SSブログ
軽巡洋艦名取短艇隊 ブログトップ
前の10件 | -

空母「飛鷹」 アンボンへ向かう [軽巡洋艦名取短艇隊]

 志柿氏は、作戦を聞いたことで、慄然とし、
空虚な思いを抱きつつ、軍務局に行きました。
ここで、旧知の知り合いに、アンボンに行くことを
告げました。そして、軍令部第六課に行き、
同期生に会いました。

 ここで、南方に行く人向けの小冊子をくれました。
志柿氏が行く第24特別根拠地隊の担当エリアは
相当広く、ニューギニアから、セレベス島の西の
小島までありました。そして、志柿氏は、民政部長を
兼務することになりました。


 2月11日早朝、志柿氏は、見送りの家族とともに、
羽田飛行場に着きました。志柿氏が乗るのは
アメリカから輸入したダグラスDC3型機でした。
軍用機しか乗ったことのない志柿氏は座席が
贅沢に見えました。

 機内から待合室を見ると、志柿氏の子供たちが、
珍しそうに見ていました。志柿氏は、窓から
子供たちに合図を送ってみましたが、
わからないようでした。

 飛行機は、富士山の近くを通り、福岡飛行場に
向かいました。福岡飛行場には、志柿氏が士官
候補生の時に乗り込んだ金剛の通信長だった
武田大佐がおり、第24通信隊として、アンボンに
赴任するので、一緒の機体に乗るということでした。

 福岡飛行場を飛び立つと、大陸の方に向かい
ました。大陸に近づくと高度を下げ、揚子江に
沿って上海に向かいました。上海は、志柿氏が、
海軍砲術学校に赴任する前の2ヶ月間駐屯
していた場所でした。

 上海上空を旋回したとき、地上を見ていた
志柿氏は、この地に駐在していた時の思い出が
よみがえってきました。


紹介書籍:空母「飛鷹」海戦記 「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦
著者:志柿 謙吉(しがき けんいち)
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 捕虜の心境 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 名取が撃沈した後、捕虜になった少尉候補生の
A君と同期の候補生は、皆少尉に任官しています。

 そして、レイテ沖海戦に参加し、多くの戦死者を
出しています。戦後このことを知ったA君は、
自責の念を、あらわにしたとしています。

 同じく捕虜になったB候補生の父親は、レイテ沖
海戦で艦長として艦と運命をともにしていたため、
戦後復員したとき、ご母堂から、「海軍士官の妻と
して、家へ帰れとはいえません。

 お父様の墓が鎌倉にあるので、お参り
してよく考えなさい。」と厳しい表情で
言われたとしています。B候補生は、
自衛隊に入隊し、元気にやって
いたとしています。


 兵学校68期の変り種と言えるのは、舞踏家の
西崎緑と結婚したT氏でした。しかし、今では、
物書きになった豊田氏と松永氏が、変り種と
言われるようになったとしています。

 豊田氏が、直木賞を受賞した時、「豊田が
作家になろうとは、世の中も変わったものだ」
と、同期生から嘆息されたとしています。

 しかし、松永氏が、「思い出のネビーブルー」と
いう本を出し、これが好評を得ていました。この
ことを知った時、豊田氏自身が、「松永が本を
書くようになろうとは・・・?」と驚くことになったと
しています。

 そして、松永氏の著書は、飄逸でなかなか
面白いとしています。ここまで紹介しています
通り、松永氏は、ヒョウキンな人柄が、
感じられます。

 豊田氏は、松永氏を、苦しい漂流の間にも、
部下を元気づけ、己れを励まし、迫って来る
死を生に転換しようとする、海の男の
ファイティングスピリットと、船乗りの
生活の知恵を痛感するとして、
解説を終えています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 松永貞市海軍中将 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 豊田氏は、松永氏の父親のことも紹介
しています。

 松永氏の父親は、松永貞市海軍中将で、
マレー沖海戦において、中攻隊がプリンス・
オブ・ブウエルズとレパルスを沈めたときの
基地司令官でした。

 同じ頃に、真珠湾を攻撃した南雲中将と
並ぶ偉功ですが、南雲中将は金鵄勲章を
授与されていますが、松永中将には
授与されませんでした。

 南雲中将は、戦死しており、戦死者以外には、
金鵄勲章は授与されないと、されていたよう
でした。

 豊田氏は、このことを戦後になってはじめて
知り、驚いたとしています。松永中将は、第27
航戦司令官や、練習連合航空総隊司令官を
経て、第二技術廠長で、終戦を迎えています。


 豊田氏は、自らの著書「蒼空の器」に、松山
航空隊を登場させています。この中で、松山
航空隊がアメリカの戦闘機を邀撃して、
大打撃を与えるシーンがありますが、
この時、通信長をしていたのが松永氏
だとしています。

 松永氏の書いた先任将校については、乗組員の
漂流記を扱ったもので、戦着物としては異色だと
しています。一方で、豊田氏自身、名取の乗組員
とは縁がありました。

 その一つが、松永氏から、名取の内火艇に乗って
いて捕虜になった少尉候補生のA君を、励まして
欲しいと、お願いされたことでした。

 実際、捕虜となった名取乗組員の少尉候補生は
A君以外にも多数おり、ガンルームが若返ったと
冗談を言っていましたが、少尉候補生らの胸中は、
複雑だっただろうとしています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 解説 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 最後に、この著書の解説を紹介します。
解説をしているのは、松永氏と兵学校
同期で、同じ文筆家の豊田穣氏です。

 松永氏と豊田氏が卒業した兵学校68期生で、
異色のなのは、二階級特進した軍神が、4人も
いることだとしています。

 1人目が、松永氏の同郷で、真珠湾に特殊
潜航艇で突入した広尾彰氏です。一年生の時、
豊田氏と同じ第二分隊に所属し、豊田氏の隣に
立っていました。

 豊田氏より背が低く丸顔で頬が赤かったので、
「赤猿」という仇名をつけたら、豊田氏に「白豚」と
言うあだ名をつけ返されました。豊田氏は、この後、
パンダのことが放映された時、パンダという仇名を
もらったとしています。

 広尾氏は、負けん気が強い佐賀っぽで、就寝
動作の時などは、ベッドの間隔が狭いため、尻が
ぶつかりよくけんかしたとしています。

 2人目が、1942年に5月31日に、シドニーに
突入した特殊潜航艇の伴勝久氏でした。豊田氏と
一緒に、名古屋の明倫中学で一緒に、海兵入試を
受けた中で、ヒゲが濃く、豪快な男だったとしています。

 3人目と4人目が、が、山下博氏と長嶺公元氏です。
どちらも、1945年4月6日に、100機に余る特攻隊の
特攻攻撃隊の先任者として沖縄に突入し、クラスで
唯二の中佐に昇進を果たしました。

 山下氏は、兵学校で、松永氏と同じ分隊に所属して
おり、豊田氏の柔道の好敵手です(以前紹介しました
通り、ドイツヘ向かう潜水艦で戦死した須永氏も、
柔道の双璧をなしています)。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 アメリカ軍との交流 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、戦後、佐世保に居を構えています。
ここには、アメリカ軍の海軍基地があり、
アメリカ軍人との、交歓の機会が
多々ありました。

 ここで知り合ったウ中佐という方は、開戦当時、
マニラ湾にあるキャビテ軍港警備のため、駆逐艦に
乗り込んでいました。日本海軍の来襲が伝えられ、
東シナ海に急遽出港しました。

 この際、乗艦が撃沈され、筏で漂流中に、日本
海軍に救助されました。松永氏は、名取短艇隊の
事を話しました。すると、ウ中佐は、ワンダフルを
連発し、日本海軍の航海に対する応用の才と、
小林大尉の指揮統率に、感嘆していました。

 松永氏は、12月の東シナ海の季節風に悩ま
されただろうと言うと、ウ中佐は、8月のフィリピン
海域では、暑さに痛めつけられただろうと、
互いに慰められました。

 彼との会話には、勝者のおごりもなく、敗者の
卑屈さもなく、一面識もなかったもの同士で
ありながら、10年来の知己のような固い握手を
交わすことができました。

 松永氏は、「列国の海軍は、国家の要請で、
時に戦火を交えることがあるものの、平生は
自然という共通の敵を持っている仲間である。」
ということを、実感として味わったとしています。

 この後、名取短艇隊が航路の道標に使った
オリオン座を見上げながら、名取短艇隊を偲び、
「神は自ら助くる者を助く」の格言を、一人
かみしめたとしています。

 最後に、先任将校小林英一大尉に心からの
感謝の念を捧げるとして、著書を終わりにして
います。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 短艇隊による航海 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 イギリス、アメリカ、日本の各海軍における
短艇の航海を見ると、少ない食糧で、激しい
労働に堪え、医学常識を超える苦労をして
いますが、人間が使命感に燃えて外力を
利用すれば、思いがけない長時間の航海が
できることを実証しました。

 松永氏は、これらの航海から、次のことが
付随的に、考えられるとしています。

 「食糧不足であっても、腐ったものを食べると、
死者を生じさせており、腐ったものは食べては
いけない。

 渇きをとるために、小便を飲むという点に
ついては、名取短艇隊でも行われたようですが、
有益性は分からず、人体が有害なものを出して
いるので、飲むべきでないという学説もあり、
速断は出来ない。

 渇きについては、自分の指から出る血を
なめたと言う話もありますが、これも効果は
分かりませんが、それだけ、渇きは本能的な
欲求になるといえます。

 乾きを逃れるために、海水を飲むということに
ついては、どの短艇隊も実施していません。
それは、海水を飲むことは常識はずれという
ことが、船乗りの間に語り継がれているから
でした。

 まれに、数日間漂流して、数回海水を飲む
実験をして問題ないという結論を出している人も
いるようですが、このような日数と回数では、
判断できないとしています。

 海水を飲むという行為は、数千年にも航海の
歴史を辿って得られた知恵として常識化したもので
あり、これらをむやみに外すような行為は慎むべきだ
としています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 短艇による長期航海 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、海難事故を調べているときに、
アメリカ海軍、イギリス海軍、日本海軍が、
短艇による長期航海を史実として
残していることに気づきました。

 1784年、4月、イギリス海軍のバウンティ号は、
フィージー諸島付近を航海中に、副長以下が
徒党を組んで反乱を起こしました。この反乱で、
艦長以下18人が、カッターより少し大きい舟に
乗せられて、追放されました。

 航海要具として、羅針儀、六分儀、航海年表を
積み、食料と、水も持たされていました。艦長は、
反乱者への復讐に執念を燃やし、チモール島を
目指しました。そして、42日後、たどり着きました。

 1870年の、アメリカ海軍サギノー号が、
難破船を探して航行中、座礁しました。
乗組員93人は、生活必需品を持ち出し
ましたが、座礁地点が一般航路から外れて
いたので、航海長以下5人が、カッターで
助けを呼びに行くことにしました。

 航海を始めると、悪天候に悩まされたり、
虫食いの乾パンで腹痛を起こしたりと、
さんざんな目に遭いました。しかも、
航海長は、接岸前に命を落としました。

 短艇は、31日目に接岸しましたが、
残り4人のうち3人が、到着直後に
命を落としました。これらの尊い
犠牲のお陰で、無人の孤島に
残っていた同僚は無事救助
されました。

 名取短艇隊は、航海要具を持たず、
食料も少ない中で、13日間こぎ続けて
接岸しています。条件を考えれば、
名取短艇隊は、航海期間は短いとは
いえ、上記二つと劣らない実績と
いえます。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 列国海軍の海難史 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、列国海軍の海難史をひもといて
います。

 1816年7月、フランス海軍のメデューズ号は、
アフリカ西海軍のブランコ岬の西方60マイルの
岩礁に座礁しました。退艦する十分な時間があり、
食糧を持ち出すことは可能でした。

 しかし、艦長も便乗していた提督も、避難を
優先し、適切な指揮統率を実施しませんでした。
このため、筏に乗った士官と、下士官の間で、
刀を振りかざして相手を殺しあう乱闘になりました。

 この乱闘に加え、時化が起きたため、婦女子を
含めた死傷者が多数出て、「メデューズ号の悲劇」の
汚名を、後世に残しました。

 一方で、同じ座礁事故でもイギリス海軍の
バークンヘッド号は、デンジャー岬の岩礁に
乗り上げ、乗員と陸軍兵に多数の犠牲者が
出ましたが、婦女と子供からは、一人も
犠牲者が出ず、適切な指揮統率が
行われました。

 アングロサクソンの海の伝統を守ったと
いうことで、ヴィクトリア女王は、ロンドンの
チェルシー病院の柱廊に遭難者の霊を
慰めるための記念碑を建てています。

 バークンヘッド号遭難の物語は、大英帝国
時代を偲ぶ語り草の一つになっています。

(追記)
 海難事故は、タイタニック号や、セウォル号など、
あちこちで起こっていますが、悲劇になっているのは、
大体が、船長が自分の役割を放棄し、乗客を見捨てた
ということが挙げられます。

 船長は、緊急事態になった時に、小林大尉のように
決断を下して、行動できるかことがお止められていると
いえます。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 内火艇の状況2 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 内火艇の状況を続けます。

 18日目から、衰弱が激しくなってきました。
櫂を漕げるものはほとんどいなくなって
いました。航空機が飛んできましたが、
発見されませんでした。

 これまで、毎朝、宮城遥拝をしていましたが、
正座できるものが半数くらいになっていました。

 20日目、機関兵1名が衰弱死しました。
内火艇で初めての戦死者でした。数日前より、
横須賀の灯りが見えたというとんでもないことを
口走ったり、海に飛び込むものが出始めて
いましたが、この日から、毎日1,2人の
戦死者がでました。

 21日目に、候補生が戦死しました。この日、
小鳥が飛んできました。椰子の実や、ホンダワラなどの
浮遊物を発見し、陸が近いと誰もが喜びました。
浮遊物についていた米粒ほどのカニを食べました。

 この日、アメリカ軍の爆撃機が上空を旋回し、
内火艇が発見されたことを知りました。22日目に、
日本の偵察機が来ましたが、発見されずに
過ぎ去っていきました。日本軍は、アメリカ軍より
見張りが悪いと腹が立ったとしています。

 24日目、赤十字の電灯飾をした病院船が、
近くを通過しました。内火艇には、電灯が
ないので声を出して呼びましたが、気づかれずに
去って行きました。この頃は、上体を起こすのも
辛くなり、横になったままでした。

 26日目(9月12日)、敵グラマン機に発見
されました。南方に戦艦や空母を基幹とする
20~30隻の艦隊をみつけましたが、北方にも
同程度の艦隊がいました。間もなく駆逐艦が、
救助に来ました。

 内火艇は、当初53名が乗っていましたが、
12名が戦死し、残る41名は、マッコイキャンプで
終戦を迎えました。

 この状況を見ると、18~20日目くらいが
限度だったことを示しており、名取短艇隊は、
ギリギリだったと言えます。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 内火艇の状況1 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 内火艇は、以下のような状態でした。

 1日目、カッターに曳航を要請しましたが、
シーアンカーを作るように指示がきました。しかし、
シーアンカーの要具がなかったので、強く風下に
流され、午後には、カッター群を見失いました。

 2日目は、時化ていましたが、味方の航空隊に
発見されました。続いて3日目に、水上偵察機
1機が飛んできて、内火艇を確認しました。

 4日目になり、内火艇の先任将校となった
楢村(ならむら)少尉は、小林大尉と同じ決断を
して、自力でフィリピンに向かうことにしました。
内火艇の羽目板を外して、14本の櫂を作りました。

 計画は、短艇隊と同じで、西に10日ほど
進めば接岸できると言うものでした。しかし
食料は、短艇隊より少なく、乾パン一日1枚で
あり、10日以降は、2日に一枚としています。

 5,6日目は、晴れていたため、空腹よりも
のどの渇きが苦しかったとしています。一度、
深海の海水は、塩分が塩辛くないということで
くみ上げてみましたが、矢張り塩辛かったと
しています。

 7日目に、スコールが来て、のどの渇きは
収まりました。8日目には、晴れたため、のどの
渇きを感じたとしています。乗員の中には、
自分の小便を飲む者までいました。明日は
陸が見えるはずと一同張り切りました。

 8~17日目は、二日に一回の割合で、
スコールが来ましたが、晴れの日が多かった。
雲を陸と間違えて喜び、雲とわかって悲しみの
一喜一憂を繰り返しました。

 ここまでの状況をみると、短艇隊とほぼ同じと
言えますが、シーアンカーがない分、短艇隊より、
流されたと思われます。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | - 軽巡洋艦名取短艇隊 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。