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駆逐艦照月 思想懇談会 [駆逐艦照月]

 調査課では、民間の学識者も活躍していましたが、
これは、京都学派の全面的協力を得たことが大きな
きっかけでした。

 調査課の懇談会には、「思想懇談会」「政治懇談会」
「総合研究会」「京都学派」などがありました。

 これらの懇談会は、調査課の課員が世話役をしていま
したが、高戸氏は、思想懇談会の会合に、ときどき参加
していました。

 この懇談会の中で、高戸氏は、尊敬していた安倍能成
先生から、陸軍が全国の高等学校の校長を集めて、
軍事訓練をしたという話が出てきました。

 この時、老年とも言える校長先生に対し、乗馬をさせた
という話が出てきました。安倍先生はきっぱりことわった
ということでした。

 士気高揚を目指すにしても、乗馬というのは馬鹿げて
いました。馬鹿げていたにしても、これをことわった
安倍先生も相当の勇気を持っているといえます。

 思想懇談会には、和辻哲郎氏も参加していました。
和辻氏は、海軍びいきだったようで、海軍省の懇談会
には進んで参加していました。和辻氏は、高木少将を
尊敬しており、奥さんにも話していたようでした。

(追記)
 和辻氏は、高戸氏のことを俊敏な人で、考え方にも
同感できる。こういう若い人を見ると頼もしくなる。」と
記録しています(高戸氏は、和辻氏から俊敏な方と
評されて恐れ入るとしています)。

 高戸氏は、和辻氏から「高戸さん。あなたが勇気を
もって日本の思想を正しい方向に導いてくださるのは
非常に嬉しい。これを読んでください。」として著書を
頂いています。

 これらの著書は、戦果で焼けてしまい、惜しいことを
したとしています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 海軍省軍務局調査課 [駆逐艦照月]

 高戸氏が所属する海軍省軍務局は、海軍省の
頭脳に当たる部署でした。第一課が軍政、
第二課が国防政策全般を分担していま
した。

 他に、高木惣吉少将が創設した調査課があり、
日本の戦争理念の研究、生産増強策の提案、
海軍政治力の補強などに貢献した課でした。

 この調査課には、高戸氏と同じ二年現役士官が
多数配属されており、力を発揮していました。この
うちの一人藤岡泰周大尉は、「海軍少将高木惣吉」と
いう著書を書いています。

 この本は、自分の上司にあたる高木惣吉少将の
生涯を、時代相を示しながら客観的に明らかにする
ことを目的としていました。

 この他に、食糧問題を担当した高戸氏と同期の親友
橋本陸男主計大尉がいました。この方は、戦局が厳しく
なり、食料が調達しにくくなった時、現地で食糧生産する
構想を上申しました。

 しかも、自らその隊長をかって出て、ボルネオ島に
向かっています。供給した食料は、飢えに苦しんだ
兵士の助けになりましたが、反攻作戦で、部隊は
壊滅し、橋本氏も抑留され、そのまま終戦を
迎えています。

 海軍省にいた方も、内地だけで、活動したわけでは
ないことを示しています。

(追記)
 「海軍少将高木惣吉」では、高木惣吉少将の
業績として、民間のブレーンを登用したこと。
東條内閣を退陣させるに至った戦争指導の
刷新、終戦工作などを上げています。

 この本では、高木こそが、日本を敗戦の瀬戸際で
壊滅から国土と国民を救った人間であると述べて
います。

 しかしながら、このことを額面通りに受け取れるかと
いう点については注意が必要といえます。海軍の
発表は、陸軍以上に信頼性に欠けることが多々
あります。

 大本営発表はその典型例で、大ウソぶりに陸軍すら
呆れていました。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 身に迫る危険 [駆逐艦照月]

 中央公論事件が起きたころ、高戸氏は、自分の身に
真の危険が迫っていることを感じました。

高戸氏の嘱託の一人が、警察に捕まるという事件が
発生しました。高戸氏は驚き、なぜ捕まったのかと
理由を問い合わせると、共産党員であるという答え
でした。

 高戸氏は、この時捕まった嘱託が、学生時代
共産党員の容疑で逮捕されていることを知り
ました。

 高戸氏は、釈放してくれるように頼みましたが、
結局、釈放されませんでした。そして、この事件と
前後して、人事局に、高戸主計大尉は、部下に左翼の
者を集め、海軍内を赤化(共産主義化)しようとして
いるという投書がきていました。

 高戸氏は、開いた口がふさがらないという思いと
同時に、逃げ場のない恐怖感を感じていました。
自分が左翼思想の持ち主でないとどのように
説明すればいいのか分かりませんでした。

 この時、いわれなき圧迫を受けている一般の
知識人たちの苦悩が分かったような気がしました。

 そして、このような折に、上司の栗原少将から、
「このようにうるさくては君のためにもならないので、
第一戦に出てはどうか」と勧められました。

 高戸氏は抗議したかったものの、第一戦に出よと
言われて断るのは、男子の恥であると考え受諾しま
した。

(追記)
 高戸氏は、トラック島の航空隊主計長に行くことが
決まりましたが、軍務局に転属の挨拶に行くと、君が
いなくなると困るといわれて、栗原少将の元に行か
されました。

 結局翌日には、高戸氏のトラック行きは、中止と
なりました。高戸氏は、トラック行きのために飛行機を
予約していましたが、この飛行機がトラックに着いた
1時間後、トラック空襲があり、高戸氏はまたもや
命拾いしています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 中央公論事件 [駆逐艦照月]

 高戸氏が身の危険を感じていたころ、「中央公論事件」が
発生しました。

 法務省からの情報では、「中央公論編集部は、編集会議を
開いて、左翼思想家および作家をAグループとし、少し左翼
傾向にある作家をBグループとして選別し、Aグループでは、
即弾圧されるので、Bグループで左翼思想を普及させよう
という方針を確立した」というものでした。

 これは、そのまま読めば、中央公論社ををつぶせといいたく
なるような内容です。高戸氏は、これを読んで、鳥肌が立つ
ような恐怖にとらわれました。

 中央公論社の嶋中社長はとらえられ、拷問を受けたということ
でした。結局、中央公論社は、発刊禁止の処分を受けました。

 高戸氏は、陸軍報道部の指導は極端だと感じ、栗原少将を
通して、陸軍報道部に掛け合ってもらいました。その結果、
陸軍報道部のS少佐は、解任されました。このS少佐は、
高戸氏のところに挨拶に来ました。

 この挨拶で、「私は正しいと思って指導していたが、行き
過ぎだったようです。軍人が思想に深入りするのは、考え
ものです」と高戸氏に話してきました。

 この挨拶を聞き、高戸氏は、この人が気の毒になって
きました。問題なのは、善と思いながら知らずに悪を
なすことだろうとしています。

(追記)
 思想教育は、このような危険な側面があるので、気をつける
必要があります。素晴らしい思想だと思っていたのが、実際は、
悪魔の手先になっていたというようなことも往々にしてありえ
ます。

 日本の状況を見ると、戦前は共産主義から形を変えた右翼
思想がはびこり、戦後は、この反動で左翼思想に染まったと
いう感じです。

 日本では、健全な思想教育は根付いておらず、現在でも、
この問題を引きづっていると言えます。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 陸軍報道部との確執 [駆逐艦照月]

 陸軍報道部の非常識とも言えるクレームに対し、
身に迫る危険を感じた高戸氏は、上司である
栗原部長に、高戸氏の発言は、海軍の発言と
して全面的にバックアップして欲しいという
お願いをしました。

 一人の主計中尉の発言とされたのでは、活動が
困難になることは目に見えていました。栗原部長
も了承してくれました。

 陸軍の報道部と座談会で一緒になった時、「学生は
軍事教練もせず生っちろい本ばかり読んでいる」と、
陸軍の報道官が発言しました。

 これに、こびるように文部省の視学官が、「哲学書を
読んでいるのが半分以上いました」と追随していました。

 学生から士官になっている高戸氏には、これらの発言は
我慢できず、「学生が哲学書を読むのは悪くない。学生は、
学問をするのが第一であり、哲学書を読んでいるような
学生は、第一線に出れば、最も強い兵士になる」と
反論しました。

 この言葉に、文部省の視学官は黙り込み、陸軍の
報道官は、何か言いたそうにしていましたが、何も
話しませんでした。陸軍報道部との確執は、この後
もエスカレートしていくことになりました。

 このような折に、上司の栗原大佐は少将に、
高戸氏は、大尉に昇進しました。

(追記)
 高戸氏の代々木の自宅に、文人の中川与一氏が
訪ねてきたことがありました。内容は、「右翼に
脅迫されているので困っている。何とかなら
ないか」というものでした。

 高戸氏は、「自分も憲兵につけられており、自分の
力だけではどうにもなりません。お互いに力を合わせて、
このとうとうたる流れに抗しようではありませんか」と
慰めることがありました。

 これらの事例を見ると、戦中は言論の自由はなく、
思想統制が行われていたことが伺えます。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 陸軍の報道部からのクレーム [駆逐艦照月]

 高戸氏が雑誌の指導に当たっている時、陸軍の
報道部にいるS少佐という方がいて、雑誌に
対して、難癖とも取れる指導をしていました。

 ある雑誌に、島崎藤村の物を掲載しようとした時、
S少佐は、老人の者は戦意が下がるのでだめだ
という理由で禁止したということがありました。

 内容を読みもせず、老人だからダメという査定には
問題があるといえます。高戸氏は、左翼がかったものが
ダメなことは心得ていましたが、中庸的なものまで禁止
されてきていると感じていました。

 陸軍の報道部は、海軍報道部の内容にもクレームを
つけてきました。高戸氏が書いた「世界史における
日本の役割」という表現を文章に使用した時、
S少佐からクレームが来ました。

 クレームの内容は、「高戸主計中尉は間違っている。
日本は八紘一宇で世界を支配する。世界は日本が
あって成り立つ。」といううもので、高戸氏も
驚いていました。

 高戸氏は、彼らはまともな論駁を切り取って取り上げ、
「唯物史観」であると決めつけていました。高戸氏は、
このような風潮は、国を滅ぼすと考えていました。

(追記)
 まともな論駁の一部を切り取って、レッテルを張って
非難するというのは現在でも、新聞などで見られる方法
です。

 新聞は、国民の知る権利に奉仕することが使命であり、
読者に誤った見解を受け付けるような報道の仕方は
問題行為といえます。

 自分の気に入らない主張をする人を貶めるために報道
しているのであれば、新聞社の名前には値あせず、
ゴシップ雑誌と変わらないといえます。

 このような新聞社は、報道の自由を認める必要はなく、
規制の対象とすべきといえます。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 右翼思想とまともにぶつかる [駆逐艦照月]

 平出大佐は、総合雑誌の編集長を集めた懇談会に、
高戸氏と参加していました。この懇談会の席で、
平出大佐は突然脳溢血で倒れ、高戸氏はすぐに
車を手配し、病院に送りました。

 このことがきっかけで、平出大佐は退任されました。
(平出大佐は、一命を取り留め、療養後フィリピンの
駐在武官を務め、後に札幌にある北海海軍部で
終戦を迎えています)。

 後任は、栗原悦蔵大佐が着任されました。高戸氏は、
早速、報道部の宴会の中止を進言し、直ちに採用され、
報道部はキリリと引き締まりました。

 この頃、戦局は、厳しくなっており、国民生活も
追い詰められていたので、当然の措置とも言えます。

 物資不足にあえぐ国民の不平不満を抑えるためと
いうことで、精神論が幅を利かせるようになって
きました。

 高戸氏は、仕事として、こういったことを広める
役割を果たすことになりましたが、これが右翼の
思想と衝突することが問題となってきました。

 高戸氏は、この頃の右翼思想は常識の範囲を超え、
狂気じみていると感じていました。雑誌の指導に
当たっていた高戸氏は、この右翼思想とまともに
ぶつかることになりました。

 さらに問題を厄介なものにしていたのは、陸軍の
報道部が、右翼を全面バックアップしていたこと
でした。

(追記)
 右翼思想は、左翼思想といわれる共産主義に反対
する思想ということで、右翼と左翼は反対の主張を
してぶつかりあっています。しかし、これは見かけ
だけで、根本は、左翼と右翼の思想に差はありません。

 どちら共産主義が形を変えているものにすぎず、
国益には、どちらも有害なものでしかないといえ
ます。

 ぶつかりあっているのは、血のつながった身内同士の、
妥協のできないケンカになってしまったからだといえます。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 文人との付き合い [駆逐艦照月]

 海軍には、作家、画家、新聞記者などの文人が
委嘱されて、前線に派遣され、従軍記を書く
という海軍報道班員という制度がありました。

 目的は、勇戦敢闘する兵士の活躍ぶりを書いて、
国民の士気を鼓舞することでした。

 高戸氏は、仕事の関係で、文人たちと顔を合わせて
仕事を依頼することになりました。この中には、現在
でも誰でも名前を聞いたことがあると言えるような
ビックネームの文人もいました。

 その一人の菊池寛氏と高戸氏は座談会で一緒になって
います。高戸氏は、菊池寛氏には敬意を持っていました。
この座談会で、英語不要論をぶっったことに驚き、敬意が
消し飛んだと記録しています。

 英語不要論は、この頃世間ではよく言われていました。
野球の用語を日本語にしようという話まで出ていました。
高戸氏は、このような沙汰は笑止だとしています。日本が
勝ったら、英語が必要になるともいっていました。

 実際、アメリカは、日本の研究のために日本語を勉強
しており、高戸氏はこの事実を知っていたので、尚更
そう感じていました。

(追記)
 高戸氏は、菊池寛以外にも、漫画家の近藤日出造や、
画家の横山大観といった人たちとも交流しています。

 漫画家の近藤日出造氏には、どのように漫画の構想
を錬るのかといったことまで尋ねられるような関係まで
築いています。

 横山大観氏には、海軍省に飾る富士山の絵を描いて
もらっており、お礼に、横山画伯が酒好きだという話を
聞き、日本酒を数本お土産に差し上げています。

 純粋な職業軍人とはいえない高戸氏にとって、名前が
世間に通っている偉大な文人との交流は、楽しく過ご
せる時間だったといえます。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 学徒出陣 [駆逐艦照月]

 高戸氏が執筆したものの中に、学徒出陣という
連載があり、冊子になっています。海軍主計中尉
高戸顕隆述で、内容は、

1 学窓より戦場へ:高戸氏が、海軍二年現役士官になったいきさつ
2 この目で見た三大海戦:高戸氏が照月で駆け回った、南太平洋海戦~ガダルカナル島作戦の内容
3 日本学徒決戦の秋:日本とアメリカの学生について
4 今ぞ起て青年学徒:学徒出陣を呼び掛けたもの
でした。
 全部で、126ページにもなり、定価30銭で、10数万部
売り上げが出たということでした。

 この本は、日本だけでなく、マレー語と英語で
出版され、海外でも販売されました。この冊子の
影響はそれだけでなく、映画化も検討されました。

 監督も決まり、2~3の大学から学生に集まって
もらい、座談会を行って、シナリオも作られました。

 ただ、このシナリオは、あまりにも通俗的だった
ので、高戸氏は変更するように要求しました。
しかし、今度はあまりにも高踏的になってしまい、
これでは一般受けしないとして、結局映画化は
中止となりました。

(追記)
 高戸氏は、精力的に講演と執筆をしており、これらは
心からの叫びであり、任務であったとしています。
しかし、これにより、幾多の青少年が、望んで
戦地に赴き、戦火に斃れる原因を作ったことも
事実だとしています。

 このことを思うと、傷つき苦しんだ本人だけでなく、
ご家族の方々にも、心から申し訳ないとう気持ちで
いっぱいだったとしています。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

駆逐艦照月 少年倶楽部に連載 [駆逐艦照月]

 高戸氏は、信州、徳島、岐阜、萩、高知など全国を
回って講演を行っていました。しかし、講演を重ねる
たびに、憲兵の姿を見かけるようになりました。

 何度か、講演が始まる前に、憲兵曹長が現れ、どの
ような講演をするつもりなのかと、質問されたことが
ありました。

 そのたびに、「心配することはない。私は海軍の検閲官
なので、何をしゃべってはいけないかは心得ている」と
突っぱねていました。

 高戸氏は、講演で、「日本は神国だから勝つ」「天皇陛下
のために」といったことを無闇に振りかざさなかったので、
敗戦論者と思われていたようでした。

 講演のほかに、執筆活動も行っていました。高戸氏の
場合、速記に筆を入れたものが多かったようです。その
中の一つに、少年倶楽部に連載した「敵艦隊撃滅」が
ありました。

 戦地にいる叔父さんから甥の少年に出す手紙という
形式をとって書かれたもので、高戸氏もファンだった
椛島勝一(かばしまかついち)画伯の挿絵入り
(高戸氏が頼んで、快諾してもらったようです)でした。

 後に出版社で、宴がもようされた時、椛島勝一先生に
お会いできて嬉しかったとしています。

(追記)
 高戸氏のところに、奏任官(官庁につとめる高官の一種)
待遇で、報道班員になりたいと言って、女性の人が訪れ
ました。

 この人は、女子大出身なので、奏任官として勤務できる
はずだと言い張りました(この当時、女性は奏任官には
なれないとされていました。)

 この女性は、女性挺身隊など、女子と頭に着く組織に、
時局を話して、国家意識を高めたいとうことでした。この
女性は採用となりました。この当時では珍しい存在と
いえます。


紹介書籍:海軍主計大尉の太平洋戦争(駆逐艦照月)

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