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航空巡洋艦利根、筑摩 黛艦長負傷 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 第七艦隊は、利根と筑摩だけになり、「今こそ
われらが撃たなければ」と、利根艦長の
黛大佐は撃ちまくっていましたが、
状況は思うようにいきませんでした。

 近くにいる駆逐艦は、煙幕を展開し、遠方の
空母は、スコールを出たり入ったりして
いました。おまけに空襲もありました。

 敵軍は、大艦隊を前によく奮闘していました。
駆逐艦からは、魚雷や12.7cm砲を、利根に
向けてきましたが、直撃することはありません
でした。

 敵駆逐艦の攻撃は、問題なかったものの、
空襲については、忙殺されることになりました。
対空戦闘を終わらせないことには、満足に
主砲を発射することはできませんでした。

 黛艦長は、基本に忠実に、空襲をさけて、回避に
専念していました。敵の攻撃を喰らえば、鈴谷や
熊野のように、一気に攻撃力を失うことに
なるからでした。

 一方で、筑摩の則満艦長は、大胆だと思えるほど、
ほとんど転舵することなく、前進していました。

 黛艦長は、この行動に、大丈夫なのかと、心配に
なりました。そして、別れ際に言った、「今度は
いけないかもしれない」という言葉を思い出し、
不安に襲われました。

 この頃、利根は、艦橋に航空機の13mm機銃が
飛び込み、跳弾によって、黛艦長が負傷しました。

(追記)
 黛艦長は、敵の反撃により、負傷していますが、
それに見合った戦果も出していました。

 利根は、黛艦長が負傷するまでに、駆逐艦に
3発の命中弾を与えていました。

 しかも、利根は、砲撃戦で沈めることなど考えら
れない空母に近づいており空母に対しても砲撃を
開始していました。

 最も、栗田艦隊は、黛艦長も含め、目の前に
いるのは、エセックス級の正規空母と考えていま
したが、実際は、護衛空母でした。


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航空巡洋艦利根、筑摩 撃ち方始め [航空巡洋艦利根、筑摩]

 敵艦隊発見の報を受け、最初に砲門を開いたのは
大和で、午前6時58分、距離は32kmでした。

 利根と筑摩は、敵発見の報を受け、敵の方にグッと
突っ込んでいました。利根が発砲したのは、7時13分、
距離17kmでした。

 白石司令官が撃ち方始めの命令をしたのは、7時10分
ですので、利根は命令直後に行ったことになります。
黛艦長は、武蔵の仇をとれとばかりに、大声で
「撃ち方始め」を命じています。

 利根は前方にいる軽巡洋艦(実は駆逐艦)に照準を
定めて、発砲しました。利根の初弾は、見事に命中
しました。利根としては、見事なものでしたが、
第七艦隊は、凶運に見舞われました。

 旗艦の熊野が、敵機の雷撃受け、これは躱したものの、
駆逐艦の雷撃を艦首に受け、大穴が開いたため落後して
しまいました。

 白石司令は、鈴谷を旗艦にしようと考えましたが、鈴谷も
敵の空襲で、速力23ノットに低下し、重油タンクに浸水した
ため、燃料不足に陥りました。

 利根と筑摩だけになった第七艦隊は、筑摩艦長の
則満艦長が、指揮をとることを白石司令官に報告し、
勇躍前進しました。これが午前7時30分のことでした。

 (則満艦長の方が、黛艦長より、卒業年度が早いので、
こうなりました)。

(追記)
 鈴谷は、空襲で直撃を受けた訳ではなく、至近弾でした。
しかし、これが原因で、火災が発生しました。しかも、この
火災が、魚雷や高角砲に誘爆し、この日のうちに撃沈して
います。

 熊野は、この時の破損が原因で、内地に帰還できず、
この日のちょうど1ヶ月後に敵の空襲により撃沈して
います。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 敵艦隊発見 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 栗田艦隊は、1944年10月25日の午前0時30分に、
サンベルナルジノ海峡を通過して、サマール島北東の
海面に出ていました。

 この日は、月も明るく、島影を浮かび上がらせて
いました。航行の助けになるものの、敵にも見つかり
やすいということで、危険を感じていました。

 利根の艦橋内では、刻々艦位を測定しながら航海を
続けていました。この海峡は、マリアナ沖海戦の後に、
逆方向から通っており、その時は、潜水艦の攻撃に
注意を払いながら進んでいました。

 今回も同様の警戒が必要であり、水測士は、水中測的の
グラフを睨んでいました。しかし、予想に反して、何事も
なく海峡を通り抜けていました。

 午前4時に変針し、西村艦隊と合流すべく会合地点に
向かいました(この頃、西村艦隊は、壊滅的な打撃を
受けており、合流できませんでした)。午前6時、
レイテまで25ノットで3時間あまりのところに
到着しました。

 この時、前方に敵艦隊を発見しました。利根所属の
第七艦隊の白石司令官は、東南東へ針路を向け
ました。これは、敵に突撃する方向であり、黛艦長も、
力強く突撃を命じています。

 黛艦長は、航海士に対して、「どうだ嬉しいだろ」と
問いかけていましたが、本人がもっとも嬉しがって
いました。

(追記)
 栗田艦隊が、空襲を避けるため西へ退避したとき、
このことを知った連合艦隊司令部は、「この期に
及んで退却するとは何事か」と怒り、「天佑を確信し。
全軍突撃せよ。」という電報を送っていました。

 栗田艦隊は、この電報が届いたときは、既に反転して、
レイテに向かっていました。

 連合艦隊司令部が、戦場に来もしないで、武蔵も
沈むような空襲の中を突っ切れという命令を出して
いるのは問題といえ、栗田中将の反転を責めるのは
筋違いといえます。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 戦列復帰 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 栗田中将の命で武蔵の支援を命じられた利根ですが、
この後は空襲は、ほとんどなく利根への被害もありません
でした。

 午後5時すぎ、空襲がおさまったとみた栗田中将は、
再び針路を変えて、武蔵の方に向かってきました。

 これを知った黛艦長は、このまま武蔵の支援に
ついていたら、レイテへの突入が果たせなくなると
考え、焦ることになりました。

 第二艦隊旗艦の金剛に、「戦列に復帰したし」という
信号を発しました。これに対し、「利根は任務を続行せよ」と
いうつれない返事がきました。勝手に任務に当たったの
だから、最後までやれということでした。

 さすがに、黛艦長も弱りました。武蔵が、明朝まで
浮いていたら、翌朝、利根は単独で応戦することに
なります。そして、その頃にはレイテの決戦は、
終わっていることになります。これは、不本意でした。

 日没近くなり、黛艦長は武蔵の近くを通っていた
栗田中将宛に、「ここにいるも如何ともなしがたきにつき、
決戦に参加し得るようお願いす」という信号を発しました。

 旗艦大和からの返信は、「復帰せよ」でした。艦橋内は、
喚声が上がりました。一方で、黛艦長は、武蔵や先輩で
ある武蔵艦長はどうなるのだろうかと考えていました。
そのような思いを込めて、「武蔵よさらば」と告げていました。

(追記)
 武蔵は、午後7時30分、傾斜が30度に達したので、
総員退艦が命じられました。この5分後、武蔵は左に
転覆し、海中に没しました。

 黛艦長の先輩に当たる武蔵の猪口艦長は、艦長休憩室に
閉じこもり、艦と運命を共にしました。利根の必死の援護も
空しく、武蔵は、シブヤン海に沈んでいきました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 武蔵護衛 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 利根は艦長の命により、武蔵の救援に当たりました。
武蔵を標的にしていたアメリカ軍機も、近寄って対空砲を
撃ってくる利根も標的と認識しました。

 午後3時18分、利根の艦橋に近い艦長休憩室付近に
小型爆弾が命中しました。艦橋近くにもかかわらず
黛艦長は顔色一つ変えずに、「覚悟はいいな」と
元気そうに言い放ちました。

 他にも、高角砲の給弾室に命中し、死者が出て
います。しかし、この爆弾は、艦橋では認識でできない
ものでした。

 黛艦長は、武蔵と心中するくらいの気持ちで
なければ、武蔵救援はできないという覚悟でした。
しかし、その覚悟も虚しく、武蔵の最期が近づいて
いました。

 栗田艦隊は、敵の空襲を避けるため、一時西方に
退避し、夜間にシブヤン海を通過しようと考えていま
した。この信号を受けた黛艦長は、「武蔵を見殺しに
して、逃げるのか」と舌打ちしていました。

 一方で、航海長は冷静に、戦列に戻ることを具申して
います。このまま猛進すれば、利根を失い、艦隊の
主目的である、レイテへの突入を果たせなくなると
考えていました。

 黛艦長も、航海長の意見を受け入れ、隊列に戻る
ことにしました。ところが、栗田中将から、「利根は、
武蔵の艦長の指揮を受け、同艦の警戒に当たれ」
という、不思議な命令がきました。

 利根は、戦列に戻らず、武蔵を護衛しろ言うこと
でした。艦隊についていこうとしていたのに、
反転して武蔵の元に急ぐことになりました。

(追記)
 このころ、武蔵は、火災は鎮まり、前甲板から
つんのめるように海中に沈みつつありました。

 黛艦長は、武蔵の援護は、仲間の仁義だと
考えており、航海長も男らしいと同情はして
いました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 レイテ沖海戦の更なる試練 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 レイテ沖海戦2日目の1944年10月24日も、
利根を含む栗田艦隊に更なる試練が待ち受けて
いました。

 この日の午前8時に、敵機動部隊に発見された
栗田艦隊は、航空機による攻撃を受けることに
なりました。この戦闘で、大和と武蔵は、三式弾を
主砲につめて発砲しています。

 しかし、航空機の攻撃を止めることはできず、
武蔵と妙高が被雷することになりました。妙高は、
傾斜したため落後し、旗艦を羽黒に移しています。

 武蔵も、三波の攻撃を受けて、9本の魚雷を
食らい、速力も20ノットにダウンしました。艦首も
海面近くまで沈み、落後しました。

 さらに、第四波の攻撃を受け、合計12本の魚雷を
受け、完全に落後しました。

 利根は、この空襲の際、比較的武蔵の近くにいました。
黛艦長は、敵機が武蔵に攻撃を集中しているとき、周りの
艦はこれ幸いと遠巻きにして避けているように見えていま
した。これを見た黛艦長は、このままでは、日本が誇る
超大型戦艦武蔵は沈むと判断しました。

 武蔵を救うためには、第二艦隊全体で援護すべきと
考え、金剛にいる第二艦隊司令官鈴木中将に、「武蔵を
救援する必要あり。雷撃機を撃つため武蔵に近寄っては
どうか」と意見具申しました。

 司令官から帰ってきた答えは、やりたければ勝手にやれ
という趣旨のものでした。この返答にむっとした黛艦長は、
これより武蔵を救援するという命令を発しています。

(追記)
 黛艦長が、武蔵を助けようと考えた個人的な理由として、
武蔵の艦長が、自分の先輩に当たる砲術学校教頭だった
ことと、同じ釜の飯を食った戦友を助けるのは当然というもの
でした。

 この時は、最善の判断と考えていましたが、後に、困る
事態を招くことになりました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 レイテ沖海戦に出撃 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 レイテ沖海戦に挑むにあたり、利根のライオン艦長
黛大佐は、一抹の不安を抱いていました。それは、
出撃前、筑摩艦長の則満大佐から、「今度は大変な
戦になりそうだ。俺は今度はいけないような気がする。」
と話していたことでした。

 黛艦長は、「気弱なことを言いなさんな」と励まし
ましたが、胸騒ぎは治まりませんでした。一方で、
利根の戦闘能力には絶対の自信を持っていました。
全艦一致で鍛えていて乗員の練度は練度は十分
高いと考えていました。

 20cm主砲は砲術長が自信を持っており、
高角砲は改良することで、毎分14発を20発に
引き上げることに成功していました。

 機銃も12門から56門に、大幅増強していました。
対空用電探も装備し、これにより100kmくらいから
敵編隊を探知できるようになっていました。

 1944年10月23日、栗田艦隊は、レイテ沖海戦の
第一日目を迎えました。この日、栗田艦隊は、凶兆を
告げる日となりました。

 栗田長官が乗艦していた旗艦愛宕が、潜水艦の
雷撃で撃沈しました。旗艦を大和に移管することに
なりました。

 続いて、高雄が雷撃を受けて航行不能となり、摩耶も
雷撃を受けて撃沈するという事態になりました。重巡洋艦
3隻が脱落ということになりましたが、利根では災害状況を
把握できないでいました。

(追記)
 筑摩艦長の則満大佐は、以前駆逐艦照月でも紹介
しました通り、「則満司令は、11回沈んでいる。あの人が
乗ると艦は必ず沈む」という噂が立つほど、凶兆の人でした。

 幸運・不運は、天の裁量とはいえ、上記のような言葉は
口に出すものではないと言えます。不幸を招き寄せると
いうのは、起こり得るといえます。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 レイテ沖海戦 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 若い士官が、猛訓練に明け暮れている時、アメリカ軍の
フィリピン接近が伝えられました。

 栗田中将率いる第二艦隊がブルネイで燃料補給を
する途中の10月14日、利根と筑摩は、シンガポールで
一日の休養上陸が行われました。

 シンガポールでは、椰子の木が並ぶ英国風の街を
散歩し、芸者(婆さん芸者一人)をあげて騒いだりして
いました。これは、戦闘終了後、何人が生き残れるのか
という思いを強くすることになりました。

 1944年10月18日、多くの艦にとって最後の
出撃となるレイテへの道へ向かって錨をあげました。
利根と筑摩は、栗田中将直率の第二艦隊の第二夜戦
部隊に配属となりました。

 同じ第二夜戦部隊にいるのは、戦艦金剛、榛名、
第十戦隊の軽巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風、浜風、
雪風、野分、清霜でした。

 レイテ沖海戦に参加した艦は80隻になり、当時の
連合艦隊の総力と言っていい戦力でした。

(追記)
 著者の豊田氏は、このレイテ沖海戦の目的が
不明瞭であることに言及しています。

 大本営から出された作戦には、「敵攻略部隊を
全滅させよ」となっています。栗田中将は、この
命令に従い、突入後、海上兵力を撃滅、次いで
敵攻略部隊を殲滅する」としています。

 ここで、敵攻略部隊の範囲が曖昧だとしています。
上陸部隊を砲撃することにあるのか、輸送船や艦隊の
殲滅を含んでいるのか分からないとしています。

 利根と筑摩の乗員は、陸上部隊の砲撃であるという
認識でした。そのため、敵艦隊の殲滅は、突入の
邪魔ならやるが、あくまでも突入が主目的と
しており、その方針で作戦を練っていました。

 栗田中将は、反転後、敵の艦隊の殲滅が目的だと
しており、この時点で、艦隊内で認識にズレが生じて
いることになります。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 若い候補生 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 利根と筑摩には、マリアナ沖海戦の前、若い士官
候補生を5名、乗せています。彼らは、卒業後、
大和に便乗して、リンガ泊地に送られ、猛訓練を
受けた後、マリアナ沖海戦に出撃しています。

 初めての実戦ということで、張り切って配置につき
ましたが、利根と筑摩は、索敵機を発艦した後は、
遠くに見える敵機の姿に、高角砲を撃つくらいで、
これといった戦闘はしませんでした。

 一方で、同期卒業生の内、11名が空母翔鶴に
乗り込んでいましたが、9名が戦死しています。
この事実に、現実が厳しいことを教えています。

 マリアナ沖海戦が終わると、利根と筑摩は
リンガ泊地に帰艦し、若い候補生達は、夜間戦闘、
対潜見張、照明弾投射などの猛訓練を続けました。

 昼は休養となりましたが、赤道直下の猛暑で
眠ることはできず、慢性的な睡眠不足を訴える
ことになりました。

 この様な苦労をしながら、9月1日に、全員
少尉に任官し、リンガ泊地で、お祝いの昼食
パーティーが艦長主催で行われました。

 通常なら、料亭で行われることですが、
夜間も訓練をしなければならない状況
ですので、昼食だけで我慢してくれ
というのが、黛艦長の意向でした。

 そして、しごき屋ライオン艦長黛大佐は、
昼食事は、新任士官に酒を振る舞いながら、
夜は、猛訓練に明け暮れました。

(追記)
 若い仕官の楽しみは、時々巡ってくる内火艇の
指揮でした。黛艦長らは、旗艦の熊野に集まって
作戦会議をしていました。この送り迎えが、若い
仕官の役目でした。

 黛艦長は、この会議の席にだされる果物や、
お菓子類は、食べずに若い士官にあげて
いました。

 そのため、もらった若い士官は、艦に戻って、
同僚と分け合うのを楽しみにしていました。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

航空巡洋艦利根、筑摩 マリアナ沖海戦 [航空巡洋艦利根、筑摩]

 1944年6月に、日本本土が攻撃圏に入る
サイパンが取られそうになってきたので、艦隊を
温存している訳にはいかなくなり、決戦を図ることに
しました。

 そして、6月19日、20日の両日に、マリアナ沖
海戦が行われました。南太平洋海戦で活躍した
筑摩の古村艦長は、この海戦では、機動部隊
参謀として小沢中将を助けていました。

 6月のマリアナ沖海戦を前にしての猛訓練中、
黛艦長は白石司令官と会って、敵はサイパンを
跳び越して、小笠原、硫黄島の線に来るかも
しれない。どこに来ても、受けて立てるように
準備しなければならない。と語り合っています。

 6月上旬、戦記は熟してきました。小沢中将は、
アウトレンジ戦法を練っていました。日本軍機の方が、
アメリカ軍機より、後続距離があるということを利用した
もので、攻撃圏外から叩けるというものでした。

 黛艦長はこの戦法を聞いて、「そんな虫の
いいことを言って、果たして敵が捕まるのか。
司令部は、肉を切らせて骨を切るという決戦の
要点を忘れているのではないかとしています。

 実際、この海戦では、潜水艦の攻撃で、
空母2隻が撃沈し、その後の航空機による攻撃で、
飛鷹が撃沈しています。利根と筑摩は、索敵機を
出しただけで、戦闘らしい戦闘はせずに終わって
います。

 黛艦長は、決戦では、肉を切らせて骨を切るべき
だと肝に銘じました。

(追記)
 決戦前、黛艦長は、601空所属の親戚と会って
会話しいています。そこで、搭乗員の間では、
アウトレンジ作戦より、肉薄した方が確実という
意見が強いということを言っているとしています。

 実際、片道550kmも飛んだのでは、帰りに
母艦まで戻れるか分からないとしています。

 黛艦長も、搭乗員もそういう意見なのかと
感じていました。この親戚の搭乗員は、
この海戦で戦死しています。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘
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