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源田実参謀 台湾沖航空戦の真の戦果 [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖航空戦の真の戦果は、以下の通りです。

大破したのは、重巡洋艦キャンベラ、軽巡洋艦
ヒューストンで、両方とも魚雷が命中して
いました。他に損傷が、空母フランクリンと
ハンコック、軽巡洋艦レノでした。

 これは、日本軍機の激突と、爆弾命中に
よるものですが、撃沈はしていません。
結局、撃沈した艦はなく、17隻の空母は
全て健在だったと言えます。

 戦果針小棒大になったのは、夜間であった
ことと、練度不十分な搭乗員が、撃墜された
味方機の炎上や水柱、敵の砲火などを撃沈と
見誤ったためのようでした。

 10月12日の航戦状況を、アメリカ側の
報告で見ると、「日本軍の攻撃は何の戦果もなく、
大部分は、戦闘空中哨戒機と、対空砲火に
より撃墜され、アメリカ軍の損傷は、味方の
駆逐艦を誤射して損傷させただけである。」
としています。

 中島中佐の、「戦果はゼロに近い。」が最も
正確な分析だったということです。T攻撃部隊
作戦は、アイデアが奇抜なだけの、合理性の
ない大敗を招く作戦だったということを
証明しました。

(追記)
 ① 夜間であっても、レーダーにより
  位置は知られることになる。
 ② 対空砲火はVT信管付きのため、
  航空機は攻撃する前に撃墜される
  可能性が大きい。
 という2点は、過去の海戦を検証していれば、
分かったことです。

 作戦検討に参加していた人の中に、
源田参謀の案がこれらを考慮していない
ということを正確に判断できる人材が
いなかったということになります。

 正確な分析を指摘していた人たちの
話が全て無視されていることからしても、
この当時の組織の歪さが伺われます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 源田参謀の認識 [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖航空戦において、驚くべき戦果発表が
行われた事に対し、実松大佐や、中島中佐は、
冷ややかに見ていましたが、源田参謀は、
鼻高々だったようでした。

 大本営発表は、連合艦隊からの戦果と
被害報告に基づいたものです。また、
T攻撃部隊だけの戦果でもありません
でした。

 しかし、10月14日までの分は、
T攻撃部隊の戦果報告によるものが
大部分でした。

 そのため、源田参謀はそのまま通し、
航空部隊の手柄を自分の手柄として
誇りたかったようでした。

 本来、源田参謀は、航空の専門家であり、
戦果報告の真偽は、分かるはずでした。

 しかし、珊瑚海海戦の時の25航戦の
針小棒大な戦果報告に始まった、航空
部隊の誇大報告を、ほとんどその通りに
信じていたとしか思えませんでした。

 しかし、発表翌日の16日には、早くも
次のようなことが起こりました。

 台湾から飛び立った、索敵機が、空母2隻、
戦艦2隻他を、台湾南端東南東の海面で発見し、
鹿屋から飛び立った索敵機も、台湾東北東の
海面に、空母7隻を発見したという報告が
ありました。

 翌日の17日には、レイテ湾入り口の
スルアン島に、アメリカ艦隊の攻略部隊が
上陸し、同島をたちまち占領しました。

 これは、レイテ島上陸作戦の前触れであり、
翌18日には、ルソン島、マニラ湾周辺の
飛行場が、機動部隊の猛爆を受けました。

 ここに至って、連合艦隊も大戦果を
バッサリ切り下げ、空母4隻撃破程度と
大修正しました。しかし、これでも判断は、
甘いと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 中島中佐 [源田実航空作戦参謀]

 源田参謀は、中島中佐についても、
以下の評価をしています。

 「千早大尉のメジュロ方面偵察で、
敵の機動部隊が我が国防圏のどこかを
攻撃しようとしていることは明瞭だが、
それがどこかを判断することが、
また容易ではなかった。

 軍令部と、連合艦隊司令部の
幕僚共同研究の席上、中島中佐の
判断は断定的であった。

 “敵の攻撃は、カロリン列島線より
北に寄った方向に向けられる”
というのである。

 彼は、明敏な頭脳の持ち主だが、
その根拠は、どういうものか
わからなかった。

 しかし彼の主張は、正しかった。
卓見であった。」としています。

(追記)
 前回の実松中佐に対する評価と合わせ、
源田参謀が、これらの案を否決していた
ことに、全く言及していません。

 今までの源田参謀の言動からすると、
自分の失敗を隠すために、実松中佐や
中島中佐のことを評価しているのでは
ないかと感じます。

 中島中佐は、ミッドウエー攻略の際も、
的確な指摘をしていますが、これらを
司令部が一蹴しています。

 しかし、ここまでの流れを見れば、
一蹴されるべきは源田参謀であったと
感じます。

 実松中佐や中島中佐、源田参謀と
張り合っていた柴田大佐らを
重用すべきだったといえます。

 日本軍が本来なら実力主義を徹底
しなければならない軍隊において、
年功序列や学歴主義で人事を決めて、
信賞必罰が徹底されていないことが、
このような問題人事になっていると
思われます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 実松中佐 [源田実航空作戦参謀]

 実松中佐には、以下のような話がありました。

 彼は、アメリカ海軍がマリアナに来ると、
早くから言っていました。しかし、
山本大佐や源田参謀は相手にせず、
中島中佐だけが、熱心に聞きに
来ました。

 源田参謀は、「実松中佐は、断乎として
中部太平洋進攻論を主張し、一歩も
譲らなかった。

 その根拠は、“アメリカ軍は、膨大な
艦艇建造を推進していて、その主力は、
エセックス型空母。

 アメリカ軍が、この有力な空母部隊を、
遊ばせておくはずがない。しかし、大機動
部隊を全幅利用しようとすれば、天象地象と、
作戦海面の広狭などから考えてみると、
中部太平洋以外に場所はない。

 従って、アメリカ軍は、機動部隊の
整備完了次第、内南洋諸島(マリアナ)に
対して、攻勢を開始するだろう。“
というのであった。

 実松中佐は、ワシントンに駐在していて、
アメリカ軍事情や、アメリカ人の基質も
よく呑み込んでいました。

 その判断はさすがに的確で、半年
しないうちに事実となって現れてきた。」
と評しています。

(追記)
 以前紹介しました通り、源田参謀は、
上記の実松中佐の言とは違って、
「カロリンに来る」と強い口調で
言っていました。

 マリアナに来たらどうするのかという
質問について、「そんなことは、航空の
分からんやつが言うことです。」と
足蹴にしています。

 軍令部は、この源田参謀の言を
採用していたため、マリアナに来た
アメリカ軍に対し、後手になったと
言えます。

 上記の評価は、自分が実松中佐の
言を退けていたということを
隠しており、不誠実といえます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 台湾沖航空戦の大本営発表 [源田実航空作戦参謀]

 大井大佐は、軍令部情報課のアメリカ
大陸担当の第五課へ行きました。大井
大佐と同期の実松中佐と、課長の
竹内大佐がいました。

 大井大佐は、実松中佐に尋ねると、
「絶対ダメ。大負け、大失敗だ。」と
返事してきました。

 この電話がかかってきて、竹内大佐が
でると、「軍令部で祝杯を上げるから
来いと言っている。俺はボイコットする。」
と言ってきました。

 実松中佐も、「俺もいかん。断る。
客観的にみれば、勝てるわけが
ないんだ。」と異口同音でした。

 この後、大井大佐は、日吉の連合艦隊へ
行きました。アメリカ空母の模型が
置いてある部屋に入ると、中島中佐と
渋谷中佐がいました。

 渋谷中佐と大井大佐は、互いによく
知っている仲であり、大井大佐が来ると、
渋谷中佐は、「また、輪をかけたのが
きたわい。」と言ってきました。

 中島中佐は、「空母の甲板は、こんなに
厚いんですよ。こんなものに、あんな爆弾
落として沈みますか。」とやっていたと、
言っていました。

 大井大佐が、軍令部や連合艦隊に
行ったのは、話の内容からすると、
10月15日だと思われます。

 この日の午後3時、大本営は、次の
ような驚くべき発表を行いました。

 「台湾東方海面の敵機動部隊は、
昨14日来東方に向け敗走中にして、
我が部隊は、この敵に対し、反復
猛攻を加え、戦果拡充中なり。

 現時点の戦果は、轟沈―航空母艦7隻、
駆逐艦1隻、撃破―航空母艦2隻、
戦艦1隻、巡洋艦1隻、艦型不詳
11隻」という内容でした。

 竹内大佐や、実松中佐のような、冷静な
頭脳を持っている人たちが、祝杯を
ボイコットしたのは、当然と
言えます。

 
紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 大井大佐 [源田実航空作戦参謀]

 901空の電探部隊が、台湾沖航空戦の前に
連合艦隊の指揮を受けることになったので、
大井大佐は、すべての作戦の情報を
回すように要求しました。

 大井大佐は、東京通信隊のすぐそばにある、
日比谷の一角に衆議院議長官舎に寝泊まり
していました。戦が始まったので、枕元に
電話を置いて、持ってきた電報を寝ずに
チェックしていました。

 「命中確実」、「轟沈確実と認む」という
電報が来ました。理由を見ると、「後ろを
見ると大きな赤い火柱が出たから」と
なっており、こんなことでは撃沈とは
認められないと思い、全部にいちいち
疑問符をつけたとしています。

 やがて、自分の指揮下にあった電探機が
一機も帰ってこないことが分かりました。
大井大佐は、暗然として、くやしくて
仕方ないと感じていました。

 翌朝、軍令部第一課長の山本大佐の
ところに行き、「なんですか。あなた方、
電探を全部潰したじゃないですか。一番の
電探名手である、貴方も知っている
丸山君も死んだんですよ。」と抗議に
行きました。

 山本大佐は、電報を見せて、「いや、
こんなにやっているじゃないか」と、
言いましたが、大井大佐は、「これで
やっていると言えますか」と
議論したとしています。

 軍令部は、「現地でやったということを、
軍令部が嘘だと言えますか。」という意見
ですが、大井大佐は、「現地が言うことと、
貴方の頭で考えたのと両方を合わせて
考えたらどうですか。

 現地の言う通りなら、上級司令部は
いらんじゃないですか。」と反論して
います。

 大井大佐の言っていることは、軍隊に
限らず、目が届かない大きな組織全てに
言えることです。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 台湾沖航空戦の真実 [源田実航空作戦参謀]

 台湾沖航空戦では、空母を9隻以上撃沈
という報告がなされていました。このことに
ついて、連合艦隊情報参謀だった中島中佐は、
この頃のことを以下のように語っています。

 「日本の母艦でもなかなか沈まない。
もっと頑丈にできているアメリカ空母が
そんなにたやすく沈むわけがない。

 T部隊は、何機攻撃、何隻轟沈と言うが、
もっと理詰めに考えなければいかんと思った。
連合艦隊司令部では、淵田美津雄航空
参謀が、私の意見を受けいれてくれた。

 ところが、そう言いながら報告は大戦果に
してしまう。“連合艦隊でそれを絞らなければ
いかんじゃないですか。”と私は言った。

 これに対し、“そんな下から報告してくる
ものを、現場を見ないで値切れるか”と
返答された。

 草鹿参謀長は、“下からの報告は、いちおう
そのまま通したけれど、自分としては作戦
計画上は、戦果を半減して計画していた。”
としている。

 私は、半減でも大きすぎる。“ゼロに近い”と
私は何べんも言ったが、関係者は、どうしても
都合の良い方に引っ張られるようだった。」

 真実は、中島中佐の言の通りです。台湾沖
海戦の航空隊の戦果に疑問を持っていたのは
中島中佐だけではありませんでした。

 海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐も
同様に考えていました。1944年8月頃で、
電探を使える偵察部隊を持っていたのは、
海上護衛部隊だけでした。

 敵の潜望鏡を発見できる程度の能力を
持っていた901空です。台湾沖航空戦の前、
901空の電探部隊は、連合艦隊の指揮を
受けることになりました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 台湾沖航空戦 [源田実航空作戦参謀]

 1944年10月10日、沖縄方面を
攻撃したハルゼー大将は、翌日に、
ルソン島北部を襲い、日本側は
18機、アメリカ軍は、7気を
失いました。

 同艦隊は、10月12日~14日の
3日間に、台湾の航空機と陸上基地を
攻撃しました。

 この3日間で、アメリカ軍が動員した
航空機は、12日が延べ1378機、
13日が延べ974機、
14日が延べ264機とB29104機という
大攻勢でした。

 これらの攻撃にも、入手した「Z作戦計画」が
利用されていました。ハルゼー艦隊の攻撃に
対し、日本陸海軍攻撃部隊は、10月12日~
16日にかけて、総力を上げて反撃しました。

 南九州、台湾に展開した福留中将指揮の
第六基地航空部隊が当たりました。他にも、
連合艦隊命令で派遣された小沢中将指揮の
205機、九州鹿屋基地の「T攻撃部隊」
150機、陸軍攻撃部隊などが、参加
しました。

 これらの中で、頼みの綱は、T攻撃部隊と、
小沢中将指揮の653空(空母艦載機)でした。
10月12日から5日間に渡って行われた、
日本航空部隊と、ハルゼー艦隊の戦闘は、
「台湾沖航空戦」と称されました。

 この「台湾沖航空戦」でも、過去の失敗を
まったく活かすことなく、同じ失敗を
繰り返すことになります。

 航空部隊から上がってくる全く根拠のない
戦果報告を、大戦果として報告するという
ことをしていました。そして、この攻撃に
より、T攻撃部隊は、航空機126機、
搭乗員109機を失いました。
 

紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 前途多難 [源田実航空作戦参謀]

 豊田司令長官は、8月21日、T攻撃
部隊の編成、作戦に関する機密連合
艦隊命令を発令しました。

 同日、久野大佐が、T攻撃部隊指揮官
兼第763空司令に任命され、9月上旬から、
同部隊の総合教練が開始されました。

 ところが、通信連絡、偵察、電探、台風
対策などの不備が露呈して、前途多難と
なりました。

 T攻撃部隊最高指揮官の第二航空隊
司令長官の福留中将は、9月8日に、
伊藤軍令部次長に、以下の表明を
しています。

 「T攻撃部隊は、決戦の第一撃として、
夜間攻撃に使う。悪天候とに乗ずる攻撃は、
最後の切り札として、決行したい。」

 これについて、伊藤軍令部次長も、
豊田司令長官も、「無理をすることは
ない。」と同意しました。


 ルーズベルト大統領は、7月27日に、
ハワイのホノルルで、マッカーサー陸軍
元帥、ニミッツ海軍大将と会合して、次の
上陸作戦は、フィリピン中部のレイテ島、
上陸予定日は、12月20日と取り決め
ました。

 総指揮官は、マッカーサー陸軍元帥で、
ニミッツ海軍大将が全面的に支援し、特に
日本軍の航空兵力を無力化するのは、
海軍の任務とされました。

 9月15日、日本軍の反撃力が少ないと
判断したアメリカ軍は、作戦を2ヶ月早め、
10月20日と決定しました。

 10月10日、ハルゼー大将は、延べ
900機で、沖縄方面を空襲し、日本側は、
航空機111機、アメリカ側は、21機を
喪失しました。

 この後も、アメリカ軍は、航空基地や
陸上施設を攻撃しました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 T攻撃隊 [源田実航空作戦参謀]

 マリアナ沖海戦で敗れた日本海軍は、
アメリカ機動部隊に対して、なにか
意表をつく戦法を見出すほか、
なくなりました。

 軍令部は、航空主務部員の源田参謀から、
台風時又は、夜間に雨リッ機動部隊を
奇襲する「T攻撃部隊」作戦案が
提出されました。

 Tは台風部隊の頭文字をとって、
Tと名付けたものでした。

 源田参謀は、「夏の終わりから、
秋の始めかけて通過する台風のために、
敵の機動部隊が活動を制限される
時期に、精鋭な夜間雷撃隊を持って、
痛撃しようというものである。

 この部隊には、陸軍の重爆撃隊も雷撃隊と
して、二個戦隊が、編入された。」と
しています。

 1944年7月23日、源田参謀は、
大本営主催の図上演習で、T部隊の
計画を説明しました。

 この中で、源田参謀は、「T部隊は、
日本本土、台湾、フィリピン間を
作戦場面とする。

 台風を利用して攻撃することを第一とし、
エセックス級空母10隻の撃沈破を目標と
する。機会が得られなければ、夜間攻撃を
行う。

 従って、飛行機隊と専属気象班をもって
編成する。飛行機隊は、攻撃隊150機と、
偵察隊45機とする。

 T部隊は、9月末までに、作戦可能のように
錬成することを目標とし、集中訓練基地には、
鹿屋を当てる。

 飛行機用電波探信儀、新型魚雷、爆弾を
至急用意する。」としています。参加していた
豊田司令長官は、夢みたいなこの話に、わらを
掴む気持ちで、源田参謀に異議を挟むことは
ありませんでした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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