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赤城・加賀 上海事変 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 ここから、赤城と加賀の戦歴を紹介します。 1927年に赤城が完成した時、5年前に 完成していた鳳翔はありましたが、運用に ついては、明確な方針が定まっていません でした。  後の機動部隊という発想もなく、この当時は、 艦隊に空母を1隻か2隻随伴させ、敵艦隊に 対する先制攻撃方法の一つの手段として、 運用するのが効果的と考えられていました。 これは、イギリスの空母戦術の柱でした。  日本海軍の課題は、航空機部隊の育成 でした。赤城が完成すると、連合艦隊付属 軍艦として飛行訓練に務め、搭載すべき 飛行機部隊の訓練を開始する事になりました。 時には、空母を加えた艦隊同士の海軍演習にも 参加しました。  1929年、鳳翔、赤城、加賀の3隻で、 第一航空戦隊を編成し、実戦に見立てた 厳しい各種訓練が展開されることに なりました。そして、1932年 上海事変が勃発しました。  鳳翔と加賀は、航空機を使った上陸部隊の 支援任務のため、搭載機による地上攻撃と、 敵地上空へ航空機を派遣して、敵側に対する 威圧行動を行っています。  この戦闘は、局地的なもので、短期間で 終わりましたが、日本海軍最初の固定甲板型 航空母艦を使った作戦参加でした。  この時、赤城は、通信施設や艦内通風設備の 改善工事のため、横須賀海軍工廠に入渠中で、 戦闘には参加していませんでした。この後、 加賀、赤城の順に、一段飛行甲板への 大規模工事が行われました。  そして、次の作戦は、1937年に起きた 日中戦争でした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 97式艦上攻撃機 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日本最初の単葉引込脚式の全金属製艦上 攻撃機が、中島飛行機が開発した97式艦上 攻撃機です。  優れた操縦性能と、稼働率から、日中戦争の 後半から日本の艦上攻撃機の主力となっています。 主翼は、左右中間で折り畳める構造になって いました。  1943年まで生産され、1250機以上 製造されました。次期艦上攻撃機として、 中島航空機が制作した天山が現れるまで、 機動部隊主力艦上攻撃機の地位を守りました。  零戦と同様、防弾装備が不十分で、主翼 内部一杯に装備された燃料タンクには、防弾 装備はなく、敵戦闘機の攻撃や対空砲火が 1発でも命中すれば、火災になる脆弱な 構造でした。  全幅15.52m、全長10.3m、 重量2279kg、最高速度378km、 航続距離1993km、武装7.7mm 機銃1丁を後方旋回で装備しています。 800kg爆弾か魚雷を搭載する ことができました。  爆撃機は、愛知航空機が製造した97式 艦上爆撃機があります。日本最初の全金属製 単葉艦上爆撃機ですが、脚は固定脚でした。 主翼は、参考にしたドイツのハインケル社の 機体の影響で、楕円形でした。  比較的大型でしたが、操縦性、急降下性能は 優れた性能を示しました。1937年から 1944年まで生産され、1492機 製造されました。  日中戦争後期から、1943年まで、機動部隊 唯一の艦上爆撃機として戦果を上げています。  全幅14.4m、全長10.2m、 重量2618kg、最高速度428km、 航続距離1353km、武装7.7mm 機銃2丁を前方に、同じものを1丁を 後方旋回で装備しています。 370kg爆弾を搭載することが できました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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