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駆逐艦野分 喪失認定 [駆逐艦野分]

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 野分は、行方不明となったものの、生存の可能性を
考慮して、すぐには沈没の認定は行われませんでした。

 レイテ沖海戦後、フィリピンにマッカーサーが上陸し、
日本がB29の爆撃で焦土と化していき、大和が水上
特攻隊の沖縄突入作戦で、栄光の連合艦隊水上
部隊が壊滅した頃の昭和20年4月26日に、野分の
喪失が認められました。

 総員273名全員が、戦死と認定されました。遺族には、
戦死公報が伝達されました。

 昭和20年5月29日、海軍総隊が創設され、小沢
治三郎中将が、軍令部次長から就任しました。海軍の
終戦処理を混乱なく進めるために、海軍の残りの全部隊の
最高指揮官にしたものです。

 多くの先輩を差し置いての抜擢であり、日本では
珍しいといえます。しかし、戦争では、能力が高い人を
抜擢するという柔軟な人事が欠かせないものであり、
今更遅いとも言えます。

 アメリカでは、これは当然行われており、ニミッツ長官は、
少将から大将に抜擢されています。その分、失敗に
対しても厳しく罰せられ、一度の失敗で、社会的に
抹殺されたような人もいます。

(追記)
 佐藤氏は、野分乗員の遺族に出された戦死公報を、
戦後確認しています。これを見ると、戦死した日である
1944年10月25日は正確に記載されており、場所は
フィリピン東方海面という漠然とした書き方ながら、
正確な記述がされていました。

 しかし、乗り込んでいた艦の名称である野分は、
一文字も出てきておらず、機密保持のため、艦名は
知っていても一切漏らすなという付記がされていました。

 これが、アメリカ向けの機密保持ではなく、一般国民
向けのものであることは間違いなく、B29で本土が
爆撃されているような時期になってまで、隠し
通そうとしているのは、呆れしか出てきません。


紹介書籍:駆逐艦「野分」物語


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