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巡洋艦摩耶 B29 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 井上氏は、外出が許され、自宅に戻りましたが、
くつろぐ暇もなく、摩耶の後始末で、横須賀に
行ったり、東京に赴いたりする毎日が続きました。
そして、仕事の合間を縫って、横須賀の
海軍病院で負傷の治療をしていました。

 ある日、突然空襲警報が、横須賀市内に
流れました。井上氏は、その日はちょうど、
海軍病院で治療を受ける日で、横須賀市内に
居合わせていました。早速、病院の空襲壕に
飛び込みました。

 防空壕の中で状況をうかがっていると、
どうも敵機は1機だけで爆撃を加える様子も
ありませんでした。そのうち、空襲警報が
とかれて、地上に出た井上氏は、上空を
ながめました。

 そこには、B29が15000mの高度で、
東京の方に向かっていくのが見えました。
砲台の高角砲は、時折発砲しているものの、
距離が遠く、弾丸が届きそうもありません
でした。忌々しいと思いましたが、
どうしようもありませんでした。

 このB29は、サイパン基地から、日本本土の
爆撃を強行するため、最初に偵察にきたもので
あったことが分かりました。

 ここから、終戦に至る10ヶ月の間、多くの
国民と住居や資源が、痛めつけられたか
分かりませんでした。今思っても、恨み
骨髄に徹する爆撃機ではあるとしています。


 12月に入り、負傷の治りも良くなり、
いつまでも遊んでいられないと考えている
うちに、第22戦隊司令部付に発令
されました。この戦隊は、遠洋漁業船を
160隻ほど保有している哨戒部隊
でした。

 母艦に引き連れられて、交代で小笠原南方
海面に出動し、敵艦隊や、内地空襲部隊の
来攻をいち早く大本営に伝える任務を
持っていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 海兵団宿舎に隔離 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 一夜明ければ、艦隊は、シブヤン海を
突破し、レイテ島目指してサンベルナルジノ
海峡から、太平洋に出ました。

 この日も、早朝から空襲を予期していた
わが艦隊でしたが、どうしたことか、
敵機は全くと言っていいほど、
かかってきませんでした。

 この時期、小沢中将の指揮する北方囮部隊に、
敵の機動部隊がまんまと釣り上げられた時期
でしたが、そんなことを知るよしもなく、
栗田中将の残存部隊は、ひたすら西進
していました。

 おりしも、味方艦隊は、水平線の彼方に
空母を中心とした敵艦隊を発見しました。
砲戦に関する限り絶対の自信を持っていた
日本艦隊は、大和、長門以下、主力艦隊の
大口径主砲をもって、35kmの遠距離から
砲撃しました。

 これにより、敵艦隊を撃沈、または撃破し、
この時とばかりは、負傷の傷みで、駆逐艦の
ベッドに寝ていた井上氏も、快哉を叫ばずに
いられませんでした。


 その後、レイテ沖海戦は終わり、左目と
左顔面を負傷した井上氏は、他の摩耶乗員と
一緒に、巡洋艦利根に乗って、舞鶴に引き揚げ、
神奈川県辻堂の海兵団宿舎に隔離されました。

 身分は横須賀鎮守府付きでした。隔離と
言うと異様な感じを受けますが、フィリピン
作戦の実態や我が艦船の損害などが、
外部に漏れることを防止するためでした。

 井上氏の自宅は、目と鼻の先の逗子に
ありましたが、当然上陸外出は許されず、
悶々の日々をすごしていましたが、ある日、
始めて外出が許可されました。

 しかし、久しぶりに家でくつろぐ間も
ありませんでした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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