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巡洋艦熊野 内地の到着 [巡洋艦熊野]

 左近允氏が、お土産を揃えているところに、
青山中尉が赤い顔をして、メリヤスのシャツを
持ってきました。

 左近允氏が、「良い色をしていますね。」と
言うと、「航海士の分もありがたく頂戴
しました。」という返答が帰ってきました。

 そして、土産用の青山中尉が着ているシャツと、
砂糖の値段を教えてもらいました。左近允氏は、
早速買い込み、翌朝、買ったメリヤスのシャツを
着て、10斤の砂糖をぶら下げて、飛行場に
行きました。

 話を聞くと、次官室士官が泊まった
海軍クラブの方が、士官室士官が泊まった、
湘南閣より、待遇が良かったという
ことでした。


 台北を後にし、快適な飛行を続けました。
正午ごろ、沖縄に到着し、昼食休憩後、
福岡に向かいました。

 九州にさしかかると、天候が悪化し、
雲に入って窓の外が白一色となりました。
雲間から、阿蘇山や天草が見えると、
にぎやかになりました。

 12月4日、午後4時頃、左近允氏は、
5ヶ月ぶりに、内地の土を踏みました。
通関手続きを終え、呉に向かうために
博多駅から上り電車に乗りました。

 12月に夏服の左近允氏らは、乗客の
視線を浴びました。列車は一路、東へ
向かってきました。

(追記)
 最後に、熊野沈没時に生存者は639名
でした。しかし、左近允氏のように内地へ
帰国できた人を除き、大部分は陸戦隊として
残留し、494名が、フィリピンの山野で
散華しました。

 戦死者は、累計989名となり、熊野乗員の
ほぼ9割が戦死したことになります。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 台北到着 [巡洋艦熊野]

 左近允氏は、内地へ帰還する12月3日頃は、
敵機の襲撃が来る公算が大きいと感じて
いました。旅客機では、間違いなく
撃墜されそうでした。

 最近、武蔵の士官が乗っていたダグラス機が、
落とされたという話を聞いていました。飛行機に
乗ると、2基のエンジンが回転をはじめ、機体は
暁の空に舞い上がりました。

 ルソン西岸の上空、高度4000mを北上して
いきました。右下にサンタクルーズ、リンガエン湾が
見えていました。

 2時間半ほど飛行し、台湾の高雄に到着
しました。熊野は、この距離を1週間かけて
航海する予定で青葉ともに、マニラを
出港したのが、1ヶ月前でした。

 30分後、再び離陸し、台北に到着しました。
ここで一泊するということで外に出ると、寒さに
震えました。12月なので、街の人は、冬着
でした。しかし、左近允氏らは、薄いシャツと、
緑の略装でした。

 士官室士官は、湘南閣に、士官次室士官は、
海軍クラブに宿泊となりました。左近允氏は、
海軍クラブに行き、寝床に潜り込みました。

 昼食と夕食も出され、マニラの悪い食事とは
比較にならないくらいのご馳走でした。久しぶりの
畳の上で、床の間の生花をながめたり、ドテラを
着たり、故国の情緒を楽しいました。

 夕食後、お土産に羊羹やバナナをつめこんで、
動けなくなっているところに、青山中尉がやって
きました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 突然の知らせ [巡洋艦熊野]

 マニラの夕焼けは、世界一と言われるだけ
あって、さすがに美しく、眺めていると、
しばし戦争を忘れました。

 一度、ガンルーム士官3人で、メトロポリタン
劇場で、映画を観たりしました。マニラは物価が
高く、物価が高いと言われるシンガポールより、
高く感じていました。

 酒保で何十銭で買えるものが、円単位と
なっていました。主計科の士官が奔走し、
靴や靴下、タバコを渡されましたが、
前渡しの賞与から支払うと、いくばくも
残りませんでした。

 サンタクルーズから、遺体収容班が引き
揚げてきて、入れ替わりに、木原大尉や、
加茂川少尉他数名の作業員がマニラから
派遣された潜水夫を連れて、サンタ
クルーズに向かいました。

 熊野は、水深26mのところに沈没して
いるので、暗号書その他の機密文書類を
引き揚げるためでした。


 12月2日の夜、突然、明朝朝出発の
航空便があるので、士官約10名は、
準備するようにという知らせがきました。

 左近允氏は、すぐに水交社に向かいました。
航空機は、DC-3であるということでした。
そこに電話があり、がら空きの一式陸上
攻撃機を、臨時便として出すということ
でした。

 便はあっても、士官は、何人かは残る必要が
ありました。白石砲術長が、帰国組と残留組を
決めました。左近允氏は、帰国組となりました。

 12月3日未明、残留する士官に後事を託し、
全員の速やかな帰国を祈りながら、宿舎を
出ました。外はまだ暗く、水交社を出て
ニコルスフィールドに向かう途中で、
空が白みかけてきました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 司令部の思惑 [巡洋艦熊野]

 左近允氏らは、司令部の方針で、
便があり次第内地に帰還させる、
必要な士官は、席があれば
航空機に乗せるとなって
いました。

 しかし、司令部の本音は、陸戦隊として
取り込みたいという、ハラのようでした。
下士官の中で、それぞれの学校の
練習生課程を終えていない、いわゆる
無章の者は、回されるという話でした。

 若い士官も、陸戦隊の小隊長や中隊長を、
やらされるかもしれないという噂があり、
左近允氏は、河童の竹槍部隊は
御免こうむりたいと思いました。

 熊野の乗員がマニラに到着した11月30日に、
内地から来た空母隼鷹が、入港していました。
陸兵と軍需品をおろして内地に帰還するという
ことで、白石砲術長は、熊野乗員を乗せて
もらえるように司令部と交渉したものの、
実現しませんでした。

 陸戦隊に残すつもりなのか、もっと
防備のための作業に使いたいのか
わかりませんでしたが、
「明日はどこに100名、どこどこに200名。」
と割り当ててきました。

 左近允氏は、水交社でクラスメイトの
木曽乗員である土井中尉に会いました。
木曽は、11月13日の空襲で沈座
しましたが、大部分の機銃は、海面に
出ているので、毎日交代で出かけて
対空警戒にあたっているということ
でした。

 木曽はこれ以上沈むことはないので、
乗員は、直撃を受けない限り、戦闘を
続けなければなりませんでした。実際、
街は緊張した空気が漂っており、海岸
通りには、偽装した軍需品が、置かれて
いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 掃海艇でマニラへ [巡洋艦熊野]

 日没少し前、見違えるようなさっぱりした
いでたちで、乗員は掃海艇に乗り込み
ました。

 日が沈んでから、熊野の乗員を
ぎっしりつめこんだ掃海艇は、横づけを
離し、熊野沈没地点を、静かに一周
しました。

 湾外に出て、針路を南に転じ、マニラに
向かいました。仕事のない便乗者であり、
潜水艦に幾度も攻撃されたことから、
いい気分はしませんでした。

 この頃は、駆逐艦や海防艦のような
小型艦も、雷撃の対象になっており、
安心できませんでした。

 艦橋では、やたらに潜水艦探知の
報告をしていましたが、艦長は慣れて
いるのか、舵もとりませんでした。

 幾度か水中探知機伝令の声に、眠りを
妨げられるうちに、夜が明けました。
水道を通過して、マニラ湾に入り、今度は
空襲を気にしているうちに、無事にマニラに
到着しました。

 一月近く見ないうちに、沈没艦船が増え、
桟橋付近は、あちこちに弾痕が見えました。
海岸近くには、木曽、沖波、初春などが、
マストや煙突を水面から出していました。

 上陸すると、桟橋から遠くない、以前は
根拠地隊司令部があった建物に入りました。
この建物の、2階と3階が割り当てられ、
だだっ広いだけで、何の家具調度品もない
部屋を仮住居としました。

 白石砲術長は、水交社に泊まり、南西方面
司令部との連絡にあたることになりました。

 この時期、アメリカ軍のルソン進行間近
という緊迫した情勢下であり、手厚い待遇など
望むべくもありませんでしたが、さて、
これからどうなるのだろうかと、
考えていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 サンタクルーズからの別れ [巡洋艦熊野]

 送別会は、夕食会と一緒に行われ、
社員代表の送別の辞に続いて、白石
砲術長が謝辞をのべて、ヤシの酒で杯を
あげました。

 サンタクルーズには4日間の滞在
でしたが、惜別の情が深かったと
言えます。

 その夜に、陸軍から、「付近のゲリラが、
夜間に潜水艦と信号を交わしている疑いが
ある。今も、沖の島に怪しい光を認めたので、
捜索する。輸送をお願いしたい。」という
ことでした。

 左近允氏は、加茂川少尉と1隻ずつ、
ボートを指揮して、出かけることに
なりました。

 桟橋で、武装した兵隊を乗せたカッターを
曳航して沖に出ました。海は、黒い鏡のように、
静まり返っていました。

 この下に、人見艦長以下400名もの乗員が
眠っていると思うと、名状しがたい厳粛な
気持ちになりました。この夜の捜索では
何ら得るものなく、サンタクルーズに
引き返し、最後の寝につきました。


 翌日の11月29日、マニラに向かう日と
なりました。正午過ぎに哨戒艇が入港し、
桟橋に横付けしました。真新しい、緑色の
作業服、白のズック靴、戦闘帽、石鹸、
タオルを支給されました。

 撤収と言っても、なにほどのことはなく、
内火艇は、警備隊に移管され、遺体
収容班は、あと数日残って作業する
ことになりました。遺体は顔もすっかり
変わり、名前の確認さえ困難でした。

 遺体回収に従事している藤島少尉から、
遺体を海岸に並べたら、側にオオトカゲが
いた話や、遺体を回収しようとしたら、サメに
足を持っていかれたという話を聞くことが
できました。

 彼ともひとまず、お別れとなりました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 送迎会準備 [巡洋艦熊野]

 11月28日の午後、左近允氏は、
数人の士官、下士官と一緒に、付近の
民家をまわりました。

 目的は2つあり、一つは、機密文書を
拾っていないか確認するため、もう一つは、
古河鉱山の社員が送別会を開いてくれると
言うので、鶏を調達できないかと考えたから
でした。

 取引用のビスケットと、米を持って、陸軍の
下士官に通訳兼案内を頼んで、海岸近くにある
林の中に向かいました。そこには、点々として、
粗末な高床の家々がありました。ここで、何か
拾ったら出すように伝えておきました。

 どの家も子沢山で、驚きましたが、ビスケットを
少しずつ分けてあげました。しかし、目的の鶏は
なかなか、手に入りませんでした。

 大の日本びいきという副村長の家を訪ねると、
牛なら一頭上げられるということでした。
ありがたいものの、送別会までに料理する
ことは無理でした。結局、夕方までに鶏を
持って来るという男がいたので頼むことに
しました。

 村を探すと、書類も出てきました。タバコの
巻紙に使うつもりのようでした。その中に、
主砲分隊員の略歴と考課表を入れた箱が
見つかり、分隊士である加茂川少尉は、
喜色満面となり、大いに他の隊から
羨ましがられました。

 これは、艦が沈んだ後の残務整理に使用する
もので、これがないと、残務整理は苦労する
ことになります。

 宿舎に戻ると、豚の丸焼きを作っており、
鶏を訳した男も約束通り持ってきて、マッチと
交換で帰っていきました。これで、送別会の
準備が整いました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 サンタクルーズの空気 [巡洋艦熊野]

 左近允氏は、乗員の多くが寝泊まりしている
小学校に行ってみました。元気にわらじを
作ったり、ヤシの実で食器を作ったり
していました。

 左近允氏は、乗員の一人から、わらじを
進呈されました。暑さと傷みで閉口していた
左近允氏は、嬉しくなりました。


 戦死した乗員には申しわけないものの、
時がたつと、艦に残したものが、惜しく
なってきました。この感情は、左近允氏
だけでなく、誰しもそうなってきました。

 左近允氏は、ストップウォッチがついた
スイス製の時計と、象が刻んである銀の
シガレットケースが惜しくなりました。

 シガレットケースは、タイの駐在武官だった
父の尚正(なおまさ)氏が、ピブン首相から
贈られ、それを左近允氏がもらったもの
でした。

 泳いで上陸した頃は、もちろん命だけで
満足していたものの、喉元すぎれば
何とやらで、現金なものだとしています。

 それでも、身につけていたワニ皮のベルトや
パイロットの万年筆、ナイフを一本持っており、
内務長に物持ちだと言われていました。

 11月28日、マニラから、翌日の29日に
掃海艇が迎えに来るという電報がきました。
皆、久しぶりの陸上生活を満喫し、サンタ
クルーズの空気にすっかり気に入って
いたので、この電報に、物足りなさを
感じました。

(追記)
 熊野から持ち出せた、ワニ皮のベルトや
パイロットの万年筆、ナイフを一本などは、
次に左近允氏が乗艦した松型駆逐艦「梨」が、
1945年7月28日に撃沈した時、全て
失っており、残ったのは、右足首の火傷の
痕跡のみとなりました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 土に埋められる幸せ [巡洋艦熊野]

 たまたま長運丸爆沈後、負傷者の手当に
派遣されていた西大尉は、熊野の最期を
陸上から見ていました。

 熊野に残っていたら、配置のことを考えると、
助からなかったと思えるとしています。西大尉は、
「ものすごい光景だった。沈む時は、声を上げて
泣いたよ。全員死んだと思った。助かった人が
いてよかった。」と言ってきました。


 この日、航海科の乗員二人の埋葬をすることに
なりました。左近允氏は、警備隊に行き、白木の
墓標を2本作ってもらい、碑名を書きました。
遺体の場所に戻り、遺品になりそうなものを、
探しました。

 遺体は、最近散髪したようで、頭髪は短く、
重油も固まって切りにくくなっていましたが、
少し切りました。お守りを持っていた遺体も
あったので、これも形見としました。

 棺に入れ、警備隊の前にある芝生の
美しい広々とした牧場が右手にあり、
その一すみに並べて墓が掘って
ありました。

 静かに遺体を入れて、代わる代わる
シャベルで土をかけました。見張長が、
「お前たちは幸せだったよ。こうしてみんな
立派なお墓を立ててもらい、土に埋められ
たんだから。」とつぶやきました。

 左近允氏も、同感でした。いつ死ぬか
分からぬ上に、死んでも土に埋められて
もらう見込みは、なさそうでした。


 この日、航海長が、重傷者として病院に
送られ、砲術長の白石中佐が、指揮を
とることになりました。この後も、
左近允氏らは、サンタクルーズで
過ごしました。

 そして、時々流れてくる遺体を葬りました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦熊野 木原大尉の脱出劇 [巡洋艦熊野]

 左近允氏は、工作分隊長の木原大尉の話を
聞いた時、最も驚かされました。

 木原大尉は、10名ほどの部下と、右舷下方の
一室にいました。そこにいた時に、熊野はあっと
いう間に沈没しました。脱出する間もなく、
熊野は、150度位回転し、着底しました。

 水深は26mなので、木原大尉のいた区域が、
水圧で押しつぶされることはありませんでした。
空気の入った箱に入れられて沈んだようなもので
あり、丸い舷窓の厚いガラスからは、海水の層を
通った陽光が差し込んでいました。

 巡洋艦熊野で、潜水艦事故で亡くなった
佐久間艇長を思わせる光景になりました。
木原大尉は、観念して座っていました。

 しかし、部下の一人が、窓を開けようと
言い出しました。ガスのような妙な室内の
空気にあてられ、頭がぼんやりしてきていた
木原大尉は、やってみようと考えました。
生きながら埋葬された者が、墓石を
持ち上げようとする図でした。

 固く締めてあった止め金をゆるめ、窓を
開けました。海水が奔入しそうですが、
実際は室内に圧縮されていた空気が
逃げ場を得て、海面にかけあがって
いき、乗員を押し出したようでした。

 木原大尉は、夢中で海中をかき、息が
続かないと感じた頃に海面に出た
ということでした。

 機銃掃射も終わっており、すぐにボートに
拾われて上陸しましたが、地獄の三丁目から
帰還したと言ってよさそうな、木原大尉の
脱出劇でした。


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