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響、「あ号作戦」に参加 [響]

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 1944年5月23日に、響はダバオに向け出撃しています。
1944年5月20日に、「あ号作戦(後にマリアナ沖海戦と
言われました)」が発動されたため、響はメインの機動
部隊を待つための出撃です。

 響は、補給部隊に配属され燃料補給のタンカーの周りを
番犬のように走り回っています。同じ補給部隊には、奇跡
の駆逐艦の雪風も加わっており、終戦まで生き残った
駆逐艦同士の唯一の共闘になっています。

 響は、6月20日の空襲時に、対空戦闘を行っています。
 宮川機関員は、空襲警報が発動されたと同時に機関室
に飛び込んでいますが、直後に、響の主砲と機銃が一斉
に火を噴いた轟音を聞いています。気づいたときにはすぐ
そこだったことになります。

 宮川機関員は、戦闘中各室の機関状況を確認すべく
連絡を取り合っていましたが、艦橋から、“3番機銃に
機関科より応援を頼む“の命令が来たので、向かって
います。

 駆逐艦は、艦の構造上、甲板下は区画ごとに区切られて
いるため通路はなく、他の区画に行くには甲板上を走り
抜ける必要があります。敵機の攻撃を見極めて、急ぎ
移動ということになります。

 この後、宮川機関員は、対空戦闘に従事することになります。

(追記)
 友鶴事件の翌年の1935年に、「第四艦隊事件」という
友鶴事件と同じ理由による事故が発生しています。海軍
演習中に、下北半島で臨時編成の第四艦隊が台風に
遭遇し、半数近くの船が損傷を受けました。

 艦これでもお馴染みの初雪は、艦橋前から艦首を
切断し喪失という被害を受けています。重武装の上に
軽量化という無理がたたり、強度不足が露呈しました。

 この後、原因究明が進められ、多くの船が船体強度
補強の改造を受けています。日本は、大戦前にこの
問題を発見したことで、大戦中同様の事故は発生
していませんが、アメリカ軍は大戦中同様の事故を
起こしています。


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