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駆逐艦萩風 駆逐艦というもの [駆逐艦萩風]

 駆逐艦は、戦前は夜戦が訓練目標となって
いました。真っ黒な海岸に、一切の灯火を
隠して、全速力で、緊密な編成を保持
しながら、敵主力部隊に肉迫し、魚雷を
持って襲撃するというものでした。

 レーダーはなかった時代なので、唯一の
頼りは肉眼でした。敵より先に相手をとらえ、
距離、速度、動勢を察知して、機先を制した
攻撃を加えていきます。

 この刺し違え戦法こそ、駆逐艦の主任務と
していました。駆逐艦は、この戦法を実現する
ために、教育され、訓練されました。

 しかし、いつの頃からか、刺し違え戦法が、
信念となってしまいました。そのため、
戦法に対する反省をしなくなって
いました。

 日清戦争の際は、魚雷艇が襲撃の効をなして
います。日露戦争でも、日本海海戦で、バルチック
艦隊を破り、水雷艇が、敵を追撃して、捕捉して
いました。これらの体験から離れなかったと
いえます。

 本来、水雷艇は、主力艦である戦艦の主砲
不足を補う事が目的でした。決戦前夜に夜襲を
かけ、敵を混乱に陥らせる事が、最初の任務でした。

 夜戦で効果がなかった時は、昼間の砲撃戦の
最中に、機を見て雷撃し、味方主力艦の砲戦を
有利に運ぶ事が、次の任務でした。

 しかし、太平洋での海戦では、このような
戦法をとれるような場面はなく、訓練は、
空振りに終わっています。

(追記)
 駆逐艦は、小型艦と言われていますが、
訓練時は、敵からの距離2kmまで近づいて
雷撃するようになっていましたが、これだけの
運動をするには、大きな艦でした。

 駆逐艦が33ノットで、旋回すると、1.8kmの
輪が出来ます。2kmというのは、旋回する直径と
同じ位あった事を示しています。


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著者:倉橋 友二郎(くらはし ともじろう)

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駆逐艦萩風 萩風撃沈 [駆逐艦萩風]

 不意をつかれた魚雷による攻撃を、最初に
萩風が受け、続いて嵐と江風も相次いで
被雷しました。時雨にのみ、魚雷が
当たりませんでした。

 魚雷が命中したことを確認したアメリカ軍は、
主砲による砲撃を開始しました。最初に撃沈
したのは、江風でした。江風は、燃えている
ところを、さらに4本の魚雷を撃ちこまれ、
沈没しました。

 日付が変わった8月6日、午前零時10分、
嵐は、真っ赤な炎を上げながら海中に没して
いきました。さらに8分後、萩風も大爆発を
起こし、沈没しました。

 撃沈の様子を、アメリカ軍は、「火山の噴煙の
ごとく、燃えながら水面から姿を消しました。」と
記しています。1隻だけ残った時雨は、アメリカ軍の
追撃を受けたものの振り切り、3隻の喪失を報告
しています。

 アメリカの駆逐艦は、時雨に逃げられた後、
日本駆逐艦の沈没地点に引き返し、生存者を
捜しました。何人かは発見したものの、日本兵の
ほとんどは救助を拒んでいます。

 翌日まで救助活動していたものの、途中で
中止され、アメリカの駆逐艦は引き揚げて
いきました。この海戦で、アメリカ軍は、損害
なしに対して、日本軍は、1500人もの戦死者を
出すという一方的な敗戦に終わっています。

 日本軍は、この海戦により、コロンバンガラ島
への補給作戦を中止し、撤退が決定されました。
フィリピンからインド洋、太平洋、アリューシャンなどの
海域をめぐって海戦を繰り広げた萩風の悲劇的な
最期でした。


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駆逐艦萩風 ベラ湾夜戦 [駆逐艦萩風]

 修理が終わり、ラバウルに来ていた萩風にも、
コロンバンガラ島への輸送任務の命令が
下りました。

 1943年8月5日、ムンダが陥落し、対岸にある
コロンバンガラ島に兵力と糧食を至急送り込まな
ければなりませんでした。アメリカ軍は、この
日本軍の行動は予期していました。

 萩風と嵐、江風の3隻は、人員と糧食を搭載し、
時雨が警戒に当たる事になりました。この4隻は、
レーダーを装備していませんでした。しかも、
敵状についても、ほとんど情報がありませんでした。

 実は、7月12日夜、コロンバンガラの海戦
以後、アメリカ軍は、レーダーを装備した新鋭の
駆逐艦を戦場に配備していました。

 そして、6隻の駆逐艦と、魚雷艇をコロン
バンガラ島の南側にある海峡に配備し、
レーダー射撃による夜間魚雷攻撃の
チャンスを狙っていました。

 日米には、準備段階でこれだけの差が
ありました。


 8月5日、アメリカ軍は、南から海峡に入り、
日本軍は、北から目的地を目指しました。
午後11時33分、アメリカ軍は、レーダーで、
10海里先にいる、日本の駆逐艦4隻を
発見しました。

 魚雷攻撃には最適の距離と判断した
アメリカ軍は、8本の魚雷を放ちました。
海面の視界は4kmであり、互いの姿を
肉眼で確認することはできませんでした。

 そのため、この魚雷攻撃は、日本軍に
とっては、不意打ちを食らった格好に
なりました。

 最初に魚雷を食らったのは、萩風でした。
静寂の海面に、大音響が起こり、強烈な
閃光が、闇夜を貫きました。


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著者:倉橋 友二郎(くらはし ともじろう)

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駆逐艦萩風 コロンバンガラ島への輸送作戦 [駆逐艦萩風]

 ガダルカナル島から撤退した後は、
アメリカ軍は、ラッセル島を占領
しました。

 戦線が、ソロモン列島中部に移り、ムンダ、
コロンバンガラ島の争奪戦になると、駆逐艦が、
立役者になってきました。倉橋氏は、この
あたりでの開戦が、駆逐艦戦闘の華だと
しています。

 しかし、1943年5月8日、コロンバンガラ島
南側のブラケット海峡で、物資輸送に従事
していた駆逐艦陽炎、黒潮、親潮の3隻が、
敷設された機雷に触れて撃沈し、満潮のみが
帰還するという損害を出しています。

 機雷作戦に見事に引っ掛かったという事に
なりますが、ソロモン方面での機雷により被害は、
これだけに終わっています。

 7月5日、コロンバンガラ島への補給目的を
持つ新月(にいづき)以下の10隻の駆逐艦は、
アメリカ軍の巡洋艦以下7隻と交戦しています。
この海戦で、新月と長月が撃沈しています。
アメリカ軍は、巡洋艦1隻が撃沈しています。

 この数日後に起こったコロンバンガラ島沖
海戦では、両軍が、電探・雷撃・砲撃を駆使した
壮絶な海戦となりました。

 これらの海戦では、物資の輸送は、一定の
成果を上げているので、作戦目的は達成して
いる上に、戦術的にも勝利したと言える海戦
でした。

(追記)
 新月は、秋月型の防空駆逐艦で、艦これには、
現時点では登録されていません。上記の
海戦では、電探を搭載しての初出撃と
なりました。

 しかし、敵の集中砲火を浴び、秋月型の中では、
最も寿命が短い艦となっています。


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駆逐艦萩風 奮闘する駆逐艦 [駆逐艦萩風]

 萩風が、内地で修理を受けている間、
ガダルカナル島とその周辺では、数次に
わたる海上の激戦が続きました。

 この海戦の中には、戦術的には勝利と
言えるものが数回ありましたが、あくまで、
制海権が一時的に入ったというレベル
でした。

 制空権は、これらの海戦で奪還することは
できておらず、輸送任務は、航空機が
飛ばない夜にやらざるおえない状態
でした。

 そして、制空権が敵の手にあるうちは、
制海権も、夜が明ければ無条件で、敵の
手に行く事になりました。

 さらに海戦の様相も、変わってきました。
1942年10月10日のサボ島沖海戦では、
初めてレーダー射撃を受け、駆逐艦吹雪、
巡洋艦古鷹が撃沈しています。

 敵の制空権が奪還できないことから、
補給増援は、駆逐艦や潜水艦が担い、
多数の犠牲が出ています。

 このような状況から、1932年2月には、
ガダルカナル島からの撤収作戦が実施され、
見事に成功させています。

(追記)
 ガダルカナル島の攻略は、どのような戦略が
あって実施されたのか、不明確な作戦だと
いえます。

 オーストラリアを封鎖するということであれば、
中途半端な位置であり、制海権と制空権を
とれるように進軍しなければ意味はない
といえます。

 ガダルカナル島攻略だけでなく、日本海軍は、
太平洋でどのような戦略を実現しようとして
いたのか、全くつかめず、勝利できなかったのは
当然といえます。

 現在の、ロシアの北海道方面への南下や、中国の
海洋進出などの危機が考えられますが、どのような
戦略で臨むのかを考える上で、太平洋で戦った
これらの海戦は、「どのような作戦は無意味な
ものになるか」を示す、教訓になっていると
いえます。


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駆逐艦萩風 岩上艦長 [駆逐艦萩風]

 萩風の岩上艦長は、ミッドウェー海戦前に
退艦した井上艦長の後任として、萩風に
着任しています。温厚な人で、滅多に
人を叱るような事をしない方でした。

 ガダルカナル島からトラック島に引き上げる
途次、戦死者の水葬をするときは、艦長は
正装をして目を真っ赤にしていました。

 死体を包んだ毛布を一つ一つまくって、
死体をあらため、丁重に見送っていました。

 トラック島で、応急修理を受けている間、
岩上艦長は退艦し、後任の畑野健二中佐と
交代しました。

 萩風は、トラック島で応急修理を終えた後、
1本のスクリューのみで、本土に向かいました。

 しかし、八丈島付近で、その1本の推進軸が
脱落し、東京湾から迎えに来た駆逐艦峯風
に曳航され、横須賀に帰投する事が
出来ました。

 浦賀のドックで修理と員員補給を急ぎ、
整備を完了して再び出撃できるようになった
のは、1943年7月でした。

 萩風の修理に、1年近くかかった事になり
ます。修理が完了すると、ラバウルに向けて
出撃しました。

 萩風が、この後本土に戻る事はありません
でした。これが最後の出撃となりました。

(追記)
 井上艦長は、萩風退艦後、駆逐艦隊司令として
着任し、駆逐艦檜(ひのき)に乗艦しています。

 檜は、1945年1月5日に、仏印のサンジャックに
向けて、回航していましたが、その後消息不明と
なっています。岩上司令は、この事から1月8日付で
戦死と認定されました。


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駆逐艦萩風 横着の功名 [駆逐艦萩風]

 倉橋氏は、自分の失態で砲撃できなかった
件に対して、どれだけ叱られるかと、おどおど
しながら、有賀司令に一礼して頭を下げました。

 すると、有賀司令は、「さすがに偉かった。
軍紀厳正だ。」とほめられました。その上、
褒美としてウイスキーをもらうことが出来ました。

 倉橋氏はおろか、一緒に来ていた岩上艦長も、
キツネにつままれた思いでした。

 実は、昨夜の砲撃については、萩風以外の
3艦が発見したとしているものは、明瞭ではなく、
雲か島を誤認した可能性もあったということでした。
無闇に鉄砲をという無駄撃ちだったかもしれない
という話でした。

 敵地にあって警戒中、勝手に眠ってしまう
というミスをして、軍紀破壊のお叱りをこうむる
と思ったところ、逆に軍紀厳正とほめられた事に
なります。横着の功名でした。

 ウイスキーぐらいなら、事実を白状しなくても、
罪にはならないだろうと考え、艦長と倉橋氏は
顔を見合わせ、苦笑しながら、そのまま無言で
帰ってきました。

 萩風に戻ると、戦死者の水葬をする事に
なりました。信号兵が吹き鳴らす「水漬くかばね」の
ラッパが、涙をそそりました。毛布に包まれた死体は、
焼け縮んでおり、子供のように小さな身体になって
いました。

 昨日まで元気に談笑していた人達が、肉親に
知られることなく、南半球の海底深く沈んで
行きました。

 萩風は、舵故障のまま微速力で、トラック島に
たどり着きました。トラック島の環礁に入ると同時に、
左舷のスクリューが、軸もろともに抜け落ちました。

 幸運であり、僥倖といってよいほど恵まれて
いました。


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駆逐艦萩風 被弾後の航海 [駆逐艦萩風]

 萩風は、左旋回中に爆弾を受け、舵が
故障して効かなくなったので、同じ場所を
ぐるぐる左へ旋回し続けていました。

 このままでは、敵艦や敵機と出会えば、
撃沈されてしまう事になります。そこで、
苦肉の策として、2本あるスクリューのうち、
1本を前進、1本を後進として、回転数を
微調整しながら、所要の方向に進む事に
しました。

 何とか、酔っ払いの千鳥足のような感じでは
あるものの、進む事が出来ました。速力は
3ノットであり、敵機に出会ったら、なぶり
殺しになるのは確実でした。

 最も、倉橋氏は、スクリューが2本とも
つながっていた事が幸いだったとして
います。どちらかが折れていたら、
進むことはできませんし、艦尾は
外れていただろうとしています。

 この悲報を受信した嵐は、急いで駆け付け、
萩風に付添ってくれました。タイボ岬の東方に
たどりついたのは、午後7時でした。

 入江を見つけて、錨をおろし、舵の取り付け
部分を分解して、舵を中央に戻して固定
しました。

 嵐は、萩風に横付けしてきました。被害状況
報告のため、岩上艦長と倉橋氏が、嵐にいる
有賀司令に報告に行きました。

 倉橋氏が、艦長についていったのは、昨夜、
萩風のみ発砲しなかった事に対する謝罪が
あったからでした。

(追記)
 萩風が停泊したタイボ岬は、敵機の行動範囲
でしたが、この時点では、飛行場は本格的に
稼働していませんでした。

 第一次ソロモン海戦において、アメリカ軍は、
艦艇には被害が出ていたため、両軍が上陸した
後の戦域にもかかわらず、停泊する事が出来ました。


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駆逐艦萩風 敵機発見 [駆逐艦萩風]

 陸からの砲弾は届かないことが分かり、
気楽に構えていましたが、敵機は、
決まって午後2時に姿を現すので、
出現を待っていました。

 すると、予想通り、午後2時に、敵機1機が
姿を現しました。飛行場は完成していないと
聞いていたので、着陸試験で飛行場に
侵入するのか、地上と連絡を取るためかと
考えていました。

 しかし、敵機は、かなり低空を飛行しながら、
萩風の方に近づいてきました。萩風では、
「対空戦闘。撃ち方はじめ」の号令がかかり、
砲撃が開始されました。

 敵機は、爆撃針路の入り、次第に姿が大きく
なりました。そして、3個の爆弾を投下しました。
機銃も応戦し始めましたが、届くはずもなく、
景気づけにしかなりませんでした。

 萩風は、爆弾を回避すべく前進をつづけ
ましたが、1発が、艦尾右舷に、命中しました。
激しい振動が起こり、倉橋氏は、背後の鉄板に
嫌というほど、頭をぶつける事になりました。
この爆弾で、萩風は、舵が効かなくなりました。

 倉橋氏は、後甲板に駆けつけてみました。
そこには、小山の様に盛り上がった甲板が
見えました。さらに、その先には、艦底まで
ぽっかりと大穴があいていました。

 艦艇は、両舷の薄い鉄板で繋がっている
ような状態でした。さらに、推進機である
スクリューが回転しているのが丸見え
でした。

 この爆撃で、萩風は、33名の戦死者を出し
ました。しかも、舵は、左に向いたまま壊れて
しまったので、同じ場所を旋回するだけと
なっていました。

 敵機は、ゆうゆう去っていきました。


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駆逐艦萩風 魚雷艇撃沈 [駆逐艦萩風]

 魚雷艇を沈めると、他の魚雷艇を追って
砲撃しました。追撃時は、砲弾が命中し、
4隻の魚雷艇を撃沈しています。

 その間、ツラギまで7kmの距離まで
迫っていました。残りは、逃げ込んで
しまったようでした。

 魚雷艇が逃げ込んだあたりを、双眼鏡で
確認すると、入江に陸兵50人ほどを乗せた
揚陸用舟艇が、水すましのように動き回って
いました。

 萩風は、この舟艇に目掛け、砲撃を開始
しました。敵は機関砲で応戦してきました。
昼間なので、敵の星条旗がはためいて
いるのが、手に取るように見えました。

 真っ赤な曳光弾が、萩風の方に飛んで
きました。倉橋氏は、不気味な気がしたと
しています。

 そうこうしていると、萩風の砲弾が、舟艇の
機関に命中したのか白煙が噴き散りました。
舟艇は変針し、陸に乗り上げるように動いて
いき、やがて木陰に入って見えなくなりました。

 萩風は、一旦ツラギから反転し、飛行場の
あるルンガ岬沖合に近接しました。すると、
陸上から砲撃を受けました。

 砲弾は、2kmほど手前に着水し、水柱を
あげました。その後も砲撃を受けましたが、
間隔は不規則な上、着弾もバラバラでした。

 萩風まで届かないと分かり、倉橋氏は、
気楽に構えていました。

(追記)
 倉橋氏は、敵の砲撃は気にする必要が
ないと分かり、低い丘陵で行われていた
陸上戦闘を見ていました。

 日本兵が、機関銃の脚を二人で持って、
左右に警戒しながら、坂道を走りあがって
いました。

 内地の演習を見ているような錯覚に陥った
としています。


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