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巡洋艦五十鈴 修理が進む [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 缶室内部は、2ヶ月近くも海水につかって
いたため、油や、黒い焼けくずなどで、最初は
手のつけようもありませんでした。それでも
修理が順調に進み、1943年5月には、
艦はほぼ元の姿になっていました。

 これは、艦長が、ガダルカナル島をめぐる
戦局の重大さを考えて、一刻も早く戦列に
復帰しようと、工期の繰り上げを強行に
要求し、会社側も徹夜作業を何回となく
行い、工事完成を半月ほど早めたためでも
ありました。

 その間に、乗員の交代や補充も迅速に
行われ、砲術、水雷、機関などの各科に
わかれて、教育訓練も休みなく続けられ
ました。

 乗員の教育は、基礎学科を座学で教え、
基礎訓練、応用訓練、実射訓練と鍛えて
いきます。

 新乗艦者としてなんとか役に立つまでに
するのが、教育の目的でしたが、これには
最低限6ヶ月はかかりました。

 しかし、修理が終わってすぐに戦列に
復帰しなければならないので、平時のように
ゆっくり教育するわけにはいきませんでした。

 さらに、夜間に高速で行う訓練は、やりたくても
できませんでした。この訓練は、陸上にある学校の
教材や練習艦などを利用して、補っていました。

 多忙な日課に明け暮れていた五十鈴乗員
でしたが、正月や、休暇規則で決められた
休みは完全に与えられていたので、これらは
何物にも代えがたい喜びとなりました。

 戦争の最中に、南方の戦塵を、休暇で洗い
流す姿は、事情を知らないものには、奇異に
見えたかも知れないとしています。しかし、
二度と家族会うこともできないと考える
乗員にとって、天与の機会と言えました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 横須賀に帰還 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 輸送作戦で致命傷を負った五十鈴は、
右舷の艦腹に大きな穴を開けたまま、
1942年12月、苦心惨憺ののち、
ようやく母港の横須賀に、
たどり着きました。

 損傷部の修理と、負傷者や戦死者の
交代人員を補充し、艦隊の戦列への
復帰を急ぎました。軍艦の乗員は、
こんな理由で、ときたま内地に
帰還するチャンスがありました。

 限られた数の軍艦を、1隻でも失うことは、
それだけ戦力の低下につながるので、どんな
痛手を受けても、内地の工廠で艦を修理して、
再び使えるようにすることは、至上命令でした。

 五十鈴が横須賀に入港すると、海軍工廠の
検査官がすぐにやってきて、直ちに修理工事の
見積をはじめました。

 そして、横浜の造船会社に、工事を委託され、
その工期もやく6ヶ月と決まりました。

 井上氏は、ドックに入って五十鈴の
右舷を改めてみました。全滅の第一缶室の
姿が痛々しい状況で、目に映りました。

 爆弾が命中したさいに、噴き出した
高熱の蒸気によって、在室の機関員は、
瞬時に戦死し、遺体は全て現地で
回収していました。

 しかし、誰とも分からぬ腕の骨や、拳の骨が
船底から収容されました。弾丸が、雨飛する
戦場では、戦友の遺体も充分に葬っている
暇もないが、静かな内地でこんな光景に
出くわすと、人間の儚さを感じました。

 そこで、戦死した同僚へのせめてもの
慰めにと、丁重に白木の箱に収め、軍艦旗に
包んで、横須賀海軍墓地に送りました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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