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巡洋艦摩耶 諸元 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 最初に巡洋艦摩耶の諸元をWikipediaから
抜粋してみます。

起工 1928年12月4日
進水 1930年11月8日
就役 1932年6月30日
最期 1944年10月23日沈没
北緯09度27分 東経117度23分
除籍 1944年 12月20日
要目(新造時→最終改装時)
  基準排水量 9,850トン→13,350トン
公試排水量 12,781トン→15,159トン
全長 203.76 m
最大幅 19.00 m → 20.72 m
吃水 6.11 m → 6.44 m
主缶 ロ号艦本式缶12基
主機 艦本式タービン4基4軸
出力 130,000馬力
速力 35.5ノット→34.6ノット
航続距離 14ノットで8,000海里
 →18ノットで5,000海里
乗員 760名→996名
兵装
 竣工時:
20.3cm連装砲5基10門
12cm単装高角砲4門
毘式四十粍機銃2挺
61cm連装魚雷発射管4基8門
(九〇式魚雷16本)
    最終改装時:
20.3cm連装砲4基8門
12.7cm連装高角砲6基12門
25mm3連装機銃13基39挺
同単装9挺
13mm単装機銃36挺
61cm4連装魚雷発射管4基16門
 装甲
  舷側:127mm
  水平:34-46mm
 砲塔:25mm
 搭載機 搭載数3機(射出機2基)

 摩耶は、井上氏が着任する1年前に
ラバウル港に停泊している時に、空襲を
受け、横須賀で修理中でしたが、完成
間近という時機でした。

 摩耶は、艦隊の主力戦闘部隊に所属して
おり、第二艦隊司令長官の指揮する
第4戦隊の一艦でした。

 貴重な戦争経験の教訓から、対空戦闘力も
画期的に改良増備され、最も期待された
巡洋艦でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 井上氏、巡洋艦摩耶に転属 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 ルオット沖で、二度目の大きな痛手を
受けた五十鈴は、乗員の奮闘により、
九死に一生をえて、1943年のうちに、
修理のため、内地に帰還しました。

 しかし、戦局が不利なことを国民に知られる
ことは大本営の戦闘指導上、極めて具合が
悪いということで、艦の損傷状況や、行動の
様子などは、いっさい厳秘にされ、乗員の
家族にも知らされませんでした。

 1944年正月、久しぶりに家族と過ごす
ことになった井上氏は、田舎の長兄が身を
案じてくれたのか、上京して一緒に過ごして
くれました。

 南方で、血で血をあらそう激闘が連日
繰り返されている時、ゆうゆうとした
正月を家族で過ごすのは、前回の
正月同様、いささかちぐはぐなものが
ありましたが、一人の人間としては、
やはりうれしいことでした。


 五十鈴の修理が順調に進んだ3月21日に、
井上氏は、巡洋艦摩耶へ転勤が発令され
ました。

(追記)
 五十鈴は、この後、レイテ沖海戦で、
小沢中将の指揮する第一機動隊に参加し、
防空や、千代田の曳航命令などをこなし
ましたが、千代田が撃沈したことで断念し、
呉に帰還しています。

 その後も、五十鈴は休むことなく、輸送
任務につき、敵潜水艦の雷撃を受け、
シンガポールで応急修理して、インド
ネシア海域での駐屯部隊になって
います。

 そして、1945年4月に、オーストラリアの
爆撃機と、アメリカ潜水艦の攻撃を受け、
撃沈しています。

 22年に及ぶ生涯でしたが、老朽艦と
言われながら、活躍した軽巡艦と言える
戦歴です。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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