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赤城・加賀 艦上機による世界最初の記録 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 上海事変当時、加賀の搭載機は、3式艦上 戦闘機16機、13式艦上攻撃機28機の 合計44機でした。  加賀は、2月4日、艦上攻撃機10機で 呉淞要塞の攻撃に向かいました。この時は、 各機30kg爆弾を搭載しており、目標に 低空から水平爆撃を行いました。これが、 世界最初の艦上機による敵地攻撃と なりました。  2月5日、加賀は、戦闘機3機と、攻撃機2機を 出撃させ、上海郊外にある無線局を爆撃しました。 この時、敵の対空砲火により、攻撃機が1機撃墜 されました。これが、敵の対空砲火で艦載機が 撃ち落とされた、世界最初の記録となります。  この戦闘時、鳳翔の艦上戦闘機と、中国 空軍の複葉偵察機9機が、空中戦を展開して います。  双方とも被害はありませんでしたが、これが、 世界最初の艦載機による空中戦闘記録と なります。  2月8日、海軍陸戦隊と、陸軍部隊は、 呉淞への上陸作戦を展開し、加賀と鳳翔は、 合計15機の攻撃機で、爆撃を行っています。  2月23日、加賀と鳳翔から艦上攻撃機 18機と、艦上戦闘機12機が出撃し、上海 周辺の中国軍の空軍基地爆撃を、実施 しました。  続く2月26日、加賀は、攻撃機を出撃させ、 杭州周辺の飛行場を爆撃しました。この時、 攻撃機の1機が、期間中にエンジントラブルに 見舞われ、海上に不時着し、駆逐艦に救出 されています。  2月27日、加賀の攻撃機が、獅子林砲台を 爆撃しています。これが、上海事変における 空母部隊の最後の作戦となりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 日中戦争 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 1937年、日中戦争が勃発すると、 加賀と鳳翔は、上海沖を中心とする 東シナ海に派遣されました。  上陸部隊の輸送船団の護衛や、上陸 部隊の上陸地点を中心とする上空警戒や、 揚子江周辺の航空機による地上攻撃を 展開しました。  この時は、上海沖を遊弋し、艦上攻撃機を 適宜出撃させ、敵地上施設の爆撃や、揚子江 下流域の攻撃、さらに小規模ながらさらに 上流の南京爆撃など行いました。  10月から、作戦海域が、中支沿岸海域から 南支沿岸海域方面に移動し、地上作戦の 上空支援を展開しました。  この後、戦線が内陸に移動したため、翌年の 11月に、空母の航空支援を終了し、日本に 帰還しています。  以後は、艦載機部隊は、機種の交換を含め、 練度向上に努めることになりました。ここまでが、 上海事変から日中戦争までの概要となります。 ここから両戦闘で空母がどのような作戦展開 したのか紹介します。  上海事変ですが、発端は1932年1月に、 日本の僧侶が殺害されたことでした。日本 海軍は、上海駐留の海軍陸戦隊を援護する ため、軽巡洋艦で編成された第三戦隊と 第一水雷戦隊を派遣することにしました。  この部隊に、第一航空部隊の鳳翔と加賀が 付き添って、第3艦隊を編成し、上海に出動 しています。  上海に到着した第一航空部隊1月31日に、 加賀から艦上攻撃機17機を出撃させました。 この時は、爆弾投下はしていません。  この行動は、世界最初の固定式飛行甲板から、 艦上機が敵地に向けて出撃した事例と なりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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