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源田実参謀 山本長官戦死 [源田実航空作戦参謀]

 1943年4月7日、11日、12日、
14日の4日間、攻撃隊は、ガダル
カナル島とニューギニアのオロ湾、
ポートモレスビー、ミルネ湾を
空襲しました。

 戦果は、敵巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、
輸送船25隻撃沈し、航空機175機
撃墜というものでした。

 しかし、実際は、駆逐艦1隻、海防艦と
タンカー輸送船を各1隻、飛行機25機
撃墜という僅少なものでした。

 日本軍の被害は、43機が未帰還となって
おり、全参加機数の12%を失ったことに
なります。

 しかも、参加した航空隊は、第3艦隊の
空母に搭載されていた航空機も参加して
おり、瑞鶴、瑞鳳の2隻は、航空兵力
立て直しのために、内地へ帰還する
必要がありました。

 山本長官、宇垣参謀長らは連合艦隊
司令部首脳は、ラバウル南東のブーゲン
ビル島方面の前線を視察するために、
4月18日に、一式陸上攻撃機2機に
分乗して、ラバウルを発進し、ブーゲン
ビル南方のバラレ飛行場に向かいました。

 この移動中、アメリカ軍戦闘機に襲われ、
山本長官が乗る一番機は、密林に墜落し、
11名全員が戦死しました。二番機は、
海上に不時着し、宇垣参謀長他2名が、
助かりました。

 アメリカ軍は、山本長官の巡視の暗号を
解読し、戦闘機で待ち伏せして襲撃したの
でした。

 後任の連合艦隊長官には、山本長官と
親しく、兵学校で二期下の古賀峯一大将が
就任しました。

 しかし、もうこの時期であれば、誰が
連合艦隊司令長官になっても、アメリカに
一勝でもすることが困難というのが現状
でした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 ガダルカナル島から撤退 [源田実航空作戦参謀]

 ガダルカナル奪還の成算がなくなった
日本軍は、1943年2月上旬、ガダル
カナル島から撤退しました。

 ガダルカナル島での戦没者は、陸軍
約2万人、海軍約3800人でした。
内15000人あまりが、飢餓からの
病死でした。

 日本軍、航空部隊の損害は、航空機
893機、搭乗員2362人でした。
対するアメリカ軍は、戦死者1600人、
戦傷者4200人ほどでした。無理な
戦いを強いられたことを物語っています。

 ガダルカナル島からの撤退が終了して
間もない2月11日に、連合艦隊旗艦が
大和から、武蔵に変わりました。

 新型の武蔵の方が、大和より通信装置が
一段と充実したものになっていたからでした
しかし、武蔵も、連合艦隊司令部ホテル
として利用されました。

 1943年4月3日、ソロモン、ニュー
ギニア方面の航空戦を陣頭指揮するために、
山本長官は幕僚と一緒に、飛行艇2機で、
ラバウルに飛びました。

 ガダルカナル島とニューギニアの
アメリカ・オーストラリア艦船、飛行機を
撃滅しようという航空作戦で、「い号作戦」
と呼ばれました。参加する航空機は、
艦上機180機、陸上機190機の
合計370機でした。

(追記)
 航空機だけで、艦船と飛行機を撃滅
しようという発想をしている時点で、連合
艦隊司令部は、何も学んでいないという
非難を受けても仕方ない組織だと言えます。

 今まで、航空機だけで敵を殲滅できた
ことはないにもかかわらず、いまだに航空機
至上主義という幻想で戦っていると言わざる
をえず、このような上層部のもとで戦わされた
兵士は、被害者だと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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