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巡洋艦摩耶 対空戦闘 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 味方機を砲撃したと知り、直ちに
停止されましたが、大変なミスをしたと
しています。味方機に被害はありません
でしたが、冷汗三斗との思いでした。

 井上氏は、このことで、前途に一抹の
不安を感じました。味方機は、敵艦隊撃滅の
闘志をみなぎらせて、東方に機影を没して
いきました。

 目指す敵艦隊に到達して、かつての
ハワイやマレー沖海戦のような大戦果を
挙げることを期待して、祈る気持ちで空を
見つめました。

 そうこうするうちに、再びレーダーに
小型機の編隊をキャッチしました。今度は
敵機に違いないと、摩耶の対空砲は、
全神経をこれに集中して待機しました。

 すると、敵の空母から発進したおなじみの
グラマンが、次々と視界内に現れて、攻撃準備に
入っていきました。重巡洋艦部隊は、速力を
あげながら迎え撃ち、一斉に砲門を開きました。

 敵機は、四方八方から急降下攻撃に
移ってきました。井上氏は、艦橋で、
操艦に専念しており、見張員の報告に
よって、彼我の態勢を頭に描きつつ、
転舵回避の時機を待ちました。

 敵機が本艦に対して急降下に移った時、
「面舵いっぱい。両舷前進いっぱい。」と
号令を発していました。摩耶は、速くも
回避運動をはじめ、後は対空砲火の威力と、
投下爆弾の行方を待つのみでした。

 息をつめる一瞬がすぎて、轟然一発、敵の
放った爆弾が摩耶の艦側に炸裂し、2機が
もんどりうって海中に突入していきました。
阿修羅の場面とは、まさにこの瞬間を
言うのだろうとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 マリアナ沖海戦 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 6月18日、旗艦大鳳に「皇国の興廃
この一戦にあり、客員一層奮励努力せよ。」
との信号が、39年前の日本海海戦と
同様に掲げられました。

 艦隊将兵の心には、皇国の運命を
われらの手で護持しようとする決意が
みなぎりましたが、この日は、ほとんど
波乱もなく夜に入りました。

 翌19日、運命のマリアナ沖海戦の
日がおとずれました。夜明け1時間前から、
摩耶の水上索敵機は、カタパルトから
発進して艦をはなれていきました。

 井上氏は、飛び立った搭乗員の引き
締まった顔が、戦後も印象に残っている
としています。これらの艦載機は、敵の
餌食となりました。

 昨日まで、艦の中で苦楽をともにし、
愉快に勤務していた戦友が、文字通り
不帰の客となった事を知った時、艦内の
空気は、粛然としたものがありました。

 午前8時少し前、警戒航行中のわが
艦隊は、小型機の大編隊を140kmの
遠距離にレーダーで捕捉しました。

 この頃には、日本軍も、巡洋艦以上の
大型艦には、レーダーを装備しており、
威力を発揮していました。

 レーダー室からの通報に接した艦内は、
にわかに色めき立って、ただちに対空戦闘
配備が下命されました。

 敵機とみられる編隊は、まもなく
艦上の望遠鏡にも発見され、間髪を
いれずに砲撃が開始されました。

 たちまち、いんいんたる砲声と、豆を
炒るような機銃音が、すみわたった
南溟の海にこだまして、大海空戦の
開幕を告げると思われました。

 ところが、編隊の先頭機が、翼を
バンクさせていました。これは、
味方機でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 サイパン島 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 猛将南雲忠一中将指揮する航空艦隊が
展開しているサイパン島付近の海面に、
アメリカ上陸部隊が押し寄せてきたのは、
1944年6月15日でした。

 サイパン島は、日本列島の扇の要の
ような位置にあり、ここにアメリカ軍の
拠点を作られると、長距離爆撃機で、
日本を空襲できる位置にありました。

 日本本土を攻撃して、戦時物資の補給源を
叩くことは、フィリピン奪還と並んで、
主要戦略でした。

 日本軍にとって、サイパンの死守は、
至上命題であり、敵軍にサイパンを
ゆだねることは、日本敗北に通ずるぐらい、
誰の目にも明白なことでした。

 日本軍は、陸軍の主力を同島に配備すると
ともに、陸海軍の大部隊がサイパン島に配備
されていました。アメリカの上陸第一報が、
連合艦隊にもたらされると、艦隊はただちに
リンガ泊地を抜錨し、ボルネオの基地で重油を
満載しました。

 その後、サイパン方面に敵を求めて進撃し、
今度こそは、アメリカ艦隊を全滅させ、戦勢を
挽回すべく艦隊の士気は極めて盛んなものが
ありました。

 しかし、航空機の発達した現代の海戦に
おいて、艦隊同士で砲火を交えるチャンスは
極めてまれで、勝敗の帰趨は、前哨戦の
航空攻撃により殆ど決まっていました。

 それだけに、このサイパン作戦に当たって、
今までの大小様々の海戦で、極度に消耗した
航空戦力の低下がいかんともしがたく、日本軍に
とって、頭痛のタネとなっていました。



紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 あ号作戦 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 井上氏は、転勤の命令が発令された
その日に、出発することにし、五十鈴の
先任将校に必要な申し送りを伝えました。

 井上氏は、熱望していた艦隊巡洋艦の
航海長に発令されたことで、足取り軽く
赴任したとしています。

 井上氏は、日本海軍の決戦に備える主力
部隊の重要任務に、馳せ参ずることでもあり、
日本海軍第一の防空力を備えた大型巡洋艦に
乗り組むことは、武人最大の名誉と考え、
責任の重さをひしひしと感じていました。

 1944年6月、「あ号作戦」に備えて、
連合艦隊が訓練に日夜励んでいたシンガポール
南方のリンガ泊地に、摩耶と共に進出して
いきました。

 アメリカ軍は、主力の第三艦隊が、太平洋
正面作戦に従事しており、第7艦隊は、陸軍
部隊と共に、南太平洋から、フィリピンの
奪回を狙う作戦戦方針をとっていました。

 日本軍は、主力機動部隊を軸として、
潜水艦部隊、航空艦隊、南西方面艦隊を配して、
西太平洋にアメリカ艦隊を迎え撃つ計画
でした。

 摩耶は、機動艦隊の中の第二艦隊に属し、
栗田健男司令長官の直率する第四艦隊の
一艦でした。

 戦局の帰趨を決する艦艇数、航空機数に
おいて、アメリカ海軍がはるかに優勢なので、
日本海軍の戦法として、航空機の先制攻撃、
陽動作戦による分激、夜間における魚雷
作戦によって撃破し、上陸部隊を水際で
撃沈する戦法が研究されました。

 砲撃戦と、夜間の魚雷戦は、艦隊将兵は
等しく自信を持っていましたが、チャンスを
作り出すことは、至難の業でした。航空戦力を
立て直すのは、さらに至難であり、立て直しの
途中で、作戦が始まったというのが実情でした。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 諸元 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 最初に巡洋艦摩耶の諸元をWikipediaから
抜粋してみます。

起工 1928年12月4日
進水 1930年11月8日
就役 1932年6月30日
最期 1944年10月23日沈没
北緯09度27分 東経117度23分
除籍 1944年 12月20日
要目(新造時→最終改装時)
  基準排水量 9,850トン→13,350トン
公試排水量 12,781トン→15,159トン
全長 203.76 m
最大幅 19.00 m → 20.72 m
吃水 6.11 m → 6.44 m
主缶 ロ号艦本式缶12基
主機 艦本式タービン4基4軸
出力 130,000馬力
速力 35.5ノット→34.6ノット
航続距離 14ノットで8,000海里
 →18ノットで5,000海里
乗員 760名→996名
兵装
 竣工時:
20.3cm連装砲5基10門
12cm単装高角砲4門
毘式四十粍機銃2挺
61cm連装魚雷発射管4基8門
(九〇式魚雷16本)
    最終改装時:
20.3cm連装砲4基8門
12.7cm連装高角砲6基12門
25mm3連装機銃13基39挺
同単装9挺
13mm単装機銃36挺
61cm4連装魚雷発射管4基16門
 装甲
  舷側:127mm
  水平:34-46mm
 砲塔:25mm
 搭載機 搭載数3機(射出機2基)

 摩耶は、井上氏が着任する1年前に
ラバウル港に停泊している時に、空襲を
受け、横須賀で修理中でしたが、完成
間近という時機でした。

 摩耶は、艦隊の主力戦闘部隊に所属して
おり、第二艦隊司令長官の指揮する
第4戦隊の一艦でした。

 貴重な戦争経験の教訓から、対空戦闘力も
画期的に改良増備され、最も期待された
巡洋艦でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 井上氏、巡洋艦摩耶に転属 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 ルオット沖で、二度目の大きな痛手を
受けた五十鈴は、乗員の奮闘により、
九死に一生をえて、1943年のうちに、
修理のため、内地に帰還しました。

 しかし、戦局が不利なことを国民に知られる
ことは大本営の戦闘指導上、極めて具合が
悪いということで、艦の損傷状況や、行動の
様子などは、いっさい厳秘にされ、乗員の
家族にも知らされませんでした。

 1944年正月、久しぶりに家族と過ごす
ことになった井上氏は、田舎の長兄が身を
案じてくれたのか、上京して一緒に過ごして
くれました。

 南方で、血で血をあらそう激闘が連日
繰り返されている時、ゆうゆうとした
正月を家族で過ごすのは、前回の
正月同様、いささかちぐはぐなものが
ありましたが、一人の人間としては、
やはりうれしいことでした。


 五十鈴の修理が順調に進んだ3月21日に、
井上氏は、巡洋艦摩耶へ転勤が発令され
ました。

(追記)
 五十鈴は、この後、レイテ沖海戦で、
小沢中将の指揮する第一機動隊に参加し、
防空や、千代田の曳航命令などをこなし
ましたが、千代田が撃沈したことで断念し、
呉に帰還しています。

 その後も、五十鈴は休むことなく、輸送
任務につき、敵潜水艦の雷撃を受け、
シンガポールで応急修理して、インド
ネシア海域での駐屯部隊になって
います。

 そして、1945年4月に、オーストラリアの
爆撃機と、アメリカ潜水艦の攻撃を受け、
撃沈しています。

 22年に及ぶ生涯でしたが、老朽艦と
言われながら、活躍した軽巡艦と言える
戦歴です。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 忘れられない戦闘 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 珊瑚礁を通過した井上氏は、直ちに、
「両舷機、前進原速」を下命しました。
すると、再び泊地内をグルグルまわり
だしました。そして、引き続き対空戦闘に
従事しました。

 後で気づきましたが、珊瑚礁の水深は、
五十鈴の吃水より深い位置にありました。
南洋の海水は澄んでいるので、太陽光線が
斜めに通過する朝方や夕方は、白く見える
ことがあります。自然現象のいたずらに
気づかなかったということです。

 約45分の対空戦闘が終わり、敵機が
退散した後、五十鈴の後部の被害を調査
してみると、500kg爆弾が、上甲板を
突き抜けて、舵取機械の軸に不発の
まま命中して、軸を切断していました。
戦死者は、20名ほどでした。

 僚艦の長良は、無事な姿を南洋の静かな海に
浮かべていましたが、多少の被害はあったよう
でした。近くに停泊していた1万t級の弾薬
輸送船は、命中した爆弾が火薬に命中し、
瞬時に轟沈しました。幸い、乗員の被害は
ありませんでした。

 目的である基地輸送作戦は、実施できなく
なり、五十鈴は、応急手当をした後、長良と
共に、12月上旬、トラック島に帰港しました。


 海上作戦に従事していれば、大作戦に
何回か遭遇するものの、本当に死を覚悟
しなければならないような激戦は、そう度々
あるものではありませんでした。

 しかし、ルオット沖のこの対空戦闘は、
井上氏にとって激烈な死を覚悟しなければ
ならない、忘れられない戦闘の一つと
なったとしています。

 クェゼリン、ルオットの両基地は、
1944年2月のアメリカ陸軍上陸作戦で、
ついに全滅しました。このことは、井上氏に
とって、脳裏からぬぐい去ることのない
痛恨事となりました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 舵きかず [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 一瞬の時間ももどかしいと感じていた
井上氏は、艦橋の速度計を確認しました。
喜ぶべきことに、五十鈴のエンジンは、
前進回転をはじめていました。

 これでよしとホット息を抜いた途端、
敵機の1弾が、艦の後部に命中したようで、
船体に激しい振動を感じました。しかし、
井上氏は、操舵に熱中しました。

 現在、狭い環礁の中を航海しているので、
全力を出すわけにはいかず、「両舷機、
前進強速」を令しました。

 後部からの被害の報告はきませんでしたが、
火災は起きていないことから、大きな
被害ではないと判断しました。

 しかし、艦の行き脚がつくに従い、舵が
きいていない事が分かりました。その直後、
艦が同じ方向にぐるぐる回り出しました。

 井上氏は、すぐに、「応急操舵、配置につけ」
を下命すると、爆弾回避のためには、そのまま
動いている方が安全と考え、そのまま泊地を
グルグル回ることにしました。

 その時、井上氏の視線の先150mくらいの
行く手に、南洋特有の珊瑚礁が、白く見えました。
舵がきかない上に、空襲中の五十鈴が、珊瑚礁に
向かっているという状況で、今から機関を
停止しても、座礁は必至でした。

 万事休すと考えた井上氏は、艦長に、
「このまま乗り上げます。」と報告するや、
被害を最小限にするため、「両舷停止、
後進いっぱい」と、号令しましたが、
その時には、五十鈴は、珊瑚礁に
乗りかかっていました。

 座礁を覚悟していた井上氏に対し、天佑か、
神力か、艦は微動すらせず、珊瑚礁を通過
しました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 独断の号令 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 やがて、明け方となり、東天がかすかに
白みかける頃、井上氏が、ベッドに
横たわっていると、突然、「総員配置につけ」の
非常ベルが全艦内に鳴り渡りました。

 防暑軍衣のまま寝ていた井上氏は、
一大事と艦橋に駆け上りました。
当直将校が、「敵機空襲」を口早に
報告してきました。

 指差す方を眺めると、数十機の敵艦上機が、
獲物に襲いかかるように、旋回しつつ
ありました。

 これはまずいことになるかも知れないと
思い、井上氏は、独断で、「機関全速力、
即時待機」「戦闘用意」「前部員、
出港用意」「対空戦闘」の号令を
矢継ぎ早に下しました。時刻は、
午前5時前でした。

 艦長が艦橋に上ってきました。艦長も、
次々と号令をかけて、戦闘の指揮を
とりました。

 井上氏は、出来るだけ早く出港する
必要があると判断し、機関室にエンジンが
使用可能になる、時機を問い合わせると、
15分かかるということでした。

 その間にも、主砲や対空機銃は、一斉に
火をふき、あたりはすさまじい轟音で、
耳もつんざくばかりでした。見張員からは、
敵機の動静が刻々艦橋に報告され、
敵戦闘機が、まさに急降下態勢に
入ろうとしていうのが、手に
とるように分かりました。

 航海長の井上氏は、エンジンの準備状況が
どうであれ、座して撃沈されるわけには
ゆかないと、また独断で、「両舷機、
前進一杯。」を令しました。

 この時、錨は、もう少しで揚がり終わる
状況でしたが、間に合わなければ、前進下命と
同時に、錨作業の人員を退避させ、ケーブルを
自然に切断し、強引に出港する決意でした。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 サイパン島に転送 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 第二戦的任務に明け暮れていた
1943年11月下旬、第14戦隊の長良と
五十鈴(鬼怒は呉で修理中)に、クェゼリン
環礁内にあるルオット航空基地の人員、
物資をサイパン島に輸送せよという
命令が下りました。

 この年の11月21日には、第4艦隊の
警備地域であるギルバート諸島のタラワ、
マキン両島で、激戦のすえ圧倒的な兵力で
日本軍守備隊を全滅させ、これを奪回して、
次の攻撃目標はクェゼリン環礁に向けられる
であろうことは、決定的と思われました。

 そこで、ルオット基地の人員、資材を
サイパン島に転送することは、貴重な
航空要員、資材を確保するためにも、
極めて重大な仕事でした。

 11月末近くに、長良と一緒に、
ルオット基地沖に入港した時、おり
から作戦行動中の第二艦隊を主力とする
大部隊が、泊地を出港した直後でした。

 これらの艦隊は、ギルバート作戦支援の
ために、この方面を行動していましたたが、
アメリカ軍の作戦成功により、その任務を
解かれ、撤退したものと考えられました。

 こうなると、ギルバート作戦に参加した
敵部隊が、いつ矛先をこのクェゼリンに
向けるかわからない心配はありましたが、
必要最小限の警戒態勢で停泊しつつ、
すぐに輸送の準備をはじめました。

 艦長と陸上の打ち合わせが終わり、その晩は、
そのままの態勢で停泊することになりましたが、
この時、ちょっとの警戒の緩みを生んでいました。

 これが、五十鈴をまたも、危機一髪の危地に
陥れることになりましたが、井上氏には、
知る由もありませんでした。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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