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巡洋艦五十鈴 ドーリットル空襲 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 開戦以来戦勝に明け暮れて、国民の気持ちが
うわずりがちの時に、ドーリットル中佐の
指揮するアメリカ陸軍B 25爆撃機が、東京、
名古屋、神戸、四日市の各都市を空襲し、
国民の心胆を寒からしめました。

 兵学校の生徒は、毎日の作業日誌をつけており、
所見を添えて教官に提出する規則になっていましたが、
この空襲に対しては、「これくらいでへこたれる
ものではない。勉学に励み、この仇を必ず討つ。」
というものが多数でした。

 20才前後の年齢層が書いたものとしては
立派で敬服するものの、戦勝の安易感に
溺れるのを戒める必要から、「元寇以来
二度目であり、その意味では、極めて
重要な出来事であり、覚悟を新たに
しなければならない。」と所見をつけて
返却しました。

 井上氏は、自分の所見が、いかなる影響を
与えたかは知る由もないとしています。しかし、
井上氏の危惧通り、2ヶ月後のミッドウェー
海戦で惨敗した時、これを契機に次第に
後退を続け、立ち上がれないほどの打撃を
受けることになりました。

(追記)
 井上氏は、神州3000年の歴史において、
夷狄に侵されたのは、元国の侵寇以来と
しており、元寇を天佑神助によって撃ち払い、
「神州不抜」の信念と伝統に、燃えていた
としています。

 昭和になって、ドーリットル空襲として、
史上二度目の侵寇を受けるに至ったのは、
先祖に対し申しわけないとしています。
井上氏は、引き締めなければならない
というのが、偽らざる気持ちだった
としています。

 上層部も同様に考えていた可能性があり、
ミッドウェー海戦に突き進んだ、精神的
理由が表れているように感じます。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦五十鈴 捕虜の問題 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 陸海軍の侵攻作戦は、疾風枯葉を
まくのごとく、電撃的に進められ、
1942年3月には、予定通り、
西太平洋の敵重要拠点の大部分を
攻略し、ドイツ・イタリアの
作戦成功と呼応して、戦局の
見通しは、極めて明るいものが
ありました。

 当時の中学生(今の高校生)の陸海軍
諸学校への入学志望熱も、大変なもので、
天下の秀才兵学校に集まるの観を呈して
いました。教える教官も、教えられる
生徒も、出陣を期して、ともどもに
張り切りました。

 その頃、妙な通達が、中央当局から
もたらされました。内容は、
「犠牲敵精神と、廉恥心を尊ぶ軍人と
なるような、生徒教育にさらに努力せよ。」
といった意味のものでした。

 井上氏は、精神訓育は、最初から中心に
すえて教育していたので、この通達は
狐につままれたような思いがしました。

 井上氏はひそかに探りを入れると、
この通達の裏に、捕虜の問題が
あったことが分かりました。

 ハワイ攻撃の際に、若年将校に捕虜が
出たことを、アメリカが発表しており
(日本では未公表)、厳重に戒める
ためのもののようでした。

 日本では、「一死報国、醜虜の
はずかしめを受けず」という
軍人精神が受け継がれていました。

 しかし、死ぬに死なれず、捕虜と
なった場合はどうするのかという
問題が残りました。といって、
軍紀維持のために、醜虜の
はずかしめを肯定することも
できませんでした。

 井上氏は、校則に定められた通りに、
教育を進める態度を、とらざる
をえませんでした。

 自分自身が精神修養の道が、遥かに
遠いと感じていたので、自信を持って
指導することは難しいと感じていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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