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海防艦205号、引き揚げ1回目 [海防艦205号]

 海防艦205号は改装されて、乗員は全部兵員室に
まとまりました。大砲や爆雷を降ろしていたので、多くの
バラストを艦底に運び入れました。前部の両乾舷(水面
に出ている部分)に日の丸をペンキで書き入れました。

 小型タンカーが、アメリカ軍の支給品だといって、油を
補給していきました。海防艦205号が戦地にいるときは、
ドロドロした重油を使っていましたが、この時補給を
受けた油は、軽油の濃いような色をした粘着性の
低いものでした。江口氏は、燃料からして違うこと
に驚きをもちました。

 江口氏がの身近で一番変わったと感じたのは、生活でした。
朝夕の訓練はなく、兵器の整備作業もない、生死の緊迫感も
ないところで、食事は質、量ともによくなったため、わずかの間
に体重が5kgも増えることになりました。

 9月20日、引き揚げ1回目として、フィリピンに向け、舞鶴を
出港しました。ついこの間までは、港を出ればすぐそこは生死
をかける戦場でした。今は、日米が互いに撃沈し合った
修羅場の海も、広大無辺の静かな海が広がっていました。

変化のない果てしない単調な航海が続きました。

(追記)
 この航海の途中の日没後、船の明かりに吸い寄せられた
飛魚が艦橋やマストにあたって、甲板に落ちてきたことが
ありました。

 数十匹もの飛魚の鱗が、艦のライトの下で飛び跳ねている
のをみて、これこそ天からの贈り物とばかりに、手空きの
乗員総出で、飛魚の手づかみをはじめました。

 これは、爽快なもので、しかも翌日の食卓を潤すことになり
ました。

海防艦205号、引き上げ輸送を命じられる [海防艦205号]

 舞鶴に来てから数日間は何もすることなく過ぎて
行きました。何もすることがないと、これからどうなる
のかが心配になってきます。

 保安隊に回されるという話から、爆雷要員は、
掃海作業に使われるという噂までありました。

 しばらくすると、兵器の取り外しが行われました。
大砲が降ろされ、機銃は海に遺棄されました。
砲弾や爆雷は、陸に返上されました。

 海防艦205号の乗員は、全員一階級特進し、
江口氏も、二等兵曹になりましたが、大して
嬉しさは浮かびませんでした。

 海防艦205号は、特別輸送船として、海外に
残されている邦人や兵士の引き上げ輸送を行う
ことに決まりました。航海に必要な人員以外は、
故郷に帰れるということになりました。

 帰れるなら一日でも早くというのが人情でした。
しかし、故郷に帰れる人は、補充兵や招集兵、
故郷の事情などが勘案されて、決められました。
海防艦205号には、50名位が残ることになりました。

 江口氏は、5男坊ということで、海防艦205号に
残って、引き上げ輸送に従事することになりました。
掃海作業よりはましだと考え、すぐに故郷に帰る
ことは諦めました。

 江口氏は、退艦した艦長従兵の代わりに、艦長を
お世話することになりました。しかし、艦長は、いまさら
従兵を持つ気はなく、江口氏は、従兵としてはほぼ
何も出来ませんでした。

(追記)
 乗員は、誰しも生きて故郷に帰れると思っていません
でした。日々、不利になる戦局を思い、命の綱が細く
なって、かろうじてつながっていたようなものでした。

 それが一転して故郷に帰れるとなり、退艦者は、
大喜びで荷物をまとめ、振り向くことなく退艦して
いきました。艦に対する愛着より、1日でも早く
故郷に戻るが優先されていました。

海防艦205号、母港の舞鶴に帰還 [海防艦205号]

 海防艦205号は、小樽港に入港して指示を待つことに
なりました。相変わらず情報が混乱していて、落ち着け
ない日々を過ごしていました。そんな折、8月24日に、
「各艦は急遽、母港に回航せよ」の緊急電を受けました。

 連合艦隊は、8月24日の午後4時より、100t以上の
船舶の航行を禁止していましたので、直ちに小樽を出港
し、母港の舞鶴に向かいました。

 舞鶴港に入ってまもなく、湾内に入っていた浮島丸が
触雷し、大きな船体がV字に折れ、艦首と艦尾を空に
突き立てて、沈んでいくところでした。

 海防艦205号は、救助作業を妨げないように、速度を
落として、ゆっくりと近くを通り過ぎました。細長い湾内を
進んでいくと、両岸に爆撃で沈んだ艦艇の艦橋やマスト
が海面に出ている姿を見かけました。

 舞鶴の工廠は、江口氏が新兵として訓練していた時は、
溶接の火花や金属音で騒がしかったのですが、今は見る
影もなく死んだように静かになっていました。爆撃により
破壊された鉄骨の残骸が無残な姿を残していましした。

 これらの傷跡を見ながら、海防艦205号は、入港制限
時間一杯に、母校の舞鶴港に入港することができました。

(追記)
 舞鶴港で沈んだ浮島丸は、4700tの船で、朝鮮労働者や
その家族を満載していました。

 この事件は、昭和52年のNHKドキュメンタリー「爆沈」として
全国に放映され、海防艦205号の佐竹艦長も証人として出演
しているようです(確認は、とれませんでした)。

海防艦205号、機密書類の焼却 [海防艦205号]

 軍艦旗が燃え尽きるのを待ちかねていたかのように、
次の号令が下りました。カッターを用意し、機密書類を
カッターに移す作業でした。

 指揮官の怒声もなく、機敏に黙々とカッターを
着水させると、書類が手渡しでポンポンと投げ
込まれました。

 通常このような作業は、下級兵が率先して行う
ものですが、この時は下士官が下級兵を押し
のけて、驚く程の機敏さで動いていました。

 機密書類は、敵に捕獲される前に処分して
おこうという算段でした。

 積み終わると、カッターは断崖の方へ向かい、
そこにあった小さな砂浜に機密書類を投げ
込みました。

 この砂浜は、海からしか見ることができない
場所で、1隻の漁船もいない静寂な場所に
来た理由がこれでした。

 そして、直ちに焼却を始めました。赤い炎が
黒い煙とともに、人の間から見え隠れして
いました。黒い煙が次第に薄くなり白く
なると、風に流され上空に消えて行きました。

 江口氏は、この様子を死者の荼毘に似ていて、
海防艦205号の葬送の煙と感じていました。

 この時、始めて負けたのだという実感が胸に迫り、
万感の思いに涙がどっと溢れてきました。

(追記)
 この時、江口氏は、この屈辱と怨念はいつか晴らして
やるという復讐心となって凝縮されました。復興に何年
かかるかは分からないものの、その時歳をとった自分が
戦えるかという思いが出ていました。

 しかし、この激しかった復讐心は、アメリカの寛大な
占領政策により、次第に薄れていったと記述して
います。

海防艦205号、軍艦旗焼却 [海防艦205号]

 終戦の放送を聞いてから数日後、海防艦205号は、
静かに航行していました。午前10時頃、それほど遠く
ない左舷方向に、緑の陸地と100m位の断崖がある
場所へ来ました。江口氏はここがどこかは、分かりま
せんでした。

 辺りには、海防艦205号だけで、1隻の漁船も見当たらず、
静寂な場所でした。数日前まで、数時間後の命の保証でき
ない環境で、無我夢中に過ごしてきた江口氏には、この
静寂は、異様に思えて、この世の全てが活動を停止して
しまったかに映りました。

 「総員集合」の号令がかかり、これからの運命に不安を抱え
ながら、甲板に上がっていきました。普段なら旧兵が怒声で
せき立てていますが、この時は、誰ひとり声を発することもなく
粛々と集合していました。

 艦長が粗末な箱の上に立ち、話し始めました。江口氏は、
「戦争は負けることもある」という最初の言葉を発した艦長の
姿は鮮明に覚えているものの、「くれぐれも早まった行動は
取らないように」という最後の言葉以外は、記憶にないと
記述しています。

 訓示が終わると、オスタップ(桶、バケツの海軍での隠語
だそうです)が用意され、総員が見守る中、軍艦旗を油に
ひたして、オスタップの中で火がつけられました。

(追記)
 軍艦旗を燃やすという行為は、軍艦としての使命を
終えたことを意味します。この旗のもとで、3回もの空襲
に耐え、僚艦が次々に沈没していく中、一人の戦死者も
出さずに戦争を切り抜けた海防艦205号の終焉でした。

 江口氏は、軍艦旗が燃えるときは、漠然と燃えるのを
眺めていただけで、何も浮かばなかったと記述しています。

海防艦205号、終戦を迎える [海防艦205号]

 8月15日に、海防艦205号は、沖合から
港の岸壁に横付けして、上陸が許されま
した。士官の訓示は、今まで聞いたことも
ない力の抜けたぼそぼそとした話しぶりでした。

 最後に、今日の正午に、天皇陛下の重大放送が
あるので、みんな聞くようにと行って訓示が終わり
ました。

 江口氏は、天皇陛下の言葉は、全艦の総力を
挙げて敵艦隊に対して、最後の敢行をせよと
いうご命令だと思っていました。

 そして、この命令ならば、今までのような蛇の
生殺しのような闘いを続けるより、そのほうが
遥かに良いと思っていました。

 江口氏は、上陸して賑やかなところを探して
いましたが、何もない漁村でしたのでぶらぶら
しているだけでした。

 しかも、ラジオを聞こうと思って、あたりを探した
ものの見つからず、ラジオを聞きそびれてしまい
ました。

 帰艦して初めて戦争に負けたことを聞かされま
した。聞いた直後は、本艦はまだ戦えるのにと
いう思いがありましたが、時間が経つと負けて
しまったということを実感し、死ななくていいんだ
とほっとしました。

 一方で、敵軍からの虐待を受けながら、3年~
5年はアメリカの農場で重労働でもさせられると
考えていました。

(追記)
 海防艦205号では、終戦のラジオを聞いたとき
一人の士官が、自決しようとして、仲間の士官に
止められるという事件がありました。

 艦長も自室にこもり、中から鍵をかけてしまいま
した。艦長も自殺するのではと思い、当直の士官が、
従兵に監視を命じています。

 艦長は、艦の処置と乗員の処遇などに対する
責任があるので、自殺する気はなく、この後、
指示をもらうべく、各地を回ることになりました。

海防艦205号、燃える燃料タンク [海防艦205号]

 海防艦205号は、室蘭での戦闘後も、近海を航行する
船舶の護衛と敵潜水艦の掃討を続けていました。室蘭
戦闘後も、僚艦の沈没を何度か耳にしていましたが、
205号は、敵機にも敵潜水艦にも合わずに済んで
いました。

 江口氏は、水兵長に昇進し、下級兵士の時より余裕が
あったため、物思いにふけることができるようになっていま
した。とはいえ、戦争中に物思いにふけっても、命がおしく
なるだけで、雑念が胸中を去来してやまなくなりました。

 8月14日、室蘭から石炭を満載した貨物船を護衛して、
秋田県の船川港に入港させました。この日の夜、油田
地帯が爆撃を受け、巨大な貯油タンクがつぎつぎに
誘爆炎上してゆくさまを望遠鏡で見ていました。

 ナイアガラの滝を逆さに立てたような横に切れ目のない
赤い炎が、暗い夜空を焦がしていました。誘爆を繰り返す
たびに、赤みを帯びたオレンジ色の巨大な炎発生させ、
渦を巻きながら上昇していました。

 江口氏は、日本の都市が空襲で焼かれていることは知って
いたものの、燃えている様子はみたことがありませんでした。
焼き尽くす赤い炎は、戦国時代の落城を思わせ、乗員の心
を暗くしました。

 江口氏は、どうにもならない戦局を思い、祖国の悲運に涙して
いました。

(追記)
 江口氏は、幼少期軍国主義教育を純粋に受け止め、神国日本
を信じ、日本が行う戦争はすべて聖戦だと疑いもせずに育って
いました。

 このころも、政府の言う聖戦を疑わず、神風によりこの大戦に一大
異変が起きて、戦局を一挙に挽回し、最後は勝つと思っていたと
記述しています。国を守るという公民教育は絶対必要なもの
ですが、これは行き過ぎと言えます。

海防艦205号、室蘭艦砲射撃 [海防艦205号]

 空襲から一夜明けた7月15日に、室蘭にある製鉄所に
艦砲射撃を喰らいました。戦艦ミズーリ号以下6隻の
戦艦は砲列をしいて一斉砲撃で撃ち込んできました。
その時撃ち込んだ砲撃は、2000発にもおよびました。

 絶え間ない轟音は雷鳴のようにとどろき、大地は地震の
ように震えました。江口氏は、地球が壊れていくようにうめき
のように聞こえていました。この轟音は、数10km四方に轟き、
艦砲射撃の物凄さを知らされました。

 巨弾を打ち込まれた製鉄所は、溶鉱炉をはじめ、建物全体
が徹底的に、破壊されました。悠然と立ち続けていた煙突も
崩れ落ちていきました。上空には、3機の飛行機が飛んでおり、
弾着の修正をしていました。

 江口氏は、なすすべもない状況を見守りながら、敵の艦隊が
沿岸に来ているという状況を嘆くしかありませんでした。北海道が、
艦砲射撃を受けたということは、いつ本土に上陸されてもおかしくない
ということでした。

 江口氏は、「海軍は何をしている」という声が聞こえてきそうで、
死すべき最後の時が来たと感じたと記述しています。何とかして
一矢報いたいという思いに駆られていましたが、当然、江口氏に
突撃せよの命令は、来ませんでした。

 海防艦は、いかに戦闘を避け、護衛任務に徹するかを考える
艦であり、戦闘を行うような重装備は、ありませんでした。
海防艦205号は、連合艦隊が壊滅したため、最前線で
戦いに巻き込まれているだけでした。

(追記)
 戦艦の使用方法として、陸に対する艦砲射撃というのは有効な
方法と言えます。日本軍も金剛と榛名が、ヘンダーソン基地に、
900発もの砲撃を行い、一時的とはいえ使用不能にしています。

 海軍は、陸軍が敵地を占領する時の支援が本来の任務であり、
艦隊決戦は、その過程で起こるものに過ぎません。アメリカ軍は
これを認識しており、戦艦の運用方法を研究しています。日本軍も
この発想があれば、戦艦も活躍できたと思われます。

海防艦205号、佐竹艦長の対応 [海防艦205号]

 江口氏は、これまで海防艦205号は、高雄、香港、
今回の室蘭都対空戦闘を行い、僚艦は撃沈して
いるにも関わらず、被弾を免れている事実に、
205号を強運な艦だと評しています。

 海防艦205号が、被害を受けにくかったのは、強運
の他に、佐竹艦長の適切な判断によるものです。

 佐竹艦長は、投錨するとき、艦をどこに置いたら、対空
戦闘時に安全で、こちらが有利になるかを常に考えて
投錨していました。その判断が適切だったといえます。

 高雄では、3隻まとめて投錨した時、敵の猛攻を受け
危険を察して、転錨しています。香港では、この時の
教訓を生かし、単艦で投錨しています。まとまると
戦力が増強する分、目立つことになり攻撃の目標
とされてしまいます。

 室蘭では、単艦で大型クレーンのそばに投錨して
います。これは、攻撃する敵機にとって邪魔になる
ため、攻撃目標としては最後になります。実際、
海防艦205号に襲いかかってきたのは、最終
段階でした。

 一緒にいた、海防艦2隻はあっさり撃沈されている
ので、205号が攻撃を受ければ撃沈していました。
しかし、敵機はここまでで弾を使い果たし、最終
目標の205号まで襲う余裕はなくなっていました。

(追記)
 江口氏は、昭和62年に戦友会で談笑していた時、
水平長の、「俺たちが今こうやって元気でいられる
のは、佐竹艦長のおかげだ」という言葉があり、
納得していました。

 この時、佐竹艦長が生きておられれば敬慕されて
いたと思われますが、佐竹艦長は、昭和54年に
なくなっています。

海防艦205号、室蘭での対空戦闘後 [海防艦205号]

 江口氏は、戦闘終了後、戦闘の様子を確認しています。
海防艦205号に襲撃してきた敵機に対し、突入させまいと
全艦対空砲火で弾幕を浴びせていました。狙う余裕はなく、
敵機に向けて撃ちまくっていました。

 熾烈な戦闘は約1時間続き、弾切れか燃料の限界の
ためか、早々に敵機は引揚げていきました。海防艦
205号のみ残して潮が引くように去っていった感じ
でした。

 海防艦205号での被害としては、一人目が一番砲塔に
いた兵曹が、爆風で顔面を血だらけにしたことです。また、
航海長が左二の腕に弾丸を浴びていました。その他、
軽傷者が何人かいましたが、死者はいませんでした。

 航海長は、江口氏と同じ爆雷要員の水長と、電探要員の
上水の二人に、乗員が見守る中、担架で運ばれていき
ました。気丈な航海長は、声ひとつ立てず静かでした。

 艦長は、最大の補佐役である航海長が、担架で運ばれる
のを見て、叱りつけるように「だから艦橋におれと言って
おいたのに」と痛恨に耐えぬといった風でした。

 死者がいないというだけで奇跡的なことですが、艦長と
しては重傷者でも悔しかったようです。

(追記)
 江口氏は、戦後35年後に205号の乗員と靖国神社で会った時、
この時担架を運んでいた電探要員の上水と顔を合わせ、205号
にこんな人いたかなと、お互いに首をひねっていました。爆雷は
艦尾、電探は前部なので互いに顔を合わせる機会がなかった
ためでした。

 この時、江口氏は平凡なサラリーマンでしたが、相手は、建設
会社の社長をしており、貫禄も十分だったと記録しています。
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