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巡洋艦五十鈴 著者井上氏、 五十鈴着任の内報を受ける [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 ミッドウェー海戦は、作戦の前途に暗影を
投じた意味では、画期的なものでした。一方、
国民の士気を失わせない配慮からか、大本営の
成果発表は、相変わらず軍の勝利を伝えるもの
でした。

 しかし、井上氏らは、ミッドウェー海戦が、
不覚の最初の敗北であったことは、程なく
分かってきたとしています。

 井上氏は、兵学校着任からそろそろ
1年以上経つので、交代出陣の日が
近いことを予想していました。

 1942年6月下旬、井上氏が所属
していた航海科の大野中佐から、
7月10日付をもって、巡洋艦
五十鈴の航海長兼分隊長に補職
される旨の内報を受けました。

 井上氏は、上海陸戦隊や、揚子江
溯江作戦などで、弾丸の下をくぐる
経験は、充分に持ち合わせていたので、
戦争そのものに対する恐怖は考えません
でした。

 しかし、準備や引っ越しと、奥様への
訣別のことなどを考えると、来るものが
来たという覚悟を新たにさせるものが
ありました。

 内報を受けてから、五十鈴に向けて
出発するまでの半年間は、忙しい毎日の
連続でした。

 奥様へは、訣別の封書を渡しています。
内容は、「いつ戦死するかわからないので、
その覚悟を持ってほしい。戦死の知らせが
あった時、子供があれば、養育して井上家を
守ってもらいたい。

 子供がなかったら、再婚して幸福な人生を
送ってもらうことに何ら反対はしない。」という
ものです。

 そして、爪と髪を入れて、遺書と墨書きし、
戦死の報があったら開封してもよいが、
なければ開けないようにと細書し、
渡しています。

 幸い、この遺書は、開封されることはなく、
焼却されました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 個人の憐憫と国家に対する犠牲的献身 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 第一線の決死的な苦労に比べれば、
波静かな江田島の生活は平和そのもので、
平時と変わらぬ教育に明け暮れました。

 しかし、開戦から3ヶ月もたつと、
「誰々が、どこそこの海戦でやられたらしい・・・」
という噂が耳の入るようになってきました。
それが知っている人だと、胸中暗然たるものが、
わいてきました。

 しかし、軍人の本分を思うと、いつまでも
気にすることはできませんでした。このような
考えは、薄情にも感じましたが、個人の憐憫と、
国家に対する犠牲的献身は、はっきり分けないと、
自己を律することはできませんでした。

 このような考え方が、他の人にあったかは、
分かりませんでしたが、皆、心に期するところが
あり、校内での日常生活は、官舎での私生活も
含めて、かえってほがらかなものでした。

 そうこうするうちに、ハワイやジャワ沖の
海戦で赫々たる戦果を上げてきた武勲の
勇士たちが、任期を終えて兵学校に
転勤してくるようになってきました。

 真珠湾口に勇名をうたわれた潜水隊の
司令が呉に帰港して、凄絶苦闘の実戦談を
全員に公演して聞かせてくれたことが
ありました。

 他にも、個人的に江田島を訪れ、兵学校の
教育に対する真剣な忠告を与えてくれる
先輩も、数多くありました。

 そのため、前線への転属を熱心に志願する
教官や生徒が増えて、生徒の卒業期が
半年以上も早められることになりました。

 若い将兵の意気には、誠に盛んなものが
ありました。はじめの勝ちっぷりが、
輪をかけていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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