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巡洋艦大淀 戦時体制 [巡洋艦大淀]

 大東亜戦争が始まると、毎日華々しい 戦果が発表され、ラジオはひっきりなしに 軍歌を流していました。  昔の軍歌が、勇ましく放送されると、 母までが娘の頃歌ったそれを、小声で 唱和しながら、夕餉の準備をして いました。  国民学校でも、乏しい小遣いを集めて、 グループごとに献金が行われ、小淵氏も、 同級生4人で山に薪を拾いに行き、母に 買ってもらって、献金しました。  平穏な山里も国家の一大事とあって、 戦時体制がしかれました。防空演習や、 燈火管制、警防団などの制度ができて、 世間は次第に慌ただしさを増して いきました。  徴兵や応召で出征するものが次第に 多くなり、旗や幟を押し立てて、 出征兵士は送り出されて いきました。  日本軍は、破竹の勢いで進撃を続け、 大戦果が次々と、発表されていました。 「本当に気持ちのよいほど、勝っている ねえ。胸がす~としてくるよ。」と母は 大喜びしていまいた。  勝利につぐ勝利で、1941年はたちまち 暮れましたが、首を長くして待っている 海軍志願兵合格通知は、とうとう年内には きませんでした。  1942年も戦勝に明け、戦線は次第に 拡大されていきました。「向かうところ敵なし。」 の感でした。  1月も連戦連勝の内に終わろうとしていた頃、 母が突然病気で倒れました。海軍合格通知は、 ほぼ同じ時期に届きました。このことは、母には 当分知らせないでおきました。  医者を呼んで、母を診察してもらったところ、 面疔(顔にできる悪性のはれもの)であり、 大したことはないと、塗り薬を置いて、 帰っていきました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 大戦突入 [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、受験講義録に書かれている ことは、充分念頭に入れてありましたが、 何を答えるかについては、何も考えて いませんでした。  こうして試験は終わり、合格通知は 後日発送するということでした。12月に なり、毎朝霜が降りて起きるのが辛くなって きました。  ギリギリまで寝ていて、起きると大急ぎで 洗面をすませ、朝食もそこそこに家を 飛び出していきました。  通学性が集合する場所で、全員がそろうのを 待って、団旗を先頭に立てて列を作り、登校 して行きました。そんな日が続きました。  そして12月8日、起きたラジオがうるさく 鳴っていましたが、いつものように家を 飛び出しました。  朝礼を告げる鐘が鳴り、全員が校庭に 集合して、いつものように伊勢神宮と 宮城の遥拝が行われ、先生方と朝の 挨拶を交わした後、校長先生の訓示が ありました。  この時初めて、日本がアメリカやイギリスに 対し宣戦布告し、ハワイや西南太平洋で、 日本軍が戦争に突入したことを知らされ ました。  このような重大なニュースを、通学途中では 誰も話さなかったし、朝礼まで、話題にも なりませんでした。  家でもラジオがいつもより騒がしく鳴って いましたが、家畜の世話や仕事に出掛ける 用意などで誰も聞いていませんでした。  校長先生の話を、小淵氏は、固唾をのんで 聞いていました。そして、これで、望み通り 海軍に行けると、感激に浸りました。  小淵氏の世代は、満州事変から日支事変と、 軍事主義一色の中に生まれ育ち、教育されて きました。そのため、誰もが軍人となって 戦場に立つことを名誉な行為と、頭から 信じて疑いませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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