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巡洋艦摩耶 本土決戦 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

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 1945年3月、小磯内閣から、鈴木内閣に
変わり、戦局の収集を図ろうとする意図は、
国民にも見てとれました。

 一方、連合国側は、2月にヤルタに会し、
イタリア脱落後の日独伊の処理方針を会議し、
5月にドイツが降伏すると、7月にはポツダム
宣言を発して、日本に降伏をうながしてきました。

 この頃、どこからともなく、日本が連合国に
対して、降伏の意思表示をしたとか、しない
とかの噂が流れていました。政府及び、
大本営としては、あくまで徹底抗戦を
はかる方針でした。

 来るべき本土決戦に備えて、陸海空の
特攻部隊を持って、敵軍百万を、上陸時の
水際にとらえ、全滅させるための作戦計画を
たてて、国民とともに本土を死守する方針を
決めていたようでした。

 特攻部隊や、特攻兵器の温存には、特別の
施設を作り、毎月のように猛特訓を実施して
いました。もちろん、軍人には、敵に対する
降伏など論外のこととして無視され、軍の
士気は、極めて旺盛でした。

 井上氏らも、横浜基地にあって、抜刀術や
対戦車攻撃訓練などを受けつつ、本土決戦の
成功を固く信じて、毎日を送っていました。

 1945年も盛夏をむかえて、暑い日が
続いていたある夜のこと、伊豆大島の
見張所から、全軍あてに、「敵大輸送団見ゆ」
という緊急電報が入電しました。

 大本営、連合艦隊司令部から、ただちに、
「決戦配備につけ」の指令が飛んできました。
井上氏は、横浜司令部にあって、いよいよ
きたるべきものが到来したという、最後の
決意を固めていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平


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