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源田実参謀 航空機のみによる攻撃 [源田実航空作戦参謀]

 山本長官が戦死した頃になると、
日米戦争における日本海軍の敗北は、
決定的になっていました。それでも、
アメリカ軍は、万全の体制を整えて
戦いを進めました。

 1942年11月11日、機動部隊の
司令長官が、南雲長官から、小沢長官に
変わっていました。

 この1年後の1943年11月11日、
機動部隊の航空機67機と、基地航空隊
4機の合計71機が、ラバウルを出発
しました。

 目標は、敵機動部隊でした。しかし、
命中弾は一発もなく、35機が未帰還と
なる惨憺たる敗北を喫しました。

 この当時、アメリカ軍は、日本航空隊を
レーダーで早くから察知し、戦闘機80機を
待機させていました。

 さらに、対空砲にVT 信管という小型
レーダー内臓の電波近接信管付き砲弾を
艦砲から発射していました。この砲弾は、
航空機から約15mまで近づくと自動で
爆発するもので、甚大な被害が出ました。

 日本軍は、この無意味な航空攻撃を、
5次まで行い、上陸用輸送船1隻を沈没
させただけでした。

 大本営は例のごとく、空母5隻、戦艦6隻、
合わせて45隻以上撃沈というとんでもない
誇大発表を行っていました。

(追記)
 大本営の発表は、敵であるアメリカが
騙されることはありえません。この誇大
発表は、日本人向けに行われたもので
あり、自国民を騙すために行われて
いると断言できます。

 自国民を騙すために行う発表は、害しか
なくこのようなマスコミは不要と言えます。
これは、現在でも言えることであり、世論
誘導のために誤報を流すマスコミは、
存続価値がないと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 ④計画 [源田実航空作戦参謀]

 源田参謀は、1939年1月~1940年10月まで、
駐英日本大使館付武官補佐官として、ロンドンで
勤務しました。

 1939年9月3日、第二次世界大戦が始まり、
1940年8月8日から、ドイツ空軍のイギリス
本土爆撃が開始されました。

 この爆撃は、イギリスの戦闘機の方が強かった
ため、ドイツ軍は、ドーバー海峡と、イギリス
上空の制空権を獲得できませんでした。

 そのため、ドイツ軍は、ドーバー海峡を超えて、
イギリスに上陸作戦をすることは、無理と判断
しました。

 この爆撃を観察していた源田参謀は、
イギリスの戦闘機の実力なら、日本海軍の
戦闘機の方が強いと、自信を持って
判断しました。


 1939年、④計画と呼ばれる海軍の
軍備充実計画が、実施段階に入りました。
これは、いまだかつてない途方もない
大軍拡計画でした。

 6年間で、大和を含む80隻の艦艇を
建造し、75隊の航空隊を増設しよう
というものでした。

 この計画は、対米強硬派の伏見宮
博恭王元帥を総長とする軍令部が
立案したものですが、航空兵力の
拡充が目立ちました。

 海軍発足から20年かけて作り上げた
航空兵力を、5年で2倍にする計画でした。
しかし、現実的には、日本の工業力と
技術では到底完成できそうもない、
大変な計画でした。

 戦艦無用論を唱えていた山本長官や、
大西参謀長、源田参謀らは、戦艦の
建造中止の上に、現有戦艦の廃棄を
していない時点で不満を持っていました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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