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泗礁(ししょう)山部隊の指揮官を拝命 [天津風]

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 森田艦長は、葬儀が終わって3日後の1945年4月17日に、
支那方面艦隊司令部に呼ばれ、泗礁(ししょう)山部隊の
指揮官を拝命しました。ここで終戦から武装解除を経て、
1946年3月28日に博多港に着くまで任務について
います。天津風の活躍からは外れますが紹介いたします。

 この山は、揚子江の河口に近い島で、島民のほとんどは漁業を
営んでおり、樹木がない岩山でした。既に着任していた部隊の
手で、送水と貯水池を作っており、水については不自由なく
過ごすことができていました。

 森田指揮官が着任した時、昼食にてんぷらがでてきました。しかし、
黒いものが混在しており、これは何かと主計科に尋ねたら「はえ」だと
いうことでした。料理中に入ってきて取りきれないし、このへんでは、
「はえ」が集るのは美味しい証拠だということで、避けて食べてくだ
さいと言われました。さすがに森田指揮官も呆れていました。

 森田指揮官は、この島を治めている海賊(海賊といっても、船を襲撃
する人達ではなく、治外法権的に振舞う漁業集団)と良好な関係を
築くために、丸腰で会いに行ったり、アメリカ軍が上陸作戦を企てた
時に備えて訓練に明け暮れていました。

 森田指揮官が着任してから、アメリカ軍の飛行機が上空を通過した
ことが何回かありましたが、攻撃されるまでは手を出すなと命じており、
終戦まで攻撃を食うことなく過ごしています。

(追記)
 アメリカ軍の上陸阻止のための主力兵器が、震洋という
特攻兵器でした。特攻兵器を発案し、それを命じた人達は
絶対に許せないものがあります。

 軍人が、1億総玉砕(日本国民は全員死ねと同義)という
言葉を発していた時点で、国を守るという意識はなく、狂人
としか言いようがありません。


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