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響、電沈没に立ち会う [響]

 奇跡の撤収作戦が完了した後は、輸送作戦や海上護衛作戦に
従事していました。宮川機関員の手記にはこの期間の記述がなく、
響がどのような活躍をしたか詳細は不明です。キスカ撤収作戦の
後は、1944年5月の護衛任務のことに記述が飛んでいます。

 1943年8月から1944年の5月までに響に関連する事柄として、
僚艦の雷が、1944年4月13日に輸送船護衛中に、敵潜水艦の
攻撃を受け、撃沈されています。

 1944年5月の護衛任務ですが、3隻のタンカーを護衛すべく、
僚艦の電(いなづま)と一緒に行動していました。5月14日、
タンカーを中心に、電と左右交互に交代しながら航行して
いました。

 午前3時に、宮川機関員が当直が終わり、一寝入りしようと
居住区へ戻った途端、大音響があり甲板に飛び出していま
した。右方向を見ると、火柱があり2分くらいで消えてしまい
ました。電が沈没した瞬間でした。

 直ちに戦闘配置に付けの警報が鳴り、爆雷投射準備完了の
報告とともに、潜水艦の位置と思われる方向に22ノットで
直進し、爆雷投下の号令とともに、投下されました。
この時は、潜水艦の沈没を確認できないまま、
急ぎ電が沈没した場所へ引換しました。

 響は、海上にいた121名の救助をしています。1か月前に
僚艦の雷を失い、さらに電も撃沈となり、第六駆逐隊は、
響のみとなりました。

(追記)
 艦これでも時々話題になる「友鶴事件(ともづるじけん)」
ですが、1934年に水雷艇の友鶴が佐世保沖で訓練中に
転覆し、死者・行方不明者90名を出した海難事故です。

 この当時、ロンドン条約で船の重量に制限があり、条約
対象外の600tの水雷艇に、駆逐艦並みの装備をした
艦艇ができました。バジルをつけるといった対策を
とっていたものの十分ではなかったため事故を
招きました。

響、奇跡の撤収作戦成功 [響]

 何もすることなく帰還した木村司令官には、批判が集中
しました。木村司令官は、釣りに興じる余裕を見せ、機会
をうかがっていました。

 7月22日、2回目の出撃となりました。艦長からは、「玉と
なって砕けよう」 し、鼓舞していました。

 この時も、霧が晴れ、反転しています。反転後、翌日まで
待ったものの、霧は発生しませんでした。響の艦内では、
焦りが出てきました。多少の犠牲を覚悟で決行すべきと
いう意見が多くなってきました。

 この状態が、さらにもう1日続き、7月28日に絶好のタイミングと
の報告で、出撃しています。この時作戦が変更になり、島の正面
ではなく裏側から進入と決定されました(裏側は深度がわからず
座礁しかねないという心配はありました)。

 7月29日に、約3ノット(時速約5~6km)のノロノロ運転で、島に
近づき無事到着。守備隊5200名を1時間で収容しました。響には
418名が収容されました。

 この後、離脱し8月1日にアメリカ軍に出会うことなく千島列島の
幌筵(ばらむしる)島に到着しました。全員戦死と言われていた
作戦は、全員生還という快挙となり、奇跡の撤収作戦といわれ
ました。

(追記)
 この作戦では、アメリカ軍と出会っていないため、戦闘は起こりま
せんでした。ただ、旗艦の阿武隈と、駆逐艦島風は、濃霧のため
小島をアメリカ軍と勘違いし、魚雷攻撃を行い、見事に命中させて
います。

 島風の15連装の魚雷は安定した性能を発揮することを確認でき
ましたが、皮肉にも島風があげた魚雷の戦果がこれだけでした。
この当時は航空戦が主流となっており、肉薄しての魚雷戦は
発生しなくなっていました。

響、キスカ撤収作戦に参加 [響]

 アッツ島が玉砕したので、キスカ島も同様の運命が予想
されました。そこでキスカ島からの撤収作戦が行われました。

 この作戦の司令官木村昌福少将は、電探を配備して、濃霧に
まぎれて撤収することを考えていました。6月19日に、撤収
作戦は開始され、軽巡洋艦多摩、阿武隈、木曽と駆逐艦
響を含めた11隻、タンカー1隻、海防艦1隻の編成で
出撃しています。

 この作戦に、兵員輸送用の船は参加していません。
輸送船は、足でまといであり、駆逐艦のみで収容可能と
判断されていました。また、駆逐艦では燃料が足りない
ので、室蘭で満タンにした上で、タンカーも参加しています。

 しかも、ドラム缶を甲板に積んでロープで固定するということまで
しています。敵から攻撃されると、爆発し誘爆の恐れがあるため
かなり危険な行為といえます。しかし、敵と遭遇することなく、
予定通り行動しています。

 濃霧の中で、衝突を避けるため、互いにサイレンを鳴らしながら、
撤収作戦の準備を進めていました。この時、響の2番煙突の
サイレンが故障し、金工にいた、宮川機関員に修理の命令が
きました。

 恐怖で一杯だったものの、大丈夫と返事をし、分解したところナットの
緩みが原因と分かり修理しています。修理後、サイレンが鳴ることが
分かり、艦長からお礼の言葉をもらい、煙突での作業の苦しみは
吹き飛んだと記しています。

 この後、吸引器で吸い取ったように霧が晴れてしまい、反転の命令が
下っています。

(追記)
 この作戦で、艦これでも人気のある駆逐艦島風が初陣をしています。
島風は、40ノットの高速と、15門の魚雷発射能力という飛び抜けた性能を
持っていながら、同型艦がいないため艦隊を組むことが難しい艦でした。
この作戦では、霧でも見通せる電探能力をかわれて参加しています。

響、護衛任務に復帰 [響]

 横須賀に戻り修理を受けた響は、護衛の任務に就いて
います。護衛するのは、ミッドウェー海戦で失った空母の
代わりに急造で作られた空母の、雲鷹、大鷹、冲鷹、
飛鷹です。

 これらの空母は、横須賀からトラックやサイパンなどへ
航空機の輸送を行っていました。頻度は多く、宮川機関員は、
定期航路のようだと表現しています。往復2週間の航路で、
1942年12月から1943年5月まで続けられましたが、
響の護衛中は一度も攻撃を食うことはありませんでした。

 なお、攻撃がなかったのは、アメリカ軍が輸送中よりも、
輸送完了後の陸上に飛行機があるときに襲撃した方が、
効果が高いと考えていたからです。響が、内地にUターン
している間に、飛行場を攻撃され、1回も飛ばないうちに
破壊されていました。

 1942年に響が損傷したアッツ島ですが、連日激しいアメリカ軍
からの攻撃を受け、後退の色が濃くなっていました。大本営は、
1943年5月に、アッツ島、キスカ島からの撤退を決定しました。
しかし、1943年5月29日に、アッツ島の守備隊は、全員が玉砕
という悲惨な事態となっています。

 響が、輸送任務からキスカ島への出動命令が下されたのは、
このような時期でした。

(追記)
 響が修理をしていた1942年7月~12月の間は、ソロモン方面で
何度も海戦が行れています。その一つの第三次ソロモン海戦の時に、
僚艦の暁が沈没しています。
(“雪風”のカテゴリーの“雪風の最初の戦死者”をご参照ください。)

響、最初の損傷 [響]

 6月12日に、爆撃機による攻撃を受けました。主砲や
機銃で応戦しました。敵は、霧の合間を利用し、猛烈な
勢いで突っ込んできました。この戦闘で、250kg爆弾
4発を至近弾で浴び、環境から前の部分は、曲がって
沈没しました。

 この状況を見て、敵機は去って行きましたが、浸水を
防がなければ沈没は必至なので、全員で防御作業に
取り組んでいます。木材を浸水箇所に運び楔にし、
排水ポンプで排水していきました。

 僚艦は、警戒しながら、響の状況を見守っていました。
3時間ほど作業した時に、ようやく浸水速度が遅くなり
成功したという声と同時に歓声が上がりました。

 響は、内地へ帰還して修理し、命令があるまで待機せよ
という司令官の指示があり、帰投することになりました。
前部が壊れているので、前進はできず後進で進むことに
なります。僚艦の暁が付き従っています。

 響は短時間で給油を済ませ、5ノット(約時速9km)という
低速で、後進で大湊に戻ることになりました。警戒は厳重に
しながら、排水作業は続けるという航海でした。

 沈没した前部にあった食料庫と真水のタンクがなくなった
ので、毎日米なしのしるこという食事で食い繋いでいました。
煙突に吊るしていた乾物は、戦闘で滅茶苦茶になっており、
食物にはなりませんでした。

 「しるこばかりだ」という文句と「贅沢言うな」という会話が
続いていました。戦闘海域から離脱している安堵感から
このような会話が出てきています。

 6月27日に大湊到着し、半月かけて仮修理した上で、
7月11日に横須賀港に向けて出港しています。

(追記)
 この作戦には、艦これでもお馴染みの第十八駆逐隊の、
霰(あられ)、不知火(しらぬい)、霞(かすみ)が参加して
います。第十八駆逐隊のもう一隻、陽炎は呉に残っており、
参加していません。

 響が帰投した後、第十八駆逐隊は、キスカ島で潜水艦の
攻撃を受け、霰が沈没し、不知火と霞が、響と同様に前部
切断の大損害を受けています。この結果、第十八駆逐隊は、
陽炎のみが残ってしまい、解隊となりました。

響、キスカ島攻略作戦に参加 [響]

 ミッドウェーでの悲劇が響に伝わった後に、キスカ島
上陸作戦が行われました。むしろ、ミッドウェーの敗戦が、
あったので成功させるという意気込みを持っていました。

 宮川機関員は、陸戦隊としてキスカ島に上陸する部隊に
入っています。北方は、この時期真夜中でも昼の明るさを
保っており、暗闇に乗じてというわけにはいきません。

 6月7日に、浜に上陸後事前の指示通り散開し、戦闘
態勢に入りました。ところが、前方のアメリカ兵は白旗を
振っており、抵抗する気配もありませんでした。逃亡した
アメリカ兵も捕らえられ、合わせ12名が捕虜となり、連行
されました。

 この日のうちに陸軍部隊もすべて上陸を果たしました。
響は、僚艦の第六駆逐隊の暁(あかつき)、雷(いまづち)、
電(いなづま)と一緒に警戒にあたっています。

 キスカ島攻略作戦は順調に推移したこともあり、警戒中は
釣りをしても良いということになり、宮川機関員は海の宝庫と
言われる北方海域での釣りを楽しみ、タイやカレイを釣り
上げています。

 餌は、最初だけ船の食材を使い、1匹釣れたあとは、それを
捌いて餌にするという方法で、30分で15匹以上釣り上げています。

食事の時は、釣り上げたタラの刺身を出していました。艦長も、内地の
土産にしようと行ってきたので、煙突にロープを張り乾物を作るという
事までやっていました。

 この時は空襲も小規模なもので、損害はありませんでした。

(追記)
 艦これでもお馴染みの、暁、響、雷(いまづち)、電(いなづま)は、
第六駆逐隊として艦隊を組んでいましたが、実際は、暁と響、雷と電に
分かれて作戦することが多く、4隻全部揃っていることはまれでした。
同時に、4隻が全て揃って活動したのは、この時が最後となります。

響、キスカ島攻略作戦に参加 [響]

 宮川機関員の手記は、1942年5月17日に、呉から出港する
ところから始まっています。どこへ向かうかも知らないまま、瀬戸
内海の海から、関門海峡を抜け、北へ進路をとった時、ゆれが
激しくなってきました。

 宮川機関員は、駆逐艦に乗るのは初めてで、古参兵のする
ことを見ながら、訓練していました。缶(ボイラー)は、給油圧力と
バーナーの本数、送風量の3つがマッチしないと、煙突から煙を
吐き出し、敵に発見される危険があります。従って、缶の状態から
目を離すことができませんでした。

 宮川機関員は、訓練中に気分が悪くなり嘔吐を繰り返していま
したが、訓練が休みになることはなく、罵声を浴びさせられることに
なります。好きなだけ殴れという捨て鉢ぎみの気持ちになってから
精神に余裕ができて、吐かなくなったと記録しています。

 5月19日に、青森県の大湊に入港し、「無礼講だ。大いに飲んで
くれ」となったものの、疲労しきった身体では酔うことはできません
でした。翌日、大湊を出港し、始めてキスカ島攻略作戦に参加する
ことを告げられました。

 北方は特有の霧に包まれ、視界は150mくらいしかない状態でした。
しかも、艦は木の葉のように揺れ、うねりと波で僚艦が見えなくなることも
しばしばでした。食事も、配膳鍋を天井から吊るしてたべるような有様で
した。

 この作戦は、ミッドウェー攻略の牽制として行われ、6月4日に、
空母龍驤と隼鷹が、ダッチハーバーの空襲を行っています。本体
のミッドウェーでの海戦で、6月5日に空母4隻が沈む大敗北を
していますが、キスカ攻略作戦は継続されています。

(追記)
 響は、開戦時は仏印方面に向かっており、ここでイギリス船を拿捕
しています。これが、1941年12月7日で、太平洋戦争の拿捕第1号と
言われています。響は、この後北方作戦に配属されており、上記の
通り出撃しています。

響の諸性能 [響]

 今回から、雪風以外の駆逐艦の活躍を、
著名 「駆逐艦 神風 電探戦記」
著者 「丸」編集部
出版 光人社NF文庫

 この本には、雪風の田口航海長の手記の他に、
駆逐艦の「響」、「夕雲」、「早潮」、「神風」の乗組員
だった方の手記が掲載されています。

 最初は、駆逐艦響(ひびき)から紹介いたします。

 まず響の経歴と性能諸元をWikipediaから抜粋してみます。

起工(工事を始めた時期):1930年2月21日
進水(始めて水に触れさせた時期):1932年6月16日
就役(任務に就いた時期):1933年3月31日

排水量: 基準1,680トン
全長:118メートル
全幅:10.36メートル
吃水:3.2メートル
機関:艦本式衝動タービン2基2軸  ロ号艦本式缶3基 50,000馬力
最大速力:38.0ノット
航続距離:18ノット/5,000海里
兵員:239人
兵装(新造時):50口径12.7cm連装砲:3基
         13mm 単装機銃:2挺
         61cm3連装魚雷発射管:3基
(最終時):50口径12.7cm連装砲:2基
      25mm 3連装機銃:2基 連装機銃:1基 単装機銃:17基
      61cm3連装魚雷発射管:3基
      爆雷投射機:1基

 響は、雪風同様終戦まで生き残り、賠償艦として
引き渡されるという生涯を送っています。違いは、
雪風は、ほぼ無傷で過ごしたのに対し、響は
何度も大きな損傷を負いながら戦い抜いた
ことです。

 このことから、不死鳥と呼ばれています。
響の乗組員として、数多の海戦に参加し、終戦まで乗り
組んでいた宮川正機関員の記録から紹介します。

(追記)
 響は特型と呼ばれる駆逐艦で、艦これにも登録されています。
改造すると名前が変わる珍しい艦です。

 陽炎型同様、激戦に投入されたので、特型で終戦まで生き
残ったのは、23隻の内、響と潮(うしお)の2隻のみです。

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