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源田実参謀 零戦とグラマンの一騎打ち [源田実航空作戦参謀]

 少し話を戻し、トラック空襲時のことを
一件紹介します。

 トラック空襲の際に、トラック竹島基地の
戦闘機隊第204空の司令として着任していた
柴田中佐は、1944年2月17日に行われた、
名パイロット小高飛行兵長の零戦と、アメリカ
新鋭戦闘機グラマンF6Fの壮烈な空戦を
目撃しました。

 「敵の銃撃がひとしきり終わった頃、わしは
外に出た。山の麓の航空廠付近が大火災だ。
見回すと、零戦1機がグラマンF6F1機と、
夏島の上空高度100mぐらいで、格闘戦を
始めるのが目に入った。

 零戦が食い込んでゆき、射撃までもう少しに
なった。しかし、グラマンは、夏島の頂上
スレスレまでダイブしながら、逃げ出した。
零戦は追ったが、距離は開くばかりだ。

 空戦は、終わりかと思ったら、ヘルキャットは
2000馬力の強力なエンジンによる高速力を
利して急上昇、急旋回し、また、零戦と格闘戦に
入った。零戦が食い込むと、グラマンは高速で
逃げ、再び格闘戦を始めた。

 こんな格闘戦を数回繰り返し、ついにグラマンは
逃走した。手に汗を握っていたわしは、残念で
たまらなかった。これがスポーツなら、間違いなく
零戦の判定勝ちだ。」と語っています。

(追記)
 グラマンF6F(ヘルキャット)は、
2000馬力に対して、零戦は1100馬力
なので、速度は、グラマンの方が速かった
と言えます。

 一方で、零戦は小回りがきいたので、
格闘戦は得意だったと言えます。 最新鋭の
グラマンも、零戦と格闘戦をやるのは分が
悪かったということになります。

 そのため、上記のような空中戦になったと
言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 ラバウル、ソロモンの状況 [源田実航空作戦参謀]

 ラバウル、ソロモンの状況について、
千早正隆海軍中佐は、以下のように
コメントしています。

 「1943年の1年間で、南東方面
(ラバウルを中心としたソロモン諸島、
ニューギニア方面)だけで、実に
6200余機、搭乗員4824人を
失った

 (失われた機体の方が多いのは、
飛び立つ前に破壊された分です)。

 この損耗の総機数は、その年に生産した
航空機の7割に達していた。戦争が
始まった時には優位を誇っていた
艦上攻撃機、艦上爆撃機は、敵の
新鋭機種に優位を奪われ、絶対の
優位を示した零戦ですら、敵の
新鋭機に挑戦を受けつつあった。

 日本の技術では作ることができなかった
B17やB24のような大型爆撃機は、
機数が飛躍的に増加するにつれて、
大きな脅威となっていた。」と
述べています。

 ラバウルを基地として、ニューギニア、
ソロモン方面作戦は、地理的に不利で、
始めからやらないほうが良かったと
言えます。

 真珠湾攻撃を始めとして、これらの作戦の
立案を指示していた山本長官は、海軍史上
最悪の司令官と言えます。

(追記)
 「戦艦無用論、航空機第一主義」を
掲げていた山本長官以下の大西参謀長、
源田参謀らは、一方で、航空機の性能
アップを図るような研究は、していたの
だろうかという素朴な疑問が出てきます。

 大戦の末期になると、アメリカも驚く
ような有用な兵器が作られており、
これらを、数年早く作れていたらと
感じています。

 日本が本来持っていた戦略である漸減
作戦を、真珠湾攻撃で、根本的に変えて
います。

 しかしながら、ならばその行動に対する
準備をきちんとしていたとは思えず、
準備不足のまま戦争をしたという
印象が拭えません。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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