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響、2度目の損傷 [響]

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 響は、呉でつかの間の休暇を楽しんだ後は、下関に投錨し
待機となりました。ただし、同じ港に輸送船団が停泊しており、
輸送護衛任務が来ることは想定していました。そして、台湾の
高雄に行くように命じられました。

 今回は、陸軍将兵の輸送護衛で、1週間の船旅でしたが、
襲撃されることなく無事に到着しています。宮川機関員は、
高雄で上陸できるかと楽しみにしていたようですが、すぐに
マニラへの出港となりました。

 1944年9月6日、航行体制に入ったとたん大音響とともに、
輸送船の一隻が沈没しました。出港直後の出来事でした。
輸送船の船員は、出港直後ということもあり、ほとんどが
甲板上にいたので、われ先にと海に飛び込んでいました。

 響は、原因究明も後回しにして、救助活動にあたっています。
救助活動が一段落した直後、大音響とともに宮川機関員は
宙を飛び、床に叩きつけられました。なにが?と思い、甲板に
駆け上がると、「士官室が爆発した。戦闘配置につけ」という
命令が下っています。

 宮川機関員は、救助要因として士官室に向かい、床に空いた
穴から浸水している様子と、救助した輸送船の船員が負傷して
いるのを発見し、こんなことになるとはという思いを抱いています。

 響は、この被害により、この後に行われたレイテ沖海戦には
参加できなくなりました。

(追記)
 響が、レイテ沖海戦に出撃していたら、どの部隊に配属されたか
を想像すると、同じ特型の駆逐艦潮(うしお)や曙が参加していた
西村艦隊に属した可能性が高いと思われます。

 西村艦隊は、後続の第二遊撃隊を除き、駆逐艦時雨以外
全て撃沈されており、参加できなかったのは幸運といえます。


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