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巡洋艦大淀 被弾の真相 [巡洋艦大淀]

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 3月20日、夜が明けました。だが、 艦中の一部はまだ燃え続けていました。  工作科の人たちが、急いで作った棺に、 英霊の遺体が次々に納められました。 直撃を受けた第二機関室には、多くの 遺体が砕け散っていまいた。  この戦闘で、大淀は、52名というかつて ない多くの犠牲者を出してしまいました。 機銃分隊の大尉が、敵機の銃弾を受けて、 「これくらいの傷で俺は死なんぞ。」と 言っていましたが、病院に運ばれ、 まもなく出血多量で、散華されました。  大淀は、これまで、対空戦闘には絶対の 自信を持っており、内地に軍港でこのような 手痛い損傷を受けるとは、夢にも思って いませんでした。  休暇中で4分の1の欠員があったとは いえ、それが原因で迎撃の砲火を鈍らせる ようなことはありませんでした。しかも、敵機は、 伊勢や日向と言った大型艦に向かっていたので、 大淀が襲撃されるまでにはかなりの間がありました。  小淵氏は、大淀が被弾した真相を、後に 聞きました。大淀は、襲撃を受ける前、艦長は、 内田副長が回避できないことを説得していた にもかかわらず強引に出港し、敵機の集中 砲火を浴びたということでした。  これは、対空砲火で対応できたようでしたが、 艦の前方に江田島が迫っていました。上空に 敵機がないことを確認し、右へ回頭しましたが、 そこに、山陰から現れた数機が、大淀を 襲撃しました。  回頭中は、艦が揺れて補足しにくくなるので 発砲はできませんでした。こそして、一発目の 至近弾で浸水し、二発目は缶室を直撃し、 誘爆を防ぐため弾薬庫に注水し、そこにいた 弾薬庫員は全員戦死しました。  さらにもう一発直撃を受けました。大淀が はじめて受けた傷痕でした。明らかに艦長の 責任といえます。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男


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