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巡洋艦摩耶 一矢報いたような一大痛恨事 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 敵の大編隊が、相模湾ぞいの探照灯に
補足されて、その大きな姿を、夜空に
くっきりと映し出しました。間髪を
入れず、わが高角砲が、砲撃を
開始しました。

 その間隙を縫って、夜間戦闘機が近接し、
弾道が閃光で視認できるように作られた
曳痕銃弾を撃ち込みました。

 一連の攻撃が終わると、B29の燃料
タンクの一部と思われる箇所に火がついて、
燃え上がりました。

 火は急速に燃え広がって、B29も火だるまと
なって墜落していきました。この一連の出来事を
見ていた井上氏は、思わず万歳を叫ばずには、
いられませんでした。

 洋上哨戒部隊から、陸上見張所、探照灯、
高角砲台、戦闘機とリレーされていく、
日本軍の対空陣のバトンタッチは、
首都防衛の精強さと、訓練の精到さを
如実に証明してあまりあるものが
ありました。

 1945年初頭は、日本軍の戦力は
ガタ落ちしていましたが、それでも東京の
周辺には、陸海軍の最強部隊が、配備
されていると噂された通り、さすがと
うなずかせるものがありました。

 その夜、敵の攻撃機300機に対し、
撃墜数は、井上氏が確認したものは
26機を数えました。B29の乗員数は、
8名であるので、208名の搭乗員が
戦死したことになります。

 敵ながら大きな犠牲であり、逆に、
日本としては、一矢報いたような
一大痛恨事でした。それでも、
1945年3月に硫黄島守備隊が
全滅しました。

 4月には、沖縄特攻の戦艦大和が撃沈し、
6月21日に、沖縄守備隊が全滅と、前線の
悲報が相次ぐ頃には、内地の主要都市は、
ほとんど灰燼に帰していました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 夜間戦闘機紫電 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 1945年5月のある夜、井上氏が、
勤務している第22戦隊の司令部が
置かれている横浜中央突堤近くで、
日本軍が、アメリカの空襲部隊に
対して攻撃している場面を目撃
しました。

 その日の夜は、静かで寒く晴天でした。
午後8時頃、いつものように哨戒隊から
B29の大編隊が、北方に向かって進行中
であるという緊急信が届きました。その数は
300機でした。

 夜間は空中戦闘ができないので、護衛の
P51戦闘機はついていませんでした。間もなく
ラジオやサイレンで、京浜工業地帯に空襲
警報が発令され、第22戦隊司令部にも、
戦闘配置につけの発令がなされました。

 満を持して敵機の来襲に備え、町のランプは、
ことごとく消され、漆黒の暗夜と化していました。
井上氏は、今夜こそ空襲の状況を見届けてやろうと、
屋上の望楼で、12cm大型双眼鏡にしがみついて、
見張っていました。

 麾下の哨戒部隊の配置地点が分かるので、
爆撃機隊が東京方面に到達する時刻は、
推定できました。

 その時刻になると、伊豆七島や、三浦半島、
さては伊豆半島から東京にかけて配備
されている各見張所が、敵機の通過状況を
報告してきました。

 東京方面への空襲で、敵機の通過する
経路は、相模湾から、平塚付近に侵入し、
北東に針路をとって、東京に向かうのが
定石でした。

 上空には、海軍夜間戦闘機紫電が厚木、
横須賀の基地を中心に、待機していました。
この戦闘機は、B29よりも口径の大きい
機銃を装備しており、夜間の迎撃戦闘用に
制作されていたので、威力は、B29を
ゆうに撃墜できるほどの新鋭機でした。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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