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巡洋艦大淀 解体 [巡洋艦大淀]

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 英霊の遺体は、夏草の生い茂る堤防下の 海岸で、仲間の手により、荼毘に付されました。  その煙は、3日3晩、空の彼方へと昇り続け ました。遺骨は村の妙覚寺に安置され、住職の 手厚い法要が営まれた後、それぞれの家郷に 帰っていきました。  7月24~28日の空襲で、伊勢、日向、榛名の 戦艦3隻は、それぞれ大破擱座し、伊勢の 艦長だった前大淀艦長の牟田口大佐も 防空指揮所に直撃した1弾で壮烈な 最期をとげられました。  重巡洋艦の青葉と利根が、大破擱座し、 空母の天城が、大破横転しました。葛城が 大破、出雲が大破横転、磐手が大破擱座、 北上が大破航行不能となり、ことごとく撃破 され、瀬戸内海にいた軍艦のほとんどが、 航跡を閉じました。  大淀は、終戦後の1947年暮れに、生まれ 故郷の呉に浮揚曳航され、第三船渠で解体 されました。鋼材は焦土となった日本本土の 復興資材と化しました。  生まれ落ちた母校に戻って生涯を閉じた 大淀は、幸せな艦というべきだと、小淵氏は 語っています。  それにも増して、小淵氏ら大淀乗員を 感激させているのが、戦後間もなく、最後の 戦闘で大淀を支援してくれた飛渡瀬の 村人が、海岸に大淀戦没者の慰霊碑を 建立してくれたことでした。  これは、今も大淀の戦没者の冥福を 祈っているということでした。村には、 大淀会という子供会もあり、碑を護って いるということでした。大淀がいたことで、 村にも爆弾が投下されました。  それでも、村の人々は、大淀に救援を 惜しみなく与え、その誠心が今なお継続 されていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男


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