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軽巡洋艦名取短艇隊 内火艇の状況2 [軽巡洋艦名取短艇隊]

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 内火艇の状況を続けます。

 18日目から、衰弱が激しくなってきました。
櫂を漕げるものはほとんどいなくなって
いました。航空機が飛んできましたが、
発見されませんでした。

 これまで、毎朝、宮城遥拝をしていましたが、
正座できるものが半数くらいになっていました。

 20日目、機関兵1名が衰弱死しました。
内火艇で初めての戦死者でした。数日前より、
横須賀の灯りが見えたというとんでもないことを
口走ったり、海に飛び込むものが出始めて
いましたが、この日から、毎日1,2人の
戦死者がでました。

 21日目に、候補生が戦死しました。この日、
小鳥が飛んできました。椰子の実や、ホンダワラなどの
浮遊物を発見し、陸が近いと誰もが喜びました。
浮遊物についていた米粒ほどのカニを食べました。

 この日、アメリカ軍の爆撃機が上空を旋回し、
内火艇が発見されたことを知りました。22日目に、
日本の偵察機が来ましたが、発見されずに
過ぎ去っていきました。日本軍は、アメリカ軍より
見張りが悪いと腹が立ったとしています。

 24日目、赤十字の電灯飾をした病院船が、
近くを通過しました。内火艇には、電灯が
ないので声を出して呼びましたが、気づかれずに
去って行きました。この頃は、上体を起こすのも
辛くなり、横になったままでした。

 26日目(9月12日)、敵グラマン機に発見
されました。南方に戦艦や空母を基幹とする
20~30隻の艦隊をみつけましたが、北方にも
同程度の艦隊がいました。間もなく駆逐艦が、
救助に来ました。

 内火艇は、当初53名が乗っていましたが、
12名が戦死し、残る41名は、マッコイキャンプで
終戦を迎えました。

 この状況を見ると、18~20日目くらいが
限度だったことを示しており、名取短艇隊は、
ギリギリだったと言えます。


紹介書籍:先任将校 軍艦名取短艇隊帰投せり
著者:松永 市郎


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