艦205号に、仮死状態の40歳ぐらいの
女性が運ばれてきましたが、蘇生させることはできません
でした。

 海防艦205号には、引揚者約250名が乗艦してきました。
大半は、30~40歳ぐらいの婦人と子供でした。幼い子供も
いましたが、衰弱がひどく、船の中で亡くなっていきました。

 引揚者は、着のみ着のままで、粗末な夏のワンピース一枚を
身につけているだけでした。

 荷物も小さな風呂敷が1枚くらいで、鍋やカップ一個と
いう人もいました。これが彼女たちの全財産であり、
日本軍とともに敗戦の戦場をさまよい全てを
失ったと思われます。

 江口氏は、これらを気の毒に思うと同時に、ご苦労様
でしたということしかできませんでした。

(追記)
 引揚者の中に、現地で食料を始め全ての物を
自分の国の軍隊に強奪されたとなじるものがいま
した。

 海軍にはそのようなことをする者はいないと弁明
していましたが、このような弁明をしている海軍の
記録は当てにならないと思われます。

 「海軍には、陸軍と違って、リンチはなかった」という
ことをで書いている海軍出身者がいますが、私が紹介
した著者のなかにリンチと言える暴力を受けた人が存在
します。このような記述には注意する必要があります。

海防艦205号、敵国人との接触 [海防艦205号]

 使者が帰った後、海防艦205号は、岸壁にいる
彼らの貨物船に横付けしました。貨物船では、
物珍しそうにしていた若者が7,8名手すりに
よりかかって、好奇の目で見ていました。

 江口氏は、気まずさから視線を逸らして避けるよう
にしていました。ところが、海防艦205号からも
7,8人出てきて、手すりをはさんで見合いを
していました。

 言葉が通じない上に、1mくらいの距離が
離れているので、苦笑いしているだけでした。

 艦の周辺では、水着の白人男女が、モーターボートを
乗り回してときおり冷たい視線を投げかけていました。
貨物船の乗員は、明らかに見下した態度であり、
馬鹿にした面構えでした。

 あげくに、誰かが使っていた扇子を勝手に持って
いってしまうということまでしていました。江口氏は、
癪に障るものの敗者では喧嘩にもならないという
思いがありました。

 同時に、扇子に書いてある、「米英撃滅」の筆字が
気になりました。読めはしないだろうとは思っていた
ものの、気がかりだったと記述しています。

 このような出会いではあったものの、停泊している
タクロバン港には1週間停泊することになり、時間が
経つにつれて親しくなっていきました。

 同時に、船室にある女性の写真、だらしない服装、
水着姿の男女の戯れを見るうちに、こんなことをして
も戦争に勝てることに、勝利のためには禁欲を
課してきたことが馬鹿らしく感じていました。

(追記)
 江口氏は、絵本や雑誌で西洋人というものについての
知識をつけていましたが、間近に見るのは始めていう
こともあり、観察しています。江口氏が見た敵国人は、
①体格は良いが人相は悪い。
②彫りの深い目は猿のようで、青いガラス玉のような
  目玉は見えるのかと疑った。
③鼻が高すぎて、転んだら危なそうだ。
といったものでした。 どう読んでも、好印象とは程遠い感想です。

海防艦205号、終戦後初めて敵国人との対面 [海防艦205号]

 海防艦205号が停泊している時に、かつての
敵軍が内火艇で近づいてきました。ついこの間
まで、憎しみ合い、激しい闘志で戦いあってきた
彼らでしたが、今は何をされても抵抗することも
できないと思うと、顔を合わせるのも嫌でした。

 近づいてきたのは、二人の作業服を着た
男性で、階級章はありませんでした。江口氏は、
相手は日本軍に対して憎しみを持っており、威を
借りて傲慢な態度に出るものと予想していました。

 しかし、使者は予想に反し無表情で淡々として
いました。江口氏が見守る中、佐竹艦長は堂々と
英語でまくし立て、20分くらいで話は終わりました。

 江口氏は、使者が帰っていくとき、内火艇のエンジンが、
突起物を踏むだけで簡単にかかるのを見て、日本軍の
使用しているものとの違いを見ていました。日本軍の
内火艇は、手でクランクすることでエンジンをかけて
いたので、始動するのが困難でした。

 帰り際、江口氏がもやいを解き放すと、「サンキュー」と
言って手を挙げてくれました。戦いが終わって1ヶ月
そこそこので始めて会った敵国人でした。

 しかし、そこには憎しみや傲慢な態度はありませんでした。
江口氏は、勝って驕らずの平常心があると考え、さすが勝者と、
“この時は”、思っていました。

(追記)
 使者が帰ったあと、艦長に話の内容を聞くと、硫黄島で
かつてない死者を出したといっていたようです。硫黄島の
戦闘は、これまでの水際撃退から、地下へ張り巡らした穴を
利用して、島へ上陸させて、戦うという方法を取っています。

 アメリカ軍は、徹底的な艦砲射撃と十分な兵力で攻撃を
仕掛け、日本軍は玉砕したものの、アメリカ軍の死傷者は、
日本軍より多かったという結果でした。

 アメリカ軍が、本土上陸を避けたかったのは、本土で
硫黄島の戦いと同じことをされたら、どれだけの被害が
出るか分からなかったという面があったと思われます。

海防艦205号、レイテ島での停泊 [海防艦205号]

 海防艦205号は、レイテ島に到着しました。
ここで、現地の人がカヌーで近づき、拳を上げ
たり、歓迎しない罵声と仕草で迎えられました。

 江口氏は、日本人がこれほど現地で憎まれて
いるとは思ってもいませんでした。江口氏は、艦長
から、上陸の許可をアメリカ軍に申請たが、「降りても
いいが命の保証はない」と言われ断念したという話を
聞かされました。

 結局、何の指示もないまま、3日ほど沖に仮泊して
いました。

 熱帯の地ということで、午後の太陽はきつく、甲板は
素足では火傷するような熱さになっていました。江口氏
は、プライパンの上で生活しているようだと記述しています。

 夜になっても気温は下がらず、風が流れる露天の甲板
に行ってみると、先客がたむろしていたという状況でした。

 停泊中は、故郷へ帰れる日を楽しみに、身の回りの
整理にいそしんでいました。運用料ということで、帆布を
支給され、一人がその帆布でリックサックを器用に作り
上げていました。

 江口氏も真似をして作ってみましたが、生地が厚い
帆布を縫い合わせるのに一苦労しました。普段なら
投げ出していた江口氏も、これを持って故郷に帰れる
日を楽しみにしていたこともあり、毎日暇を見てせっせと
作っていました。

(追記)
 レイテ沖海戦の一つで、駆逐艦時雨だけ生き残った
スリガオ海峡夜戦ですが、沈没艦の乗員は、近くの島に
上陸していました。しかし、上陸後に、原住民の襲撃を
受けて殺害され、生き残ったのは10~数十名とも伝え
られています。

 この当時は、原住民も日本軍に対し、敵対心を持って
いたということを示すエピソードです。

海防艦205号、艦を操舵してみる [海防艦205号]

 海防艦205号は、障害物のない無限大の海を航行
していました。舵輪を動かないように固定しておけば、
まっすぐ進んでいきそうな状況でした。

 このような考えをしていた時、兵曹から江口氏に、
舵をやってみろという命令がきました。下士官の
権威は、戦争が終わったとはいえ絶大であり、
命令ならば受ける必要がありました。

 指示は、コンパスの目盛から指針を外さない
ように、舵輪を左右に回せば良いというもの
でした。

 江口氏は、舵輪を握ったことは一度もなく、恐る
恐る握ることになりました。握ると、安定していた
指針が、何もしないのに右にずれ始めました。

 正そうと左へ回したものの、一向に戻る気配が
ないどころか、さらに加速度的に右にそれていき
ました。

 左がダメなら右へと舵輪を動かしてみると、当然、
さらに指針が加速することになりました。右も左も
ダメならと、左へ大きく動かしました。すると、指針
の動きが鈍くなり、止めることができました。

 指針を元の方向に戻そうと、左へ回し続けると、
今度は、指示された方向を超えて、反対側に
向き始めました。

 命令した下士官は、同僚と雑談をしていましたが、
蛇行する艦に気づき、江口氏を押しのけて、舵輪に
飛びつき、事なきを得ました。

 江口氏は、巨艦に振り回されて、10分あまりの
操舵で、操舵手失格となりました。

(追記)
 舵輪は、操舵手が握ることになりますが、港への
入出は、艦長の指示で、行うことになります。この
とき、ブイでぴったり静止させる必要がありますが、
操舵に慣れていない艦長だと止めるこれができま
せんでした。

 港への入港となれば上陸できるので、操舵が
下手で、行き過ぎたり、後進のかけすぎという
ことが起こると、貴重な時間が無駄になるので、
艦内からブーイングが起こることになります。

 操艦が上手い艦長は、必然的に人気が高く
なります。
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