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天津風の最期 [天津風]

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 艦の放棄を決意したら、一刻も早く退避する必要が
生じました。ここもいつ空襲されるかしれないので、
乗員と使用できる機銃、弾薬、荷物は、厦門の
司令部に移すことにしました。

 4月8日の午前に、森田艦長は警備艇に便乗して、
廈門司令部で上陸の交渉をし、午後に天津風に
戻って、作業を開始しました。根拠地隊の協力も
得て、4月9日一杯までかかりながら、搬出を
終えることができました。

 荷揚げが済むと、艦内の要所8箇所に爆雷を
セットし、4月10日の日没時に、軍艦旗を降下し、
爆破、天津風の武勲をたたえて別れの敬礼を捧げ
ました。

 生存者は皆、着の身着のままで上陸しましたが、
根拠地から宿舎や毛布衣類の支給があり、入浴と
食事もすることができました。

 根拠地も、天津風の機銃で戦力強化ができ、運んで
きた荷物に入っていたシンガポールでつんだ砂糖7俵が、
隊員の士気向上に役立ちました。

 休んだあと、最後の大仕事である、戦没者の葬儀と叙勲
申請を行いました。4月14日午後2時から根拠地の配慮も
あって、司令部集会場で行われました。天津風の軍艦旗の下、
戦士した36柱と便乗者3柱の遺骨と位牌を置き、供物、供花も
手厚く準備されました。

 シンガポールから一緒に行動していた海防艦は、全員死亡して
いるため、遺骨がない状態でした。天津風のみ、このような葬儀を
行えることをまれにみる幸運と森田艦長は評しています。

(追記)
 天津風乗員の一人がこの葬儀の時に考えていたことを手記と残して
います。その中には、戦争が3年も継続され、国民が恐怖と不安と
失望に置かれている中で、なおも犠牲を積み重ねようとする根拠は
何かと記されており、責任を取らない上層部に対する疑問をぶつけ
ています。

 これについて、森田艦長も、作戦指導部は戦争目的を逸脱した、
狂気の沙汰という指摘をしています。


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