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武装解除 [天津風]

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 武器を分けて欲しいという要望に対し、リストを司令部に
提出しており、なんとかしたいがもう少し時機を待って
欲しいという返答をしています。地元の有力者を
なんとしても味方にしておく必要があったので、
含みを持たせたということです。

 武装解除後、誰が自分たちの安全を確保してくれるのかと
いう問題がありました。これは死活問題であり、おろそかには
できませんでした。蒋介石軍も共産党軍も、島民たちも武装
解除後、どう出てくるか判然としませんでした。

 森田指揮官の結論は、自分の身は自分で守るでした。各小隊に
命じ、武器の1/3を見つからないところに隠すことにしました。深夜
にこっそり実行し、数日で終了させ、兵器帳簿を書き変えました。

 1945年10月17日午前9時、星条旗を掲げた駆逐艦らしき船が
4隻、南方より近づいてくるという報告がありました。陸戦隊が
降りてきて、マッカーサーのサインのある降伏勧告書を示し、
兵器を撤収するという高圧的な命令をしてきました。

 異議を申し立てたものの、取り付くすべもない状態なので、要求を
受け入れました。アメリカ軍は、日本軍の武器が、紹介石を通して
共産党に渡るのを防ぐため、横取り接収をしていました。

 武器を隠していたら、指揮官を殺すという脅しに対し、見ての通りの
岩山で隠す場所はないとシラを切りました。

(追記)
 上記の森田指揮官の対応は、賞賛に値するものだと言えます。戦闘が
完了したら、軍隊は平時の任務をすることになります。第一の任務は治安
維持です。

 実際、ソ連軍が侵攻してきた満州国では、陸軍が終戦時武装解除したため
住民がソ連兵に襲われ、軍人もシベリアに送られるという状態に陥っています。
これらは、明確なポツダム宣言違反ですが、武装していなければソ連のような
ならず者には通用しないということです。


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