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源田実参謀 源田サーカス [源田実航空作戦参謀]

 ここから、源田参謀の経歴を紹介します。

 源田参謀は、日露戦争が始まった
1904年に広島県に生まれ、1921年
8月26日に、江田島の海軍兵学校に、
52期生として入校しました。

 小柄で、非力、運動が不得意なためか、
目立つ存在ではありませんでしたが、
卒業時の成績は、236名中17番目と、
上位と言っていい成績でした。

 源田参謀は、「視力が図抜けてよく、
全身健康そのもんであることに自信が
持てた。」としています。

 1928年12月1日、30人の同期生と
一緒に、霞ヶ浦海軍航空隊で、飛行学生と
なりました。1929年11月30日、
横須賀海軍航空隊付に転じ、二人の
同期生と共に、戦闘機分隊に配属
されました。

 1932年、横須賀海軍航空隊の小林
大尉と、間瀬士官、青木士官の3人は、
三式艦戦3機編隊のアクロバット飛行
技術を開発し、全国各地で実演して、
人気を博しました。

 源田参謀(当時大尉)は、隊長の
岡村大尉と共に、アクロバット飛行を
引き継ぎ、90式艦戦を使用した
華やかな演技を見せました。

 マスコミからは、岡村サーカス、
源田サーカスと報じられました。

(追記)
 この頃の源田参謀のことを同期で、
意見がぶつかっていた柴田大尉は、
「源田参謀のスタンドプレーは有名で、
代表的なものが源田サーカスと
言われた見世物飛行だ。

 操作の大部分は、実戦では使わない。
源田参謀は、ああいうことをさかんに
やって、人気を博したかったのだろう。

 戦闘機の操縦はうまかったかもしれないが、
着陸と着艦は、下手だった。」と評しています。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 山本長官の責任 [源田実航空作戦参謀]

 山本長官は、自分で先導したアメリカ海軍に
挑戦した日本海軍の惨憺たる敗北を見ずに、
戦死したことになります。

 死に場所を得たことで生き恥をさらさず、
靖国神社に祀られることになりました。
しかしながら、山本長官のしたことを
考えれば、死に場所を得て戦死した
という扱いにすることは到底できない
と考えます。

 まず、アメリカに対する戦争を先導した
ことから考えていきます。

 「1年くらいは暴れられるがその後は
知らない」で戦争を始めるという、狂気の
沙汰としか言いようのないこの開戦に対して、
明確に責任を取らせる必要があります。

 さらに、アメリカに対して開戦したので
あれば、アメリカの敵である同盟国の
ドイツと協力することは必須のはずです。

 しかし、ドイツからの要望であり、戦略的にも
合理的な、インド洋の制覇は、全くやって
いません。それどころか、全く正反対の
真珠湾攻撃という戦略的価値のない
攻撃に異常なまでに固執し、日本を
滅びの道に仕向けたのは、罪と
言わざるを得ません。

 本来であれば、ミッドウェー海戦の時に、
責任を追求すると同時に、ここまでの狂気の
沙汰を白日のもとに晒して、処罰すべきでした。

 間違っても戦死者の英霊である靖国神社に
祀るにはふさわしくない人物と言えます。この
当時の国家を滅ぼした軍隊のあり方をしっかり
反省し、真の国防に役立つ軍隊を持つことが、
今の日本の緊急かつ必須の課題と言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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