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源田実参謀 マリアナ沖海戦 [源田実航空作戦参謀]

 小沢中将率いる第一機動艦隊は、スプルー
アンス提督が総指揮するアメリカの大艦隊と
6月19~20日に、マリアナ諸島方面で
戦いました。

 この海戦も、日本軍は、戦果はほとんどなく、
損害が大きい乾杯と言える結果になりました。
アメリカ軍の被害はかすり傷程度で、飛行機の
損失130機というものでした。

 ただし、この内80機は、夜間海上に不時着
したことで生じたものであり、搭乗員209名中、
160名は救助されていました。

 日本軍は、空母3隻撃沈、航空機247機喪失
というものでした。撃沈した大鳳、翔鶴は軽視
していた潜水艦による襲撃によるものでした。

 アメリカ軍は、日本軍の倍の戦力を準備して
いたこと、科学技術力、戦法、戦技が、格段に
優れていたことも勝利に貢献しています。

 7月5日、サイパン防衛の中部太平洋艦隊
司令長官に就任していた南雲中将は、「我ら
玉砕。以て太平洋の防波堤たらんとす。」と
訣別電を発し、翌日に自決しました。

 残存兵力3000人は、7日未明、最後の
突撃を敢行し、全滅しました。アメリカ軍は、
7月21日にグアム島に、23日には、
テニアン島に上陸しました。

 テニアン第一航空隊司令長官に就任
していた角田中将は、8月2日に戦死し、
同島の日本軍は、翌日23日に玉砕
しました。

 同じく、グアムの日本軍も、8月11日に
玉砕しました。これにより、マリアナ諸島が
アメリカ軍の支配下に入ることになり、
日本本土に爆弾の雨を降らせることに
なります。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 南洋諸島基地航空部隊作戦失敗 [源田実航空作戦参謀]

 この当時、アメリカ軍は、日本軍から
入手した「Z作戦計画」図書より、
一航艦の兵力配備、移動集中、
攻撃法などを、ほとんどすべて
知っていました。

 オーストラリアで、1944年5月23日付の
連合軍翻訳作業隊レポートの中に、Z作戦
計画の訳文が収録されました。

 スプルーアンス提督は、マリアナ攻略に
出動する時、麾下の空母15隻に搭載
された956機に対して、日本軍は、
半分以下の460機であることを
知っていました。

 また、日本軍がどのような陸上機を
保有し、それをどこでいかに制圧
するかもわかっていました。

 マリアナ諸島に接近するにつれて、
スプルーアンス提督は、日本本土を遠く
離れた地域に点在する日本軍の航空
基地に麾下の機動部隊航空兵力の
殆ど全力を投入し、日本軍を圧倒
しました。

 そして、スプルーアンス提督は、
航空基地を攻撃後に、サイパン、
テニアン、グアムに、攻撃を
集中させました。

 これらの作戦は、古賀司令官がスプルー
アンス提督を罠にはめるために慎重に
計画していた防御網を破壊したばかりで
なく、防御網の中心に大きな打撃を
与えました。

 日本の暗号書を奪ったアメリカ海軍は、
日本海軍の暗号電報を解読していました。
日本軍は、アメリカ軍の戦略の判断を誤り、
航空機を豪州、西カロリン方面に派遣し、
壊滅させてしまいました。

 源田参謀の南洋諸島基地航空部隊作戦は、
失敗に終わりました。

(計画書や暗号が漏れている上に、源田参謀が
立てた作戦では、こうなるのは当然といえます)。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 猛烈な艦砲射撃 [源田実航空作戦参謀]

 アメリカの上陸軍2個師団は、猛烈な
艦砲射撃に支援され、6月15日朝から、
サイパン島に上陸を開始しました。

 豊田司令長官は、「あ号作戦決戦発動」を
発令しました。6月16日、アメリカ軍は、
猛烈な砲爆撃を続行し、後続軍を続々
上陸させ、17日夕刻には、早くも
アスリート飛行場を占領しました。

 しかも飛行場はたちまち修復され、
翌18日には、アメリカ軍が発着し、
日本軍を攻撃はじめました。

 アメリカ空母艦載機が、マリアナ各地に
空襲を開始した6月11日、この方面に
展開する第一航空艦隊の兵力は、
436機と伝えられました。

 その後、打ち続く空襲によって、
6月18日には、決戦策応兵力は、
156機に激減していました。

 第一航空艦隊は、小沢機動艦隊に
とって、頼りにならない弱小部隊に
成り下がってしまいました。

 この状況に対して、源田参謀参謀は、
以下のコメントをしています。

 「南洋諸島のように、各基地が数百海里以上
離れて孤立し、相互支援が十分に利かない
ところでは、たとえ不沈の陸上基地と
いえども、母艦群の圧倒的な兵力に
抗し得ない事が多い。」
というものです。

(追記)
 源田参謀の言は、初めてわかったような
口ぶりですが、当然ながら、南洋諸島に
侵攻した頃から、現地の航空隊はわかって
いたことであり、当初から予想がついた
ことです。

 源田参謀が唱えたわけではありませんが、
空母ではなく、陸上基地を中心に据える
べきという論が海軍内に広まっていました。
これも、上記の源田参謀の言の通りで、
戦艦無用論と同様の暴論です。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 艦砲射撃の威力 [源田実航空作戦参謀]

 源田参謀は、アメリカ軍がサイパンや
テニアンに艦砲射撃をした頃のことを、
以下のように述べています。

 「マリアナ各基地に連日空襲をかけている
敵は、13日ごろには、ほとんど完全に
制空権を獲得し、戦艦8隻、巡洋艦2隻、
駆逐艦22隻が、サイパン・テニアンの
わが防御陣地を砲撃し始めた。

 敵のこの不敵な行動は、テニアンにある
第一航空艦隊司令部から逐一報告されたが、
私達は、航空戦に敗れたものの悲哀を
つくづくと感じた次第である。

 所在を暴露した海岸砲台は、もはや
潜在戦力とはならなかった。蝟集する
飛行機群と、強力な艦砲射撃のために、
沈黙を余儀なくされた。

 陸軍参謀本部の服部大佐は、マリアナ
失陥後に、“マリアナの防備は、敵を
寄せつけるものではなかった。

 これが破れたのは、予期しなかったほど、
猛烈な敵の艦砲射撃である。”と語った
ほどである。」としています。

 戦艦無用論を唱えていた自分の
見識のミスについては、一切触れて
いません。

(追記)
 本格的な艦砲射撃は、日本海軍が、金剛と
榛名の2隻の戦艦で、ガダルカナル島の
飛行場に対して行ったものが最初であり、
アメリカ軍は、これを制空権確保の上で、
徹底して行ったと言えます。

 戦艦は、日露戦争の時と比較すると、
航空機の発達に伴って、役割を大きく
変更せざるを得なかった艦種だと
言えます。

 しかしながら、不要になったわけではなく、
有効な使い方があったことを、上記の
艦砲射撃は示しています。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 あ号作戦決戦準 [源田実航空作戦参謀]

 1944年6月9日、千早少佐は、
彩雲に乗り、マーシャル諸島の
メジュロ上空に飛びました。

 5月30日と、6月5日も実施して
いましたが、この時は、大型空母6隻を
確認していました。

 しかし、この日は、メジュロには
敵艦隊の姿はなく、出撃したことは
確実となりました。

 千早少佐の報告を受けた連合艦隊は、
「あ号作戦決戦準備」を発令しました。

 メジュロを出撃したアメリカ大機動部隊は、
6月11日、マリアナ各島の空襲を開始
しました。中島情報参謀は、敵の通信から、
「マリアナ攻略作戦」であると断言しました。

 この根拠を、「アメリカ海軍の軍隊区分が
マッカーサー軍と一緒のものと、海軍独自の
ものがあることを、軍令部のアメリカ大陸
情報担当から聞いて知っていた。

 マッカーサー軍は南を進むので、海軍
独自のものは、中央を真っ直ぐに来るに
違いないと判断していた。通信も、
5月はじめ頃から動き出して、
その頃から真中警戒と言って
いた。

 マリアナ空襲は、アメリカ海軍の通信
状況から、海軍独自の部隊で、マリアナ
攻略作戦に取り掛かってきたと思った。」
としています。

 根拠のない源田参謀の言よりよほど
論理的と言えます。しかし、軍令部は、
この時点でもマリアナ攻略作戦と見て
おらず、アメリカ艦隊がサイパンに
艦砲射撃をした6月13日になって、
やっと悟ったという状態でした。

 「あ号作戦決戦用意」が発令されたのは、
アメリカ軍が空襲を始めた6月11日より、
2日も遅い6月13日となりました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 場当たり的な対応 [源田実航空作戦参謀]

 マッカーサー司令官が、ビアク島上陸
作戦を開始した頃、ニミッツ大将は、
日本海軍がビアク島にひっかかって
いる間に、サイパン上陸作戦を
開始しようと考えていました。

 豊田長官は、角田第一航空司令長官に、
パラオ方面の戦闘機70機、艦上爆撃機16機、
偵察機4機をハルマヘラ島方面に転進させる
ように命じました。

 その後も、豊田長官は、ビアク島方面に
飛行機隊を増派し、その機数は、
延べ480機となりました。

 5月29日には、ビアク島奪回の、「渾作戦」を
発令しましたが、暗号を解読してまと構えていた
アメリカ艦隊に反撃されて失敗しました。

 ビアク作戦のために西カロリン、豪北方
方面に転進した航空部隊は、飛行場の不良、
戦闘などによって、半数の航空機を失い、
さらに搭乗員の多くがマラリアに冒され、
壊滅状態に陥りました。

 こうなった原因の一つは、源田参謀の敵が
カロリンに来るという根拠のない言によるもので
あることは間違いありませんでした。

(追記)
 戦争では、「現有戦力で、最も効果的な
戦術を展開するためには、どうすべきか」
ということを、上層部は常に考えておく
必要があります。

 そのために重要なのは、どの地点を残し、
どこを切り捨て、どこで決戦をするかという
ことになり、そのために敵を誘導するには
どうするかということを、考える必要が
あります。

 しかしながら、上記の対応を見る限り、
連合艦隊司令部も、作戦を考えている
軍令部も、これらの点を考慮している
という姿が見えず、場当たり的に現地の
司令官に出撃を命じているとしか
思えないような行動をしています。

 劣勢の軍がこのようなことをしていて、
勝てる道理はないと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 アメリカの2面作戦 [源田実航空作戦参謀]

 源田参謀が、根拠のないカロリン諸島に
敵が来るという判断していた頃、アメリカの
統合参謀本部では、戦略計画を発令
しました。

 内容は、「ニューギニア中央北部海岸は、
4月15日に攻撃することで承認していました。
その上で、トラックは、徹底的に叩いて
放置すると決めました。

 6月15日に、ニミッツ大将の部隊は、
マリアナ諸島に侵入し、9月15日に
パラオに向かう。

 マッカーサー司令官のミンダナオ侵攻は、
11月15日とし、ニミッツ大将の部隊は、
マッカーサー司令官の作戦を支援する。

 その後、ルソンと台湾のどちらに向かうかは
未定だが、目標は、1945年2月15日とする。」
というものでした。

 海軍の中部太平洋進攻作戦と、陸軍の
南西太平洋進攻作戦の妥協案でした。
マッカーサー司令官は、陸軍案に沿って、
ホランジアに上陸し、作戦を進めていました。

 日本側では、海軍の中部太平洋進攻作戦と、
陸軍の南西太平洋進攻作戦の両方に対応
しなければならなくなりました。

 マッカーサー司令官は、1944年5月27日、
ニューギニア北西のビアク島上陸作戦を
開始しました。当初は8月に予定して
いましたが、入手したZ作戦計画から、
準備が整う前に動くほうが得策と
判断しました。

 さらに、ニミッツ大将も、6月15日に、
サイパンの上陸作戦を開始することに
なっていたので、日本海軍は、サイパンに
上陸すれば、こちらに移動するだろうという
判断もしていました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 あ号作戦発令 [源田実航空作戦参謀]

 豊田大将が連合艦隊司令長官になった
1944年5月3日、軍令部は、
「あ号作戦」を発令しました。

 軍令部の総長は、海相を兼務している
嶋田大将で、作戦は小沢中将の機動部隊と、
第一航空隊を指揮する角田中将の部隊を、
アメリカ機動部隊に叩きつけ、撃滅
しようというものでした。

 この2ヶ月前に、小沢長官が率いる機動
部隊には、大鳳、翔鶴、瑞鶴などの空母9隻を
中心とする第三艦隊と、栗田中将率いる大和、
武蔵、など戦艦5隻と、重巡洋艦10隻、その他の
第二艦隊からなる大部隊を編成していました。

 この時、軍令部第一課部員だった源田参謀が
発案し、1943年7月1日に発足し、
1944年2月15日に連合艦隊に
編入された第一航空艦隊を、
基地を移動しながら作戦を行う、
基地航空部隊としています。

 予定総数は、1000機以上という大部隊で、
サイパン、テニアン、グアム、トラック、パラオ、
ヤップ、ダバオ、豪州北方、セレベスの
各方面に配備される予定でした。

 軍令部は、敵は西カロリン諸島南方、
連合艦隊が予想する決戦海面の第一が、
パラオ島付近、第二が西カロリン諸島付近
でした。

 敵が西カロリンに来ると予想していたのは、
源田参謀の考えでした。軍令部の作戦室で、
嶋田総長を前にして敵がマリアナに来るか、
カロリンに来るか討論することになりました。

 この会議に参加していた大井大佐は、
源田参謀が、極めて強い口調で、
「カロリンに来る」
と断定しているのを目撃しています。
そして、自信の強さに驚いたとしています。

 しかしながら、今まで同様、源田参謀の何の
根拠もない空想であり、軍令部は、根拠に基づき
議論すべきだったと言えます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 福留参謀長が起こした大問題 [源田実航空作戦参謀]

 福留参謀長らは、捕虜になった一連の
事件でとんでもない問題を引き起こして
いました。

 不時着した時に福留参謀長の手提げ
カバンが、フィリピンの漁民に拾い
上げられていました。このカバンには、
Z作戦の詳細な機密図書と、暗号書が
入っていました。

 Z作戦は、これから行われる、「あ号作戦
(マリアナ沖海戦)」や、「捷一号作戦
(フィリピン沖海戦)」の原案になるもの
でした。

 これらが敵の手に渡れば、連合艦隊の
戦備と作戦企図は全て明らかになり、
敵は、打ち破る手段を講ずることが
できます。

 戦後明らかになったことですが、この図書は、
オーストラリアの陸軍情報部に運ばれ、複写
されて、英文に翻訳され、実物と、翻訳書は、
真珠湾の海軍情報部に送り届けられています。

 結果論ながら、中島中佐の意見どおり、
パラオに留まった方が良かったということに
なります。

(追記)
 この当時でも、アメリカ軍との戦力差は
歴然としており、これらの情報がなくても
アメリカ軍は勝利したでしょうが、被害は
相当に減らせたと思われます。

 上記の福留参謀長の一連の行動で思うのは、
一般兵士には捕虜の辱めを受けるなと言って
いる上層部が、機密情報の処理もせずに
捕虜になり、生き恥をさらしているのは、
どういうことかということです。

 日本は、組織で問題が起こると、上層部は
逃げ出し、対策は一般作業者への徹底で済ます
傾向がありますが、福留参謀長は、その典型に
なっていると思われます。

 組織上の問題は、どのような理由付けが
あれ、最初に責任を追うのはトップであり、
トップが処罰されない限り、組織が
変わることはないと断言できます。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 古賀連合艦隊司令長官 [源田実航空作戦参謀]

 古賀連合艦隊司令長官の指揮所がある
西カロリン諸島のパラオ島が、1944年
3月30日~31日の2日間に渡って、
アメリカ機動部隊の大空襲を受けました。

 港内の艦船がほとんど撃沈され、飛行機
90機が撃破され、2百数十人が死傷し、
軍事施設、工作施設が壊滅しました。

 福留参謀長は、30日の夜、作戦会議で
提案した通り、連合艦隊司令部を、
フィリピンのミンダナオ島の
ダバオに移動することに
なりました。

 これに対し、情報参謀の中島中佐は、
「ダバオは通信施設が貧弱で、司令部の
機能を発揮できない。

 空襲は、おそらく明日だけで終わるから、
パラオに留まるほうが良い。」とし、
福留参謀長の提案に反対しました。

 しかし、中島中佐の意見に賛成する
ものはなく、結局、提案した中島中佐のみ
残されて、長官以下司令部は全員飛行艇に
分乗してパラオを飛び立ちました。

 2機は、ミンダナオ島に近づくうちに、
異常な低気圧にぶつかり、古賀長官の
乗る一番機は行方不明となり、福留
参謀長らが乗る二番機は、セブ島沖の
洋上に不時着しました。

 そして福留参謀長らは、フィリピン
ゲリラの捕虜となりました。ゲリラと
日本陸軍の間で、4月10日に捕虜を
引き渡す代わりに、日本軍がゲリラに
対する攻撃を中止するという条件で
話がつき、福留参謀長らは、翌日に
解放されました。

 古賀長官は、消息不明で殉職と認定され、
1944年5月3日、豊田副武大将が
連合艦隊司令長官に任命されました。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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