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響、馬公での修理 [響]

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 響の爆発は宮川機関員は、雷撃によるものだと後日
分かったと記述しています。しかし、最近の研究では、
日本軍が敷設した機雷に接触したのではないかと
言われています。

 出港直後の被害ということを考えると、雷撃よりは
機雷に接触したと考える方が自然です。宮川
機関員達には真実が伏せられていたと
思われます。

 損傷を受けた響は、9月20日に、台湾の馬公まで
タグボート4隻に曳航されて、ドックへ入渠しました。
馬公の工作部は、きわめて小規模な上、駆逐艦が
入居できるドックしかなく、しかもすでに海防艦が
入渠していました。

 宮川機関員は、海防艦に接触させないように入渠
するのに手間取ったと記しています。しかも、宮川
機関員の手記には記載がありませんが、響の
乗組員のほぼ全員が赤痢に罹患し、死者まで
出ています。

 さらに、10月12日と13日に、台湾沖海戦のあおりを
受け、修理中に空襲を受けています。響は、この状況で
反撃し、敵機を撃墜させる戦果を挙げています。

 この後、母港の呉に帰還し、1945年3月まで岸壁に
横付けされ、整備を受けています。

(追記)
 台湾沖海戦は、アメリカの機動部隊が、沖縄、奄美諸島、
台湾を空襲したことに対して、航空隊が迎え撃ったもので、
空母11隻を撃沈するという発表をした海戦です。

 実際は、巡洋艦2隻の撃沈のとどまっており、大誤報
でした。


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