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巡洋艦大淀 将来に対する不安 [巡洋艦大淀]

 諸磯警備隊としての役目が終わったと 自問自答した小淵氏は、毎日上層部からの 命令を待っていましたが、いくら待っても 何の命令もありませんでした。  誰かが、「帰ることにしようか。」と 言い出すこともなく、小淵氏らは故郷に 帰る事を決めました。  小淵氏ら、諸磯警備隊5人が、見捨て られたのは明白であり、敗戦とはこうも 悲惨で、愚かしいものなのかと感じて いました。  その日、残っていた食糧と酒でささやかな 宴会を開きました。その席で、中村一曹が、 「何年か後に、月日を決めてここで再開する ことにしたらどんなもんだろう。」と提案して きました。  しかし、誰も応ずることはありません でした。明日のことさえわからない今の 状況で、何年か先の予定など、約束できる わけがないと感じていました。  小淵氏は、海軍に一生捧げるつもりで いましたが、国敗れ、海軍は解体となり、 ここで別れれば、5人が集まる機会は おそらくもうないだろうと思われました。  中村一曹の提案は、素晴らしいものでは あるものの、そのような夢を抱くことすら できず、さらに、5人の出身地はバラバラで、 再開のため一堂に会するのは難しいというのが、 現状でした。  しかも、復員したら何をして生きていけば 良いのか見当もつかないという問題が ありました。妙験先生に占ってもらった ところ、「鉄工場をやれ。」と言われましたが、 どうやって始めればいいのかわかりませんでした。  このような状態だったので、若い5人は、 将来に対する不安を感じていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 諸磯警備隊の表徴は全て消滅 [巡洋艦大淀]

 アメリカ軍は、引き上げる際に、他の 砲台の道順を教えろと言って、地図を 広げてきました。  その地図は、5万分の1くらいのもので、 立派な印刷になっており、基地や砲台の 位置、数量、口径まで詳細に図示されて いました。  平野兵曹も同じものを見せられたと察しが つきました。諸磯砲台も、他の砲台も、外部 からは絶対に分かる作りではないのに、 アメリカ軍は、日本の防御施設を裸にした ように、全て知っていました。  翌日、アメリカ軍の一隊がやってきて、 砲弾や装薬などを運び去っていきました。 そのことを、横須賀まで報告に行くと、 連絡場所は葉山に移ったということでした。  そこに行ってみると、以後の連絡は、 佐島砲台ととれということでした。 その後は、佐島や黒崎鼻に行っても、 小淵氏と同じような保管員がいるだけで、 上層部は雲散霧消してしまいました。  そうなると、終戦直後は故郷に帰る気は なかったものが、秋風と共にそぞろ故郷の ことが思い出されてきました。ラジオでは、 平和のよみがえった各地の様子などが 放送され、外地の将兵も順調に復員 しているらしいことも報道されました。  10月中旬、アメリカ軍の一隊が来て、 2門の砲に爆薬を仕掛けて破壊しました。 台座から崩れ落ちた砲身は、土砂まみれに なっているが、磨き上げられた光沢は、 失せていませんでした。  小淵氏は、この残骸も近い内に引き取られる だろうと考え、そうなったら、諸磯警備隊の 表徴は全て消滅することになりますが、 何の感慨も湧いてきませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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