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巡洋艦五十鈴 戦争体験の余徳 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 五十鈴は、南方で、洋上航路の要点に
待ち受けている敵潜水艦の監視の目を
くらまして走り回り、夜中に物資を
揚陸したり、困難な曳航作業などの
第二戦的任務で、弾丸の雨で経験する
ものとは別の意味の苦労がありました。

 しかし、井上氏は、そのおかげで、泊地を
出入りするのに、高度の操艦技術を必要と
するトラック島、ヤルート島、ミレ島、
クェゼリン島などを真っ暗な夜中に
通峡することも平気でできるように
なったとしています。

 天地観測による艦の位置決定作業も何ら
不安もなく、迅速に海図上にプロットできる
ようになったほか、曳航作業も一つの過誤
なしに、思うように実行できるだけの技術を
身につけることができました。

 平時では時間もかかり、練習の機会も
少ないこれらの技術を、命を的の戦場で、
否応なしに覚えさせられることは、戦時の
ありがたさであるとしています。

 海上生活に大きな自信と勇気を与えてくれ、
人間、命をかけてやれば、不可能なことは
ないという教訓を如実に示してくれました。
井上氏は、これは、個人として本当に尊く、
数少ない戦争体験の余徳だったとしています。

 戦争を体験していると聞けば、一応の敬意を
払うものですが、その所以は、死生に対する
まとまったある考えを持ったことにあると、
しています。

 日本人は、先の戦争で、物質的な損失
ばかりにとらわれて、立ち上がる勇気まで
失ったものも多かったですが、戦争によって、
精神的に得たところを思えば、あえて
悲観することもないとしています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 再び南方に [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 休暇中、独り者は、郷里に帰って、両親や
親類友人に戦争の話などして、孝養友誼を
つくし、家族もちは、妻子とともに、
団らんの一時を楽しみました。

 戦争の厳粛さに対する人間生活の喜び
でした。この喜びが、大きければ、大きいほど、
国家や国民を自分たちの手で守るという
自覚が深まっていきました。


 五十鈴が内地で損傷箇所の修理を
していた1943年の前半は、南方
戦線における日本軍の優勢が、悪化の
一途をたどり始めた時期でも
ありました。

 2月にガダルカナル島を撤収し、その後、
南方戦線の急速整備に狂奔した日本海軍と、
南方海域の奪回に次々と新手をくりだした
アメリカ海軍との間に、ビスマルク海戦以下の
海戦、航空戦を小規模ながら随所に繰り広げて
いました。

 4月18日に、山本長官が、ブーゲンビル島の
上空で戦死するという悲報がもたらされ、国民は
戦局の前途にくらいものがあることを、予感
せずにはいられませんでした。

 このような中、五十鈴の大修理が終わって、
新しい陣容で、南方洋上のトラック島に進出
したのは、1943年5月のことでした。

 五十鈴は、トラック島に司令部をおく、
第4艦隊に所属し、僚艦の長良、鬼怒と
ともに、第14戦隊を編成していました。

 トラック島では、南洋諸島の各地に散在する
離島の部隊に兵器・弾丸・食糧を輸送し、
航路のあちこちで敵潜水艦の攻撃にあって、
立ち往生しているタンカーや、軍用船の
救助にあたっていました。

 これら、華やかな第一線の活動に比べると、
五十鈴が行った後方の第二戦任務でしたが、
苦労がありました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 修理が進む [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 缶室内部は、2ヶ月近くも海水につかって
いたため、油や、黒い焼けくずなどで、最初は
手のつけようもありませんでした。それでも
修理が順調に進み、1943年5月には、
艦はほぼ元の姿になっていました。

 これは、艦長が、ガダルカナル島をめぐる
戦局の重大さを考えて、一刻も早く戦列に
復帰しようと、工期の繰り上げを強行に
要求し、会社側も徹夜作業を何回となく
行い、工事完成を半月ほど早めたためでも
ありました。

 その間に、乗員の交代や補充も迅速に
行われ、砲術、水雷、機関などの各科に
わかれて、教育訓練も休みなく続けられ
ました。

 乗員の教育は、基礎学科を座学で教え、
基礎訓練、応用訓練、実射訓練と鍛えて
いきます。

 新乗艦者としてなんとか役に立つまでに
するのが、教育の目的でしたが、これには
最低限6ヶ月はかかりました。

 しかし、修理が終わってすぐに戦列に
復帰しなければならないので、平時のように
ゆっくり教育するわけにはいきませんでした。

 さらに、夜間に高速で行う訓練は、やりたくても
できませんでした。この訓練は、陸上にある学校の
教材や練習艦などを利用して、補っていました。

 多忙な日課に明け暮れていた五十鈴乗員
でしたが、正月や、休暇規則で決められた
休みは完全に与えられていたので、これらは
何物にも代えがたい喜びとなりました。

 戦争の最中に、南方の戦塵を、休暇で洗い
流す姿は、事情を知らないものには、奇異に
見えたかも知れないとしています。しかし、
二度と家族会うこともできないと考える
乗員にとって、天与の機会と言えました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 横須賀に帰還 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 輸送作戦で致命傷を負った五十鈴は、
右舷の艦腹に大きな穴を開けたまま、
1942年12月、苦心惨憺ののち、
ようやく母港の横須賀に、
たどり着きました。

 損傷部の修理と、負傷者や戦死者の
交代人員を補充し、艦隊の戦列への
復帰を急ぎました。軍艦の乗員は、
こんな理由で、ときたま内地に
帰還するチャンスがありました。

 限られた数の軍艦を、1隻でも失うことは、
それだけ戦力の低下につながるので、どんな
痛手を受けても、内地の工廠で艦を修理して、
再び使えるようにすることは、至上命令でした。

 五十鈴が横須賀に入港すると、海軍工廠の
検査官がすぐにやってきて、直ちに修理工事の
見積をはじめました。

 そして、横浜の造船会社に、工事を委託され、
その工期もやく6ヶ月と決まりました。

 井上氏は、ドックに入って五十鈴の
右舷を改めてみました。全滅の第一缶室の
姿が痛々しい状況で、目に映りました。

 爆弾が命中したさいに、噴き出した
高熱の蒸気によって、在室の機関員は、
瞬時に戦死し、遺体は全て現地で
回収していました。

 しかし、誰とも分からぬ腕の骨や、拳の骨が
船底から収容されました。弾丸が、雨飛する
戦場では、戦友の遺体も充分に葬っている
暇もないが、静かな内地でこんな光景に
出くわすと、人間の儚さを感じました。

 そこで、戦死した同僚へのせめてもの
慰めにと、丁重に白木の箱に収め、軍艦旗に
包んで、横須賀海軍墓地に送りました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 気転の煙幕。艦命を救う。 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 五十鈴は、右に20度ほど傾き、行き脚は
全くなく、第一缶室とおぼしきあたりからの
火災は、鎮まっていませんでした。

 しかし、黒煙の煙幕による欺瞞が成功したのか、
敵機は沈没確実と見て、視界外に去っていき
ました。敵機の心配がなくなったので、全艦
あげての消火や応急対策に専念できるように
なりました。

 爆弾は、第一缶室のすぐそばで爆発しており、
室内の機関員を全滅させ、隣の士官室一帯に
大火災を発生させていました。そのための
処置に時間がかかるものの、沈没の心配はなく、
ある程度の航行も可能だと分かりました。

 この後、乗員の一致協力により、かろうじて
危機を脱した五十鈴は、翌日の11月16日に、
ショートランド基地にたどり着くことが
できました。

 到着直後、艦隊長官から、お褒めの言葉を頂き、
ホッとした気持ちと、嬉しさのあまり、井上氏は
思わず涙ぐんで、しまいましたが、これこそ、
「気転の煙幕。艦命を救う。」の一幕でした。

 戦争のさなかなので、このような危険は
つきものでした。

(追記)
 上記は、第三次ソロモン海戦の第二夜戦からの
帰途ということになります。この夜戦で、前日に
撃沈した比叡に続き、戦艦霧島が撃沈して
います。

 この作戦は、10月に行われた金剛と榛名の
飛行場砲撃を再度行うということで実施された
作戦でした。

 金剛と榛名の飛行場砲撃の際、五十鈴も
護衛として参加し、井上氏は、飛行場の
敵機や建物が炎上する様子を望遠鏡で
見ており、思わず万歳を叫んだと
しています。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 敵機の餌食 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 輸送作戦が失敗に終わり、帰途についた
五十鈴らは、敵機に狙われることになりました。

 味方は、滞空防御隊形を作って、28ノットの
戦闘速力で、ショートランドに向かって、
まっしぐらに突き進んでいきました。

 11月15日、五十鈴らは、敵機の数波に渡る
攻撃を受けました。こうなると、輸送部隊の中で、
最老齢の五十鈴は、速力の出方が思わしくなく、
少しずつ落伍していき、敵機の格好の餌食と
なりました。

 一発の爆弾が、艦室至近の海中で爆発し、
大きな爆音と一緒に船体をふるわして、黒い
煙がふきあがり、艦の行き脚も目に見えて
減っていきました。

 そして急激に五十鈴は右舷に傾き、沈没
しそうな状態に陥りました。後甲板を見ると、
盛んに火災が上っており、甲板員が、
右往左往しながら消火作業に当たって
いました。

 上空には、敵機が、五十鈴の最期を見守る
ように、飛びまわっていました。味方の艦は、
遥か水平線の彼方に白いウエーキを
残しながら、姿を消しつつありました。

 心細いことこの上ない状態ですが、これ以上
被害を出さないために、五十鈴が犠牲になるのは
定則であり、不服をいうことは禁物でした。

 井上氏は、自分の一生もこれで最期かと
覚悟しながら、応急対応に懸命になって
いました。

 すると、砲術長が、「艦が、まさに沈没
するように見せかけるために、黒い煙幕を
出したほうが良くないか。」という進言を
していました。

 井上氏は、機関指揮所に連絡し、煙幕展張は
可能だと聞き、早速艦長の許可を得て、煙幕を
張りました。まもなく、黒煙がもうもうとして
四周を覆いました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 ガダルカナル島への輸送作戦 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 1942年11月中旬、五十鈴は、
ブーゲンビル島の南にあるショートランドを
出港した高速船団11隻を護衛するために、
巡洋艦鳥海らと護衛にあたっていました。

 船団は、当時生き残っていた優秀船ばかりで、
その中には、井上氏が進水式に参列した
三井船舶のキャンベラ丸や、青葉丸などが
見えていました。

 積載量1万t、速力18ノットの高速船で、
これらの船団を、ガダルカナル島に送り
届ける任務でした。

 しかし、ガダルカナル島に近づくと、
近海を遊弋していた敵空母部隊からの
艦上機の攻撃を浴び、虎の子の優秀船が、
次々に撃沈していきました。

 このような時、アメリカ軍は、輸送船のみを
狙うので、護衛艦は、対空射撃に専念でき、
ほとんど被害をうけることはありませんでした。
しかし、貴重な船が沈んでいく姿は、わが身を
削られるような、思いでした。

 このような惨憺たる対空戦闘のはて、
満身創痍の状態で、泊地に突入した船は
2隻のみで、その2隻も停泊のまま攻撃を
受けて炎上し、地上軍の作戦計画は、
完全に挫折しました。

 味方の航空機は、少数の上、戦闘機の
行動できる範囲をはるかに出ていたので、
戦場上空における滞空時間は、極端に
少なくなりました。どうにもできない
というのが、実情でした。

 アメリカ海軍の主力が、近海にいたので、
日本海軍も正攻法は、かけられません
でした。切歯扼腕とは、まさにこのような
状況のことだとしています。

 期待されていた輸送作戦は、失敗に
終わり、護衛部隊は、涙をのんで帰途に
つくことになりました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 ガダルカナル島 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 日本軍が、緒戦の戦果を整理し、占領地住民の
宣撫工作をはじめた頃は、アメリカ軍にとっては、
巻き返しの準備段階に合ったので、戦闘らしい
戦闘は、南方海域に関する限り、起こりません
でした。

 しかし、マッカーサー式の陸軍が、海軍支援の下に、
ガダルカナル島に上陸してからは、戦局は急激に
変わっていきました。同時に、ジャワやボルネオ
方面で警備にあたっていた五十鈴も、鬼怒、
名取とともに、ラバウル方面に進出を
命じられました。

 ガダルカナルの作戦は、南方諸島制圧の
天王山で、日本海軍の死闘は、1943年2月7日まで
続きました。その間、第一次から第三次までの
ソロモン海戦、南太平洋海戦をふくむ約12回の
海戦が行われました。

 すべて、ガダルカナル島を目標に戦われたことを
考えれば、この作戦がいかに凄惨なものであったかが、
うかがえました。海軍の主任務は、陸軍への物資輸送と、
敵海軍の排撃でした。

 艦船と航空機すべて注ぎ込んで、占領を
確保しようと努力した日本海軍も、戦時生産を
軌道にのせたアメリカの膨大な物量の前に、
ジリジリ追い込まれました。

 日本軍がガダルカナルを撤収した以後の
戦局は、アメリカ軍が有利に展開していました。
戦略的価値がいかに大きいものだったかが、
伺われるとしています。

 この時、輸送作戦に参加していた五十鈴は、
危うく沈没寸前の危機にあいました。井上氏は、
戦後になっても忘れることができないと
しています。

 1942年11月中旬に、鳥海らといっしょに、
輸送任務にあたっているときでした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 人間性の調和による一時の安らぎ [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 戦闘で埠頭やビルなどは、ところどころ
破壊されたままになっていましたが、
日本軍の作戦拠点に転用され、どこへ
行っても、わが陸海軍の兵隊たちが、
氾濫していました。

 そして、現地人は、英蘭人の圧迫から
解放され、明るい顔で出迎えてくれました。

 五十鈴が、南方に進出した頃から
1ヶ月間は、のんびりしたもので、
最前線の戦友にすまないと思われる
毎日が続きました。

 井上氏は、このようなときこそ、旧跡を
回って、見聞を広めようと考えていました。
ペナンは、マラッカ海峡の北口をやくする
美しい港で、イギリス軍が使用していた
陸上の建物は、ほとんど日本軍に徴用
されていました。

 そこには、日本でもみられない冷房付きの
寝室や、テニスコートがある水行社があり、
快適にすごすことができました。

 熱帯の直射日光は、容赦なく艦の鉄板に
照りつけ、扇風機も空回りするような毎日
だったので、上陸した時にテニスで汗を
かき、冷えたビールで気持ちを鎮める
楽しみは、海軍軍人でなければ、
味わえない別世界でした。

 このような時は、戦地という厳粛な
環境の中にあることを忘れましたが、
インド洋に出撃していく潜水艦を
みていると、自分の過ごしている
現実が、人類の歴史にいかなる
役割を果たしているのだろうか
という懐疑的な気持ちになったと
しています。

 戦争といっても、四六時中戦争をしている
わけではなく、上記のように、合間には、
内地では想像もされない生活と楽しさが
訪れることがありました。

 明日をも知れない軍人の運命と、
人間性の調和による一時の安らぎが
あって、戦争の苦しみを忘れさせ、
もちこたえさせる何ものかが
ありました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 メルギーに進出 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 井上氏は、兵学校同期の戦友に連れられて、
現地民の歌や踊りで楽しんでいる場に
行きましたが、被征服民の悲哀を一時の
快楽で逃避させているとしか見えません
でした。

 井上氏は、ここで、戦友と別れ、五十鈴に
戻りました。この戦友は、後に輸送機で
日本に帰還する途中で遭難し、戦死
しています。

 アル群島、ケイ群島は、7月下旬に海軍
陸戦隊によって占領され、五十鈴は、ごく
短時間だけ、海上を游弋して、支援した
だけに終わりました。

 作戦が完了して間もなく、「五十鈴は、
メルギーに進出せよ。」という電報命令が
ありました。井上氏は、メルギーがどこにあり、
任務は何なのか全く知りませんでした。

 調べてみると、メルギーは、マレー半島の
西岸、ビルマ領内にありました。3日間の
航海で、目的地メルギーに入港してみると、
そこには、第二艦隊が停泊陣形をして
いました。

 状況は、「航空機偵察によれば、セイロン島
ツリンコマリ港に、戦艦空母を含む、有力なる
英国艦隊が停泊している。前進部隊は、
航空部隊と協力して、この敵艦隊を
撃滅せよ。」ということでした。

 五十鈴の士気は上がり、戦闘即応の
体制で待機していましたが、大本営の
命令で、この作戦は中止となり、集合
していた各部隊は解散して、メルギーを
離れていきました。

 それから、五十鈴は、大した作戦も
ないまま、セレベス島マカッサル、
ジャワ島スラバヤとバタビア、マレー
半島シンガポールとペナン、ビルマの
メルギー、スマトラ島サバンなどの各港を
めぐり歩きました。

 これらの港は、オランダ、イギリスの
重要拠点なので、港湾や、市街の
建設には、巨額の費用を駆けており、
目を見はらせました。


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著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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