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二式大艇 蒼空 [二式大艇]

 佐々木氏は、「蒼空」の木型に乗り込み
ました。一目見て驚きを感じました。

 内部は3階建てで、1階の船倉部は肋骨に
相当する高度材が上下にずらりと並び、昔の
百石船のような感じでした。

 木製ということもあり、水漏れ対策をする
必要があり、ここには、人や物は入らない
だろうと判断しました。

 2階は、90人が入れる客室となっており、
畳が敷かれていました。貨物を搭載する時は、
畳を立てかけて、貨物を入れるようにする
ということでした。

 二式大艇を輸送機に改造した「晴空」は、
62人乗りなので、「蒼空」は一回り大きい
ことになります。

 二式大艇にはあった1階の燃料タンクは
取り外されている上に、椅子は全て籐で
出来ていました。無駄な重量が発生しない
ように、随所に工夫をしていました。

 結局、「蒼空」は戦火が激しくなり、途中で
生産打ち切りになりました。

(追記)
 佐々木氏は、戦後、新幹線を走らせる
ということになった時、新幹線を作る
方法として、「蒼空」と同じ木型審査で
作ったという話を聞いていました。

 高速鉄道を作るに当たり、「蒼空」と
同様に無駄な重量が発生しないように
していました。さらに、審査の手順も
同様に行われており、性能向上に役立て
られていました。

 そのせいか、佐々木氏は、新幹線の
姿は、航空機に似ているとしています。


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著者:佐々木 孝輔 他

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二式大艇 木型審査 [二式大艇]

 1944年8月下旬、佐々木氏は、1年ぶりに
横空に着任しました。

 佐々木氏は、兼務として審査部員も
命じられていました。審査部は、新製の
機体が、軍の用に適するか審査する
任務でした。

 佐々木氏は、当時、二式大艇を設計した
川西製作所で、「蒼空」と呼ばれる飛行機の
試作しており、その木型審査を命じられました。
佐々木氏は、早速神戸に飛びました。

 始めて見た「蒼空」は、4発の輸送飛行艇で、
機体は全て木製でした。二式大艇1機で、
零戦17機分のジェラルミンを使うので、
今のご時勢に、そんなに使うわけには
いかないということでした。

 エンジンは、二式大艇と同じものを使用して
おり、輸送機としてなら問題ないと判断しました。
この機体は、これまで、日辻氏が、審査を担当
しており、四国の小松島で量産する計画でした。

 佐々木氏が来た時は、「蒼空」は、早く
第一号機を完成させるという段階でした。

(追記)
木型審査は、機材をベニア板で、設計図通り
作って、搭乗員が、操縦と偵察などをして運用
できるか、実機を想定して検討するものです。

 通常、木型審査が行われる時は、多少の
手直しが入る程度で、完成間近といえます。
そして、この後行われる、試験飛行も全て
担当することになります。

 熟練の搭乗員でなければ出来ないことであり、
日辻氏や佐々木氏が選ばれているのは当然と
いえます。


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二式大艇 1年間の戦地勤務を振り返り [二式大艇]

 佐々木氏は、1年間の戦地勤務を振り返り、
感無量だったとしています。

 スラバヤに着任し、オーストラリア方面の
偵察に始まり、インド、セイロン島方面、
ラバウル方面に派遣され、最後が
マリアナ沖海戦でした。

 この間に、佐々木氏が最も得た大きな体験は、
二式大艇のポーポイズ対策だったとしています。
そのおかげで、この1年は、ポーポイズの事故は
1回も起こしませんでした。

 2つ目が、荒天での突破法でした。アンボンで
体得した、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」の
航法で、天候を制覇することが出来ました。

 3つ目が、クルーに助けられたことでした。
電探員は、陸岸までの距離測定をしてくれ、
また、見張り員は、天測で、正確な位置を
割り出してくれました。

 整備員や搭乗員は、真っ黒になりながら、
二式大艇の整備に当たってくれました。

 一方で、245人の同期卒業生は、この時までに
106人が戦死しており、さらに、この後終戦までに、
32名が戦死しています。殉職者も合わせると、
3分の2が亡くなったことになりました。

 この戦死率は、佐々木氏のクラスだけでなく、
一つ上から、4クラスしたまで、ほぼ同じだった
としています。

(追記)
 佐々木氏は、後にダバオにいた猿の「モン」に
再会しています。台湾の東港に出張した時、
倉庫につながれているのを発見しました。

 大分肥えていたものの、顔かたちには
見覚えがあり、間違いなかったものの、
呼んでも反応がなく、忘れ去られていた
ようでした。

 のちにB29の爆撃で死んだと聞いたと
しています。


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著者:佐々木 孝輔 他

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二式大艇 851空集結 [二式大艇]

 戦力が激減した851空は、やむなく
シンガポールに集結し、戦力の回復を
図りました。

 佐々木氏は、刀折れ矢尽きた感じがしたと
しています。それでも、内地から機材を搬入し、
同時に搭乗員の養成に力を入れることに
なりました。

 しかし、補充されてくる搭乗員は、予科練を
卒業したばかりの若い人ばかりでした。
これらの人達を一人前に育てるのは、
一苦労でした。純真な若者なので、
期待も大きいですが、若すぎると
感じました。

 同時に、司令部の総入れ替えがありました。
佐々木氏も、851空の飛行隊長ということに
なりました。分隊長は、予備中尉が2人
つきました。

 ここで、佐々木氏は、若年の自分が
飛行隊長で、大学での予備中尉が分隊長、
そして、若い搭乗員を率いるというのは、
貧弱すぎないかと感じました。

 これは、戦死が相次ぎ、人材がいないので、
ない袖は振れないということでした。

 ところが6日後、佐々木氏は、「横須賀航空隊
教官兼分隊長に」という発令がきました。
日辻氏が退任するので、その後釜という
ことでした。

 (日辻氏は、既に紹介しています通り、
この約2ヵ月後に、801空の飛行長に
任命され、木下氏ら一緒に、詫間で活躍
しています)。

(追記)
 シンガポールに集結した二式大艇は、
2~3機だったとしています。

 「あ」号作戦こと、マリアナ沖海戦の敗戦は、
日本軍が敗北することが決定した海戦とも
いえるものであり、佐々木氏は、刀折れ
矢尽きた感じがしたというのは、当然とも
いえます。


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著者:佐々木 孝輔 他


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二式大艇 スコールを突破する [二式大艇]

 敵機をふりきり、スコールに飛び込んだ、
佐々木氏は、お得意の荒天突破法で、
飛行を続けました。

 佐々木氏の荒天突破法は、低空をはって
目的地までまっすぐオートパイロットで飛ぶ
方法で、敵地に侵入するは、この方法以外では、
レーダーつき戦闘機に撃墜されるとしています。

 高度は200mで飛行を続けました。
インド洋では、スコールでも、乱雲の間は
開いているので、先が見えましたが、ここは、
大分様子が違っており、墨を眼前にこぼした
ように真っ暗でした。

 遮風板の間から、雨がしたたり落ちて、
佐々木氏のひざの上に落ちてきました。
佐々木氏は、腕組みし、計器と横の海面を
見つめていました。

 古賀長官機もこのような状況だったのだろうと
想像しました。2番機が、全く方向の違うセブ島に
向かったのも、無理からぬ事と思いました。

 しかし、佐々木氏は、この状況を突破する自信が
あり、必ずここから抜けると強く心に誓っていました。
その思いが通じたのか、3時間も飛ぶと雲から抜け、
眼前に目的地のミンダナオ島が見えてきました。

 そのまま、ダバオ基地に着水し、司令に報告
しました。しかし、一緒に飛び立ったはずの
飛行長の機体は、帰還しませんでした。
戦闘機に襲われたのか、スコールの中で
運命を狂わせたのかとしています。

 パラオの進出した二式大艇の中で、ダバオまで
帰還できたのは佐々木氏の機体のみでした。
佐々木氏の機体に乗っていれば死ぬことはない
といううわさが、本当になってしまったとしています。

 仲間を一挙に失った寂しさは、たとえようが
なかったとしています。


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著者:佐々木 孝輔 他

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二式大艇 「あ」号作戦中止 [二式大艇]

 1944年6月19日の「あ」号作戦当日に、
いきなり2機の二式大艇が帰還しないという
状況になりました。

 佐々木氏は、いきなり戦闘機に襲われて、
電報発信も出来ないまま、鉄砲玉(軍隊用語で、
ウンともスンとも言わずに帰還しない状態)に
なったのではないかとしています。

 翌朝、食事していると、基地通信員が
電報を届けてくれました。そこには、「あ号
作戦中止。機動部隊は、中城湾に帰投し、
訓練に従事せよ。」となっていました。

 中城湾は沖縄なので、佐々木氏は
電報を聞いた瞬間に、戦に敗れたと
確信しました。そして、一度に力が
抜けたような気がしました。

 この日、佐々木氏は、パラオに待機して
いましたが、ダバオに戻るようにという
命令が届きました。

 翌朝、パラオで朝を迎えた佐々木氏は、
飛行隊長が操縦する機体と一緒に、パラオを
発進することにしました。エンジンをふかし
ながら、滑走台から降りると、敵の戦闘機が
見えました。

 佐々木氏は、急ぎ離水して雲の中に飛び
込みました。敵機は追ってきませんでしたが、
激しいスコールの中に飛び込むことに
なりました。

(追記)
 佐々木氏は、「あ」号作戦に参画した参謀の
書かれた出版物を戦後読んだ時、飛行機の
航続力を考えて、戦法の槍先より手前から
攻撃をしかけるアウトレンジ戦法を取っていた
ことを知り、驚いたとしています。

 以前、参謀が、クレーンで吊り上げろという
非常識なことを行っていたことと、古賀司令官が
乗る機体に燃料補給もさせずに飛び立ったことを
重ねあわせ、あきれたようです。


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著者:佐々木 孝輔 他


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二式大艇 「あ」号作戦当日 [二式大艇]

 翌日に、「あ」号作戦を控えた日に、
飛行隊長から索敵計画を説明されました。

 明日には、敵と接触するかも知れない
ということで、詳しい計画が組まれて
いました。飛行隊長は、パラオで、
指揮をとることになりました。

 パラオから、敵の機動部隊がいると思われる
方向に、2本の索敵線が引かれていました。
佐々木氏が、訓練した2人の中尉が、この
索敵を担当します。

 その翌日には、佐々木氏が出撃し、サイパン
方面を索敵後、トラック島に向かうことになって
いました。

 決戦の日、2機の二式大艇が飛び立っていき
ました。心配していたポーポイズを起こすこともなく、
うまく離水していきました。

 この日の索敵の結果によっては、明日出発する
佐々木氏の行動が、変わってくる可能性がありました。
佐々木氏は、行動計画を見直しながら、二式大艇が
帰還するのを待っていました。

 しかし、予定時刻になっても、2機とも帰還して
きませんでした。2時間が過ぎ、夜まで待ちましたが、
何の連絡のなく、帰ってきませんでした。

 二人とも初陣でした。戦後、アメリカの出版物に、
エミリー嬢が、翼の燃料タンクを打ち抜かれたのか、
ガソリンの煙を出して、海面上を飛んでいたという
記述を見つけました。

 2機のうちのどちらかではないかという気がして、
仕方なかったとしています。

(追記)
 佐々木氏は、機動部隊の搭乗員の技量に、
一抹の不安を抱いていました。同時に、
アメリカ軍が、戦闘機の機種変更を
していることにも、不安がありました。

 開戦のとき使用していたF4Fワイルドキャット
では、零戦に勝てず、F6Fヘルキャットに切り替えて
いました。このため、零戦でも押され気味となって
いました。


紹介書籍:翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」 巨人飛行艇隊員たちの知られざる戦い
著者:佐々木 孝輔 他

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二式大艇 機動部隊の勇士 [二式大艇]

 大和からの命令を果たした翌日、再び
支援艦隊に合流した佐々木氏は、大和を
見つけました。

 今日は、近くに長門もいました。そして、
後方には、駆逐艦が20数隻続いて
いました。

 佐々木氏は上空を1周すると、東の彼方に
機動部隊がいるのを発見しました。この
機動部隊には、9隻の空母がいました。

 ミッドウェー海戦でも4隻だったので、
海軍が、必死であることが伝わって
きました。機動部隊同士の大海戦に
望む姿は、勇壮そのものでした。

 (後日、敵は正規空母15隻、補助空母12隻で
進撃していることを知り、全く太刀打ちできないこ
とがわかりました)。

 佐々木氏は、任務の関係上この海域に長く
とどまることはできず、哨戒を断念して、引き
返しました。佐々木氏は、この後パラオに
向かい、翌日の索敵にそなえることに
なりました。

 いったんダバオに帰還し、引き続きパラオに
進出という矢継ぎ早の移動を済ましました。
パラオに向かうと、飛行隊長や、シンガポールで、
佐々木が訓練した2人の中尉が着任しており、
二式大艇3機で明日の出撃に備えることに
なりました。

(追記)
 佐々木は、大和の近くに長門がいるとして
います。これについて、公刊の戦史には、
大和は武蔵と一緒に行動したとなって
いるとしています。

 しかし、佐々木氏は、見えた戦艦は、大和と
比較すると巡洋艦に見えるくらいの大きさであり、
佐々木氏自身、同型艦の陸奥に勤務していた
ことがあるので、長門と武蔵を間違えることは
ないとしています。


紹介書籍:翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」 巨人飛行艇隊員たちの知られざる戦い
著者:佐々木 孝輔 他


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二式大艇 大和からの命令 [二式大艇]

 大和からの補給艦を探してくれという命令を
受けた佐々木氏は、付近を捜してみました。
すると、大和から50海里ほど後方に、1隻の
補給艦を発見しました。

 この補給艦は、艦の鼻が欠けており、
敵の魚雷でも食ったようでした。にも
かかわらず、白波を立てて、艦隊を
追いかけていました。

 一見けなげであり、哀れだと感じました。
これ以外に、補給艦らしき艦は見当たらないので、
大和が探していたのはこれだろうと判断しました。
佐々木氏は、急いで補給艦を助ける必要が
ありました。

 すぐさま、大和のいた方向に、引き返しました。
そして、補給艦の状況を紙にしたためて、
報告球にたくし、大和の頭上を低空で
旋回し、投下しました。

 直後に、大和の艦側の乗員が拾いました
という報告を受けたので、これでOKと判断し、
前路哨戒の任務に戻っていきました。

 その後は何もなく、ダバオに帰還しました。
他の二式大艇も哨戒に出かけているようでした。

 翌日、艦隊はさらに北上し、サイパン方面に
向かっていました。佐々木氏は、艦隊の位置を、
見当をつけて、その位置に向かって飛んでいき
ました。想定どおり、昨日出会った大和を中心と
する支援艦隊がいました。

(追記)
 報告球は、ゴムマリに文章をくくりつけ、赤い
長さ30cmの布を目印にしたものでした。
海軍機には搭載されており、対艦船連絡用に
使用しているものでした。

 上記の補給艦を見つけた時、佐々木氏は、
以前、武蔵乗員から二式大艇は役に立つのかと
問われ、武蔵よりはと返答したことを思い出しました。

 しかし、今は、そのようなのんきなことを言っている
場合ではなかったとしています。


紹介書籍:翔べ!空の巡洋艦「二式大艇」 巨人飛行艇隊員たちの知られざる戦い
著者:佐々木 孝輔 他

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二式大艇 マリアナ沖海戦の851空の活躍 [二式大艇]

 マリアナ沖海戦における851空の参加
状況は、公刊の戦史には記録がありません
でした。佐々木氏は、自分の記録が、捕捉と
なるだろうとしています。

 佐々木氏が、出撃命令を待っていたダバオ
には、二式大艇が5~6機ほどありました。

 この時、佐々木氏が知りえた情報は、味方の
機動部隊が、タウイタウイに居たことと、敵軍が
ニューギニア沿いに接近していることくらい
でした。

 そこに、サイパンで、アメリカ軍が掃海を
しているとう情報が飛び込んできました。
こんなにも突然に上陸してくるのかと意外に
感じ、正直びっくりしたとしています。

 ついで、味方の機動部隊が出撃するので、
前路哨戒をせよという命令を受けました。
機動部隊と支援部隊が、各地から出撃して
くるので、第一の会合地点付近に出撃する
ということでした。

 出撃したのは、6月16か17日だったと
しています。佐々木氏は、一番機として、
南方方面から針路を北に向けて進んで
いきました。

 正午頃、眼下に大和が進んでいるのを発見
しました。早速前方に出ようとしたところで、
大和から発光信号がありました。

 偵察員が、発光信号を翻訳したメモを持って
きました。そこには、「補給艦の位置を知らせよ」と
なっていました。

 佐々木氏は、了解の意味で、大きなバンクを
すると、大和が進んでいたと思われる方向(この時、
大和は微速だったため、波がほとんど立っておらず、
どちらから来たのか、良く分からない状態でした)に
向かいました。

(追記)
 前路哨戒任務とは、前方の敵潜水艦や、海上の
反撃勢力の発見、または、制圧をするものです。
いわゆるつゆ払いであり、二式大艇の通常任務と
いえるものです。

 上記の大和からの命令は、主任務とは違い
ますが、二式大艇ならではの任務といえます。


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