SSブログ
軽巡洋艦名取短艇隊 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

軽巡洋艦名取短艇隊 ゴムボートの状況 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 ゴムボートに乗った名取の乗員は、
見張士ほか4名でした。名取が撃沈した
18日の夜半、時化の中で、短艇隊の
一番艇から分離しました。

 翌日、一番艇に収容される約束でしたが、
その日も一日中時化ており、不可能でした。
さらに翌日の20日、ようやく時化が収まり
ましたが、短艇隊の姿を発見することは
できませんでした。

 ゴムボートには食料の水もなかったので、
その日から早速絶食状態になりました。
スコールを防止で受けて水を飲みましたが、
水を入れる容器がないので、保存は
できませんでした。

 櫂もないので、漕ぐこともできず、海流に
任せてフィリピンに着くのを、神に祈るしか
ありませんでした。途中、サメに襲われ、
ゴムボートの片側を破られてしまいました。

 破られた片側からは、空気が漏れてしまい、
片側のみの空気で5人分の体重を支えられる
のかと心配になったとしています。この後は、
サメに襲われることはなく、何事も起こりません
でした。

 しかし、何事もなかったためともいえますが、
1週間ほどして、2人が発狂し、10日目に
相次いで戦死しました。12日以降は、体力の
消耗が激しくなり、一同はぐったりして、意識は
朦朧としてきました。

 見張士は、ついにこん睡状態におちいり
ましたが、14日目の8月31日(松永氏が接岸
した翌日)に、浮上航行中のアメリカ軍の
潜水艦スティングレー号に発見され、
救助されました。

 生き残った見張士以下3名は、ポートダーウィン
病院を経由して、ブリスベーン収容所に収容され、
終戦を迎えています。

 ゴムボートの乗員は、短艇隊と違い、能動的に
何かをすることができなかったことが、発狂者を
出してしまったと原因と言えます。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 捜索活動 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 名取被雷の連絡を受け、翌日の朝、浦波、
清霜、竹の3隻は、名取の遭難場所に到着
しました。この3隻は、終日捜索を行って
いますが、手がかりを得られず、セブに
帰投することにしました。

 その後の21時ごろになって、ようやく
飛行機が遭難者を発見したという連絡が
来たため、セブに向かっていた駆逐艦3隻は
反転して、遭難現場に向かいました。

 20日の7時に到着し、捜索を開始しましたが、
時化のため困難を極めました。航空機も何も
発見できず、清霜は捜索を断念し、パラオ輸送に
向かいました。

 ここに、輸送任務を終えた鬼怒と時雨の2隻が
合流し、捜索を開始しましたが、何も得られません
でした。

 燃料が保つギリギリまで捜索を続けましたが
断念し、艦艇での捜索はここで打ち切りと
なりました。この後は飛行機の捜索のみと
なりましたが、こちらも23日を持って、終了と
なりました。

 敵艦が行動している海域で、2日も捜索して
くれた艦艇と、少ない航空機をやりくりしながら、
1週間も捜索してくれた関係部署の献身的な
努力には、頭が下がったとしていますが、
結果として名取の残存者を救助するには
至らなかったとしています。

 最初の発見の電報が、すぐさま救助艦に
伝わっていれば、発見できた可能性が
高いといえます。

(著書には、駆逐艦浦風と浦波の両方の記述が
ありますが、名取の捜索を行ったのは、浦波です)


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 名取沈没後の救難作業 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 ここから、エピローグとなります。松永氏は、
大戦を生き延び、戦後の生活苦を経験して
います。この生活苦から開放されたとき
真っ先に頭に浮かんだのが、名取の
遭難現場で見失った内火艇と
ゴムボートでした。

 まず、名取沈没後の救難作業について
調査しています。名取は、1944年8月18日に、
魚雷が命中し、第一報を3時30分、第二報を
5時30分に発信しています。

 この電報を受けたマニラ司令部は、「名取に
よる輸送を取りやめる。第三号輸送艦護衛の
下に比島に回航すべし。」、「514航空隊
マニラ残留部隊と、タクロバン派遣隊は、
なるべく多数の飛行機を持って、名取を
護衛すべし。」と命じています。

 そして、駆逐艦清霜と竹に名取の部隊と
合流し、清霜は三号輸送艦を、竹は、名取を
護衛して回航する旨を命令しています。さらに、
浦波も名取に合流し、サンベルナルジノ水道まで、
護衛することを命じています。

 一方、名取と三号輸送艦は、どちらかが被害を
受けても、もう一方は任務を完遂するという取り
決めをしており、三号輸送艦は、その取り決め通り、
名取をおいて行動しています。

 翌日、第301航空基地の捜索機が、名取漂流者を
発見しており、内火艇1隻、カッター4隻、筏多数を
認める。と報告しています。しかし、この通信は、
マニラの司令部と、救助艦に、すぐには伝わり
ませんでした。

 この電報を元に、司令部が行動を起こすまで
11時間の空白が発生しており、この後の救難
作業に影響してしまいました。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 三号輸送艦 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 翌朝、名取短艇隊の隊員は、駆潜艇2隻に
乗り込みました。

 小型艇に200人近い人が乗ったので、鈴なり
状態でした。魚雷艇隊および、陸軍の人達の
心のこもった見送りを受けながら、スリガオを
後にしました。

 まもなく、船とすれ違いましたが、なんと
その船は、名取と一緒にマニラに向かった
三号輸送艦でした。同艦は、今なお健在で、
新たな任務についているようでした。

 先任将校は、三号輸送艦に向けて、「名取
航海長小林大尉。名取は被雷地で沈没。艦長は、
艦と運命を共にされた。カッター3隻は、先日
スリガオに到着した。貴艦のご武運をお祈り
します。」と、信号を送りました。

 三号輸送艦から、「名取乗員のご多幸と
ご健康を祈る。」という返信がありました。
万感胸に迫るものがあり、お互い手を
振り合って、分かれました。

 その後、一ヶ月前に名取で航行した航路を
戻るように進んでいき、無事マニラに到着
しました。マニラは、在泊艦が少なくなり、
赤腹を出した無残な艦船が増えていました。

 名取短艇隊がマニラに到着した旨を連絡
すると、司令部からは、大尉以上の士官は、
直ちに空路で内地に帰還せよという命令が
来ました。同時に、三号輸送艦が、ミンダナオ島
南方海面で撃沈したことを、聞かされました。

 マニラで一泊した松永氏らは、迎えの車に
乗り、キャビテ軍港を目指しました。軍港に
着くと、飛行艇は出発前の試運転をすませ、
到着を待っていました。

 早朝の空襲を避けるため、東の空が白むのも
待たずに、キャビテ軍港を飛び立っていきました。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 外川中尉 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、外川中尉が軍医長を申し出た
経緯を伺うことにしました。

 すると、外川中尉は、餓鬼のようになって
いた皆さんを、尋常な方法では説得できないと
感じ、海軍軍医学校で行われた設問を、利用
することにしたとしています。

 その設問は、「技術者は若くても、誇りと識見を
持っていなければならない。尊敬できる指揮官
ならば問題ないが分けの分からないことを言う
指揮官ならばどう対処するか。これを実戦部隊に
行くまでによく考えておけ。」というものです。

 松永氏は、「いい話だ」としています。そして、
「この教育のおかげで、180名の短艇隊は
助かった。いい話を聞けて感激しています。」
としています。

 一方、外川中尉は、「短艇隊は、桟橋に着いたら、
全員艇内にひっくり返って、息も絶え絶えだろうと
想像していました。医学的見地では、10日も飲まず
食わずで苦労すると、安全圏に入ったら倒れて
しまうというのが常識です。

 ところが、短艇隊は軍旗厳正で、全員が組織と
して行動していた。これを見て、今まで軍規は、
自由を奪う悪いものという印象でしたが、認識を
改めました。人は、個人では弱くても、組織と
しては、強く生きられる。」と話しています。

 その後、お互いの出身地と卒業学校を話し合い、
「どちらかが内地に着いたら、互いの家族を
訪ねることにしましょう。」と約束しています。

 すでに紹介しております通り、松永氏も、
外川氏も内地に帰還しており、名取会に
参加しています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 忘れがたい美しい話 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、ピアノを弾く陸軍少尉に、
「私は無趣味のため修養できていない
ので、出撃前は酒で紛らわせます。

 酒は酔っているうちはいいの
ですが、さめると寂しさを感じます。
その点、あなたは、音楽三昧で過ごして
おられますこと、敬服しています。

 ご武運を、陰ながら祈っています。」
として、陸軍少尉と別れました。松永氏は、
忘れがたい美しい話を拾ったとしています。

 最後の晩、外川中尉と、椰子林になっている
海岸を散歩しました。その際、この陸軍少尉の
話をしました。それに対し、外川中尉は、「それは
よろしゅうございました。」として、次のことを話して
くれました。

 ここには、陸軍の師団司令部があり、最高は
中将閣下です。海軍では、中尉の私が最高位と
なります。そのため、私を、海軍の代表として
処遇してくれ、感激したとしています。

 この後、松永氏と外川中尉は、軍隊を離れ、
人間同士のお付き合いをしようということになり、
腹を割って話すことにしました。

 まず、松永氏が、最初の食事の際に、外川
中尉達がご馳走で、松永氏らが粗食だった時、
返答しだいでは、短刀で刺そうと思っていたと、
話しています。

 これに対し、外川中尉は、「そのことを感じた
ので、近づかなかったとしています。そして、
松永氏が、腸チフスにかかり、断食療法を経験
していたことは好都合で、そうでなければ、
トラブルは深刻だったと思います。」と
しています。

 松永氏は、この時、外川中尉が、軍医長に
してくださいと言ったのは、このことの伏線では
なかったのかとしています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 将校クラブのピアノ [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、スリガオを出発する前日の午後、
スリガオの町中にある陸軍の将校クラブに
行きました。

 通常、陸軍の将校クラブに海軍が入ることは
ありませんが、前線なので海軍士官でも
差し支えないと言われたので立ち寄った
ということでした。

 輸送の途絶えた前線基地のクラブという
ことで、さしたる飲食物はなかったものの、
大きなビンに入った、椿の花を思わせる
椰子酒がありました。

 松永氏は、あまりにもどぎつい色だったので、
飲んでみようという気にならなかったと
しています。

 ソファ-で休むことにした松永氏の耳に、
ピアノの音が聞こえてきました。見ると、
陸軍少尉が熱心に引いていました。
そして、曲が「青きドナウ」に変わった時、
兵学校時代の友人を思い出しました。

 松永氏は、兵学校時代、クラスメイトが酒保に
置いてあるピアノで、「青きドナウ」を弾いてくれ、
西洋音楽を教えてくれました。懐かしくなり、
松永氏は、ピアノを弾く陸軍少尉に、挨拶しに
行きました。

 松永氏は、自分の思い出を話し、男性で
ピアノを弾ける人は少ないと思いますが、
貴官はどのようにピアノを覚えたのですかと
尋ねてみました。

 陸軍少尉は、小学校で音楽を教えていたと
言うことでした。「明日、ミンダナオ島の掃討作戦に
参加しますが、生還は難しいと思うので、最後の
休日に心行くまでピアノを弾こう思っています。」と
話してくれました。

 そして、「拙い演奏ですが、貴官が友人を、思い
出させるよすがとなりましたこと、望外の喜びです。」
としています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 軍医長の苦労 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、臨時軍医長として、報われる
ことのない世話を焼いてくれた外川軍医長
には、頭が下がったとしています。

 外川軍医長が、朝早くおきて外出したのを
見た松永氏は、若いのに、朝が早いなと
誉めました。それに対する軍医長の
返事は以下のようなものでした。

 「繊維の強い配給野菜では、短艇隊の
半数は死亡します。ここでは、日本人と
現地人が勝手に取引することは禁じられて
います。そこで、事情を話して、憲兵分隊長に
相談すると、一緒に買出しをしてくれることに
なったので、でかけました。」

 このような軍医長と、魚雷艇隊隊員のお陰も
あり、短艇隊の艇員達は、1週間ほどで回復し、
マニラ行きの駆潜艦に便乗できることに
なりました。

 命の恩人といよいよ別れる日が近づいて
きました。当時の戦況では、いつどこでも、
常に死と隣り合わせでした。お互い口に
出さなかったものの、再会できるとは
考えられませんでした。

 別れの日、演芸会、バレーボール大会、
お別れパーティーも開かれました。パーティー
には、食事や飲み物はありませんでした。

 代わりに、サイダーの空き瓶にさしてあった
ブーゲンビリアの花が、真心を伝えていました。

(追記)
 1943年、松永氏は、香取の暗号長として
乗り込んでいたとき、ガダルカナルからの
撤退がありました。

 その際の通信に、餓死寸前の兵士が、ラバウルや
ブインに引き揚げた後、大量に死亡したという
通信を見ていました。

 原因は、絶食状態が続いていた時に、
いきなり普通の食事を、とったことによる
ものでした。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 成功の要因 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、主計長と、短艇隊成功について、
以下のような話をしていました。松永氏は、
名取短艇隊の出身地による気質が、
働いているとしています。

 松永氏は、北九州の出身で、短時間に馬力を
出すことに向く資質があるとしています。当初、
ダブルの漕ぎに苦戦し、予定の距離を進めな
かったときに、松永氏は、時間を延長して予定の
距離進むべきと進言しています。これが、
北九州人の気質だとしています。

 一方で、この進言は、先任将校の小林大尉に
却下されています。小林大尉は、新潟の出身で、
大半の艇員は、青森から島根の日本海側の県
出身者で、しめられていました。

 この地域の人は、じっくり腰をすえて、長期間の
苦難に耐えることに向く資質がありました。小林
大尉をはじめとした艇員の大半はこの資質の
持ち主であり、松永氏のような資質は、
少数派だったといえます。

 松永氏は、短艇得体の成功の一因に、日本海側の
県出身者で、しめられてたことを挙げています。

 一方、主計長は、小林大尉とは、同年輩の同僚で、
格別偉い人とは思っていなかったとしています。
しかし、ひとたび先任将校として指揮官になるや、
やり直しのきかないあの難しい局面で、総員の
反対を押し切って、断行しています。

 隊員は皆反対していたが、断行と決断すると、行き
掛かりを捨てて、真剣に漕いでいました。見事な
指揮統率と、立派な服従が相まって、成功したと
しています。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 

軽巡洋艦名取短艇隊 軍艦旗の不正利用 [軽巡洋艦名取短艇隊]

 松永氏は、他艇の会話を聞いていたときに、
二番艇か三番艇のどちらかは、軍艦旗を
魚網の代わりにして、魚をすくっていたと
言っていました。

 神聖な軍艦旗で、魚をすくうのは言語道断の
行為でした。松永氏は、この行為に対して、
軍規風紀を取り締まる士官として、糾弾
しなければならないと考えました。

 しかし、そこで、一歩立ち止まり、深く踏み
込んで考えてみました。指揮官は、隊員に
十分な食糧を与え、軍隊としての戦力を
保持する責務があります。

 短艇隊の次席将校として、松永氏は、
自分が十分な食量を与えたかと
問われれば、否となります。

 責務を果たしていないのに、糾弾するだけ
というのでは、身勝手にすぎるといえると
しています。

 前線におらず、弾丸の下をくぐったことも
ない参謀連中なら、建前に固執して断罪を
主張するでしょうが、前線では、建前にこだ
わっては、角をためて牛を殺すことになります。

 ほとんど飲まず食わずで、毎日10時間も
漕ぎ続けていました。しかも、陸岸の兆しは
全くなく、艇員をはるかに上回る65名もの
人を乗せたため、手足を伸ばして休養する
ことができませんでした。

 このような状況下で、軍艦旗を魚網の
代わりにしたことは、緊急避難といえるだろう
としています。

(追記)
 松永氏は、上記の通り、軍艦旗を魚網とする
ことは緊急避難だろうとしていますが、あくまで
理屈の上であり、注意をする必要はあるとして
いました。

 そこで、軍艦旗の代わりがあるだろうと言うことに
しました。しかし、いくら考えても、軍艦旗以外の
物は浮かばず、注意することはできなかった
ようです。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 軽巡洋艦名取短艇隊 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。