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赤城・加賀 天城解体 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 船体の対する複雑な手直し工事の後に、 装甲甲板を基盤にして、いよいよ空母と しての船体を構築する作業が、開始される ことになりました。  格納庫を、どのような規模と形状で配置し、 缶室から排出される排煙のための煙路を、 どのように配置すべきか、機体の修理工場の 配置や、爆弾、魚雷、高角砲の砲弾などの 貯蔵庫をどこに配置するかなど、鳳翔とは 比べ物にならない設計を強いられました。  そして、その上に設けられる飛行甲板の 形状や構造はどうすべきか。様々な試行 錯誤の中で、天城と赤城の航空母艦としての 改造は進められました。  しかし、両艦の改造が、上甲板付近に達した 1923年9月1日に、関東大震災が発生 しました。  この震災で、天城の船台は大きく破壊され、 建造中の天城も船底の竜骨に甚大な損傷を 生じました。  これにより、天城の建造作業は不可能となり、 天城は解体されることになりました。この事態に、 代替として廃艦がきまり解体のため係留されていた 戦艦加賀を使用することに決めました。 (追記)  加賀が戦艦として完成していたら、当時 日本最強と言われた長門型より強力な、 41cm主砲を10門装備した戦艦になる 予定でした。  船体も巨大になっていながら、速力は、 長門より早い26.5ノットを実現して いました。  しかし、巡洋戦艦赤城とは違い、 26.5ノットでは、機動部隊の随伴は かなりきついと考えられ、大和や長門と 同じように、あまり活躍の機会がないという 運命をたどった可能性が高いと考えます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 巡洋戦艦改造の苦労 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 廃艦になった、加賀型戦艦と、天城型 巡洋戦艦の内、天城型が選ばれたのは、 その高速性からでした。  空母は、強い向かい風があったほうが 離陸しやすいので、高速艦が選ばれた ということです。さらにもう一つ理由が ありました。  天城型は、全長261.2mに対し、加賀型は、 238.5mと、天城型の方が、全長が長かったこと でした。飛行甲板は、長い方が良く、全長23mの 差は、無視できなかったと言えます。  天城型巡洋戦艦1番艦天城と、2番艦赤城は、 1920年12月に、横須賀工廠と、呉工廠で 起工し、空母への改造が決定した時は、最下甲板の 吃水線上にある防御甲板まで、工事が完了して いました。  巡洋戦艦は、戦艦より装甲が薄いとはいえ、 空母に比べれば遥かに厚く、完成している 部分に対する改造を、施すことになりました。  不要な舷側の装甲を外すだけで、排水量が 減り、吃水が浅くなるという問題が発生しました。 そこで、バジルの形状を改めることと、舷側や バジルの素材を改める必要があり、船体に 対して、改めて多くの複雑な作業を 実行しなければなりませんでした。 (追記)  巡洋戦艦として赤城が完成していれば、 41cm砲10門の30ノットの速力を誇る 戦艦となる予定でした。この主砲は、 40cm砲の長門より大きく、速度は 金剛型に匹敵するものでした。  太平洋戦争で、最も活躍した戦艦は、 高速が出る金剛型ということを考えると、 赤城が完成していたら、空母の随伴や、 陸上への艦砲射撃で、かなりの活躍を したと考えられます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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