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硫黄島決戦 新射法での初戦果 [硫黄島決戦]

 敵機のコックピットのアメリカ兵の顔が見えた
ので、橋本氏は、機銃手の肩をたたきながら、
撃つように命じました。橋本氏は、撃つ時、
怒鳴ったつもりでしたが、声は出ませんでした。

 一番機銃と敵機の一騎打ちとなりました。この機は、
機銃発射と同時に左に旋回してしまったため、命中
させることはできませんでした。

 敵二番機が同じコースで襲撃してきました。しかし、
二番機は、気遅れからか、ふらりと首を振りました。
この迷いを見逃さず、機銃を撃つと、見事に命中し、
他の機銃の弾も命中したことで、海の方へ落ちて
いきました。

 橋本氏は、命中したぞと叫んでいました。機銃手は、
調子づき、次に来た敵機にも銃撃を浴びせ、撃墜する
ことに成功しました。

 硫黄島における、新射法での初戦果でした。橋本氏らは、
気分も良くなり、さらに敵を求めましたが、指揮官から、
「総員退避」の命令が下りました。いい気分に、冷水を
ぶっかけられたようなかたちでした。

 見ると、別の陣地も、総員退避の命令を出していました。
どうやら、敵軍は、軍艦による艦砲射撃をして、その後上陸
してくるかもしれないと、司令部は想定しているようでした。

 そして、司令部の予想通り、艦砲射撃が開始されました。

(追記)
 この時来ていたアメリカ軍の艦隊は、中型空母4隻を中心と
する機動部隊ですが、アメリカ軍は、機動部隊に、戦艦2隻、
重巡洋艦2隻、駆逐艦10隻を編成しています。

 空母も、60機ほど乗せることができる空母ですので、
航空機は200機を超えることになります。硫黄島の
守備隊は、航空機はほぼなく、反撃は不可能でした。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 新型の爆弾 [硫黄島決戦]

 橋本氏は、先程の襲撃を反省し、打開策を考えて
いました。敵機は、3機で編隊を組んで、飛来して
きますが、橋本氏らの陣地に飛び込んでくるのは、
常に1機づつでした。

 襲撃してくる、高度と距離は大体同じでしたので、
橋本氏は、機銃手に、「今度は銃を動かさず、突っ
込んでくる方角だけに固定し、照準器の真ん中に
入る時だけ引き金を引いてみよう」と話しました。

 機銃手も同じことを考えていたようで、意見が一致
しました。橋本氏は、残りの二人の兵士に、撃ちがらを、
今のうちにかたずけるように、射手の貫録を見せて
命じました。

 しばらくして、近くにある千鳥砲台の方から射撃音が
聞こえてきました。指揮官の、「撃ち方始め」の声が
聞こえてきましたが、今回は、橋本氏は撃つのを
我慢していました。

 今度は、グラマンとは違うようでした。敵機からの
火柱と黒煙により、すさまじい地鳴りがしました。

 橋本氏は、頭を出して確認してみると、爆煙が平たく
広がっていました。人員や機銃などの地上にあるものを
広範囲に破壊する特殊弾のようで、橋本氏は今まで
見たことがなく、新型の爆弾と判断しました。

 橋本氏は、機銃手に、「今度のは足が遅いから
当たる」と怒鳴りました。機銃手から、返答はありま
せんでしたが、敵機のコックピットのアメリカ兵の
顔が見えたので、返事をもらうまでもないと考え
ました。

(追記)
 橋本氏は、この頃になって、飛行機隊が襲撃前に
飛び立ったのは、稼働できる飛行機を逃がすためだと
気付きました。

 これ自体は、問題ないとしても、飛行場には、稼働機を
整備するために、部品を抜き取られ、外枠だけになった
飛行機が点在していました。

 敵機は、がらくたとは気付かなかったので、攻撃を
仕掛けてきました。隣接している橋本氏らも、巻き
ぞえを食うことになるので、いい迷惑といえました。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 撃ち方始め [硫黄島決戦]

 摺鉢山の方で、戦闘が開始され、橋本氏らが
いる元山砲台の方にも、北側から回り込んで
攻撃機が飛び込んできました。

 指揮官から、「撃ち方始め」の号令が下り、
橋本氏も、敵機が射撃を開始したのに合わせ、
「撃ち方始め」の号令を下しました。

 この時、なぜか機銃台に大きなハエが群がって
きました。射手は、両手がふさがっているので、
手で払うこともできず、頭を振りましたが、
その程度では、追い払えませんでした。

 橋本氏は、とっさに、機銃を支え、片手は使える
ようにしてあげました。敵機は、橋本氏らのいる
機銃にめがけて、まっすぐに突っ込んできました。
頭をこちらに向けた敵機は、熊んバチの目玉の
ようだとしています。

 射手が射撃を開始し、硝煙で辺りが包まれました。
敵機も射撃しながら、右に旋回して海上の方に
出ていきました。双方とも、勇ましく交わって
いるものの、命中弾はありませんでした。

 敵機が去り一息つくと、ハエのことが気になりました。
同時に、橋本氏が、駆逐艦雷に乗って参加した第三次
ソロモン沖海戦の時、戦死した戦友にウジがわいていた
ことを思い出したことで、ハエに憎悪をたたきつけていま
した。

(追記)
 橋本氏が、ハエに憎悪を抱いたのは、日清戦争に
参加した親類が、「戦になると、死人が出るので、
ハエがどこからともなく現れる」という話を聞いて
いたためでした。

 これが、「戦場とハエ」を連想し、死の恐怖に
つながったためでした。一方で、駆逐艦雷にいた時は、
逃げることはできませんでしたが、硫黄島では、壕に
逃げ込むことができるので、大地に守られているという
安心感があるとしています。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 初の本格的な対空戦闘 [硫黄島決戦]

 1944年9月1日、いつものように空襲警報が、
鳴り響きました。しかし対応は普段と違って
いました。

 普段であれば、真っ先に壕に逃げ込む航空隊が、
戦闘機に乗り込み、エンジンをふかし始めました。
橋本氏は、「エンジンを吹かさないとダメになる
からやっているのか」と、首をひねりました。

 そうしているうちに、航空機が飛び立っていき
ました。この時は、「飛行機屋さん、ねがいますよ」
と怒鳴っていました。

 しばらくすると敵機が現れ、飛行場を中心に、
爆弾を投下し始めました。この日は、普段の2倍
もの時間、爆弾を投下していきました。

 飛行場に隣接している元山砲台もあおりを受けた
ものの、被害はありませんでした。

 敵機が去ってから、小一時間が過ぎたころ、艦上機が
硫黄島に攻撃をかけてきました。艦上機は、大型爆撃機
と違い、高射砲で届く範囲を飛んで攻撃してくるので、
本格的な対空戦闘になると予想されました。

 橋本氏は、自分の機銃にいる、本格的な戦闘を
前に震えていた新人に対し、弾丸を切らさない
ようにするため、ここの分がなくなったら近くの
どこでもいいから持ってくるように命じました。

 敵機は、摺鉢山を目印に突入してきており、
摺鉢山地区の対空砲が一斉に射撃を開始して
いました。

(追記)
 橋本氏が操作している25mm機銃の標準器は、
「環型照準器」と呼ばれるタイプで、方向、敵の速度、
距離を、円と線で組み合わせて算出する簡易的な
ものがついていました。

 射程距離は3000mですが、この時襲ってきた
グラマンF6Fの機銃も21mm機銃なので、
25mm機銃とほぼ性能は同じでした。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 陸軍の病状 [硫黄島決戦]

 敵襲と壕堀りを繰り返す日々が続きました。
下痢により病院と元山砲台の間を行き来して
いる兵士の一人は、病院のついでに情報を
仕入れていました。

 この情報の中に、硫黄島の勤務は半年交代で、
半年後には除隊というものがありました。この
情報は、願望も含まれていたため、部隊内に
頑固に言い伝えられていました。

 とはいえ、現実には、硫黄島に2年以上いる兵士が
5千人以上おり、橋本氏らの新参者が、半年交代と
いうのは、信じられる話ではありませんでした。

 そのような中、飲料水の不足と、栄養失調、マラリア、
赤痢などのため、陸軍の中で、死者と重症患者が増加
しているという話が飛び込んできました。

 重症患者の数は3千人にも上るということなので、
重大な問題でした。陸軍の部隊は、硫黄島に1万5千人
ほどおり、実際作業に耐えられるものは、5千人ほどで
あるということも流れてきました。硫黄島守備隊の
健康悪化を如実に物がったているといえます。

 橋本氏らも、顔がどす黒くなり、頬骨が違和感を持ち、
手足は木の枝のように、なってきていました。橋本氏らは、
上陸して2ヶ月くらいしかたっていないにもかかわらず
このありさまなので、もっと長期にわたって滞在して
いた兵士はさらに程かったといえます。

(追記)
 陸軍で病気が増えているのは、連日の空襲と壕堀りによる
疲労が主因ですが、昼と夜の温度差がかなりあり、横着して
対処しないと、風邪を引き、体力の低下を招くということも
起きていました。

 陸軍の重症患者の3割以上は、急性腸炎で、他は、脚気と
感冒という水と栄養の不足で発生する病気がメインでした。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 暗号班顔負けの手帳 [硫黄島決戦]

 トンネル壕は、ダイナマイトによりかなりの
深さに達していました。しかし、反対側に突き
抜けるまでには至っていませんでした。一方で、
疲れは日に日に蓄積されていきました。

 この頃、敵軍の空襲は、朝の8時と午後1時の
2回となり、そのたびに、「一発食うか⇒今日も
生き延びた」という自分の運命をかける毎日により、
緊張も極限に達していました。

 このような、毎日だったので、空襲が来ない夜に
一息ついていました。そしてこのような時にやるのは
博打でした。

 あり合わせの材料で、将棋や花札、さいころを
作成し、興じていました。当然ながら、海軍では、
賭博行為は禁止ですか、このような孤島で、軍規を
持ち出してまで禁止しようという気にはなりません
でした。

 橋本氏は、身体を休めればいいものをと考えて
いましたが、暇さえあれば、おっぱじめていました。
橋本氏の直属の部下二人は、将棋を興じながら、
記録を手帳に記録していました。

 これらの遊戯の勝敗は、内地に帰ったら清算する
ということで、詳細に記録をとっており、暗号班
顔負けの手帳ができていました。

 勝ち続けている一人の兵は、「除隊したら、これを
元手に畑と船を買う」という夢を語っていました。

(追記)
 三番機銃の機銃長は、夜になると、ワイ談に花を
咲かせていました。この方は、徴兵で海軍に入隊し、
そのまま7年も勤めているという方でした。この間
あちこちの戦場を渡り歩いていました。

 このような兵士は、自分の希望や願いを持つことは、
自分の中にある大切な何かを苦しめることになると
悟っているため、ワイ談で、それらを封じて
いました。

 先の見通しのない戦争は、人間らしさを失わせることに
なります。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 静まり返った夜 [硫黄島決戦]

 兵曹長は、水泥棒と馬鹿騒ぎをこの時とばかりに
制裁しようと意気込んでいました。兵曹長は、九州の
出身で、橋本氏ら関東出身者を苦々しく思っていた
ふしがありました。

 この当時は、郷土意識が強く、疎外感が強く働いて
いました。これを理由の制裁も、日常的に行われて
いました。

 制裁が始まろうとした時、橋本氏の指揮官である
少尉が現れました。少尉は、「今日のところは私が
分隊長に報告して処置します。」と言いました。

 兵曹長も、少尉が相手ではどうにもならず、
「たるんでいるのでしっかり頼みます。」と
舌打ちしながら、捨てぜりふとも言える言葉を
吐いて立ち去りました。

 少尉は、「今夜はこれで止め」と言っただけで立ち
去りました(一番風呂を楽しんでいる以上、少尉も
同罪であり文句は言えないといえます)。

 一般兵の享楽は、常に簡単に暗転するものだという
ことを、改めて感じた一幕でした。

 普段なら、いびきや歯ぎしりでにぎやかな寝どこも、
この日は、物音ひとつせず、静まり返っていました。
とはいえ、すぐに寝つけたわけではありませんでした。

 突然のスコールから、何十日ぶりのお風呂と、歌を
歌うという人間らしさを味わっていたものを、途中で
中断されたことで、複雑な思いを、持て余して
いました。

 一時の楽しみも、くすぶり消えて、不気味な静寂に
包まれていました。

(追記)
 橋本氏の上官である少尉は、学徒動員で、ヒヨコ少尉
でしたが、「同列同級といえども、先任、後任の別があり、
上官の命令はチンの命令と心得よ」という軍人勅諭の
重みは、兵曹長には絶対でした。

 特に、九州出身者には、この軍人勅諭を、拳拳服膺
するものが多い傾向があり、兵曹長も、捨てぜりふを
言うことしかできなかったようです。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 特製カクテルの果て [硫黄島決戦]

 無礼講で騒いでいた橋本氏でしたが、忘れていた
ことがありました。それは、酒保開けという命令は、
司令部が決めたものではなく、橋本氏らが勝手に
やっていることであるということでした。

 橋本氏は、巡検時間までに、切り上げるつもりで
始めていました。当初、涼しい屋外でやろうという
案を却下して倉庫にしたのもこの事情がありました。

 この騒ぎで、初対面で甲板士官を名乗った兵曹長が
怒鳴りこんできました。兵曹長は、仁王か赤鬼の
ような恐ろしくすさまじい形相になっていました。

 橋本氏は、長い海軍生活からの経験で、これは
相当な制裁をうけるなと覚悟を決めました。一方、
補充兵は全く事態を把握していないようで、
ぽかんと口を開けていました。

 兵曹長は、「酒宴や放歌はやむをえないと見逃せる。
しかし、水を盗んで風呂まで入るのは許せることでは
ない。」と言い放ちました。兵曹長は、橋本氏をにらみ
つつ、精神棒で床をどすんと突きました。

 橋本氏は、スコールの時、トイを外して、水を集めて
いますが、トイからの水は、橋本氏の部隊だけのもの
ではありませんでした。

 トイを戻したら、5分くらいでスコールが止んでしまった
ため、結果として、一人じめしたようになってしまいました。

(追記)
 この騒ぎを見つかったのは、偶然ではありません
でした。

 スコールによりどのくらい水がたまったかを
確認したことで、橋本氏より前に着任していた
兵曹長も、着任した時同じことをしていたので、
橋本氏の悪行が分かったということです。

 この経過を見る限り、橋本氏を制裁する資格が
あるのか問いたいところですが、軍隊はこのような
理不尽もまかり通っていたということです。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 特製カクテル [硫黄島決戦]

 橋本氏らは、日没までの間、酒保を開かれるのを、
空腹を我慢しながら待っていました。その様子は、
お祭りを待つ子供のように楽しんでいました。

 待っている間、指揮官の一番風呂の後、25人の
兵士が順番に入っていきました。風呂が終わると、
橋本氏は、駆逐艦生活で養った真水を大切に
するという感覚を思い出しました。

 またいずれスコールが来るだろうという安易な考えに
流されないように、風呂に使った水を流すことは厳禁とし、
これらも利用することとしました。また、生水は飲まない
ようにすることといった注意を与えていきました。

 酒保は、倉庫内で行うことにしました。この日の夕食は、
玄米、麦飯、たくわんといういつもと変わらないメニューの
他に、干魚やタラの煮つけまでついた豪華なものでした。

 お酒は、三番機銃長がバーテンダーとなって作った
特製カクテルで、ビールと酒とゲンノショウコを混ぜた
ものでした。そして、今夜は無礼講だということになり、
始まりました。

 この時、ビールは一人コップの半分にも満たない量にも
関わらず、出撃から今までの緊張からか、橋本氏も目を
むくほどの騒ぎになっていました。

(追記)
 この頃は、マリアナ諸島に、B29の基地があり、本土へ
向かう頭上を通っていました。防空壕に生命を預ける
しかない硫黄島の守備隊にとって、戦闘が始まれば、
グアムやサイパンと同様に玉砕するということが、
漠然と感じられていました。

 このような騒ぎとなったのは、一時でもそのような現実を
忘れようとしている衝動からでした。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

硫黄島決戦 酒保開け [硫黄島決戦]

 思わぬスコールの恩恵により、兵士たちにも余裕の
表情が出てきました。そうなるといろいろと我慢して
いたことをやってみたいと思うものでした。

 湯をわかして温泉に入り、酒保を開いて、酒でも
飲もうという話になってきました。

 酒保といっても手持ちの物でやるしかないものの、
駆逐艦雷に勤務していた時の、「酒保開け」の命令は、
軍艦生活している者にとって、シャバの空気を味わえる
数少ないひとときでした。

 硫黄島では、酒保開けという気分を味わう気分に
ならず、重労働に押しつぶされていました。橋本氏も、
酒保を開きたいという気になり、指揮官に許可をもらって
開くことにしました。

 硫黄島は、久しぶりのスコールの恵みで、本日休業
という雰囲気になっており、橋本氏らと同じような
行動を取っていました。その中でも、橋本氏らの
部隊は、お風呂の恩恵にもあずかることができました。

 酒保の準備となると、表情も一変し、あちこちから
食料をギンバイをしながら、活動を続けていました。

 橋本氏は、自分の分の酒をダイナマイトに変えて
しまっていたため、手持ちに酒がなく、指揮官に
最敬礼してもらってくるということをしていました。

 代わりに、指揮官には、ドラム缶風呂の一番乗風呂を
堪能してもらっています。

(追記)
 硫黄島は、防衛拠点とされる前は、あちこちに硫黄泉が
あがっており、それらを水でうすめて湯に入っていました。
他にも、砂風呂もあり、島民の憩いの場となっていました。
極楽島と呼ばれていたのは伊達ではありませんでした。

 しかし、橋本氏らがいた時は、家を破壊した上で、
貯水槽の水を取りあいしたことにより枯れ、雨が
降らない日が続いたため、地獄の島となって
いました。


紹介書籍:硫黄島決戦―硫黄島「防空砲台」奮戦始末

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