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赤城・加賀 空母への着艦 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日本とイギリスが全通式甲板航空母艦を 完成させている頃、アメリカも全通甲板式の 航空母艦ラングレーを完成させていました。  給炭艦ジュピターを航空母艦に改造した もので、1922年3月に完成しています。 日本、イギリス、アメリカは、ほぼ同じ時期に 空母を作ったことになります。  しかし、艦隊行動の中でいかに運用して いくかについては、まだ明確な方針が出て いませんでした。それどころか、位置づけも 明確ではありませんでした。  日本海軍は、1921年の鳳翔の進水と 同時に、固定式飛行甲板式の航空母艦を 水上機母艦とともに、特務艦から正式に 軍艦として、扱うことにしました。  同時に、空母に乗せる各種の飛行機の試作も 進められました。鳳翔の完成と相前後して、実用 艦上攻撃機と艦上戦闘機を完成させました。  この後の大きな課題は、これらの飛行機を、 空母で発着艦できるようにすることでした。 日本海軍で、空母への発着艦を経験したものは 誰もおらず、最初は陸上での飛行訓練を行って いました。  最初に日本空母への着艦を行ったのは、 1923年2月22日でした。イギリス人の テストパイロットであるジョルダンが、東京湾に 浮かぶ鳳翔に、実用の段階に入っていた三菱 航空機製の単座10式艦上戦闘機を、着艦 させました。日本海軍にとって画期的な 行為で、賞金を与えました。  そして1カ月後の3月16日に、日本海軍の 吉良俊一大尉が、同じく10式艦上戦闘機で、 着艦に成功しました。彼の偉業に、海軍大臣から、 賞状と金杯で報いています。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 航空母艦鳳翔完成 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 艦上に飛行機発着用の甲板を設けて、 車輪を付けた飛行機の発着を可能にした 航空母艦の元祖は、1917年に、 イギリスが完成させた、フユーリアス でした。しかし、結果的には、この試みは 失敗に終わりました。  1917年6月に竣工した大型巡洋艦 フユーリアスに試験的に艦橋構造物の 前方から艦首甲板にある第一砲塔を 覆うように全長69.5mの飛行機発艦用の 甲板を設けて、さらに煙突の直後から 艦尾にかけて、91.5mの着艦用甲板を 設けました。  この前後の甲板間の飛行機の移動は、 艦橋構造物と煙突の両側に運搬通路を 設けるというものでした。  フユーリアスからの、陸上機発艦は 成功しましたが、着艦はほとんど 失敗に終わり、多くの死傷者が でました。  原因は明らかで、飛行甲板の目前に 煙突や艦橋がそびえ立っていることで、 気流が乱れ、着艦する飛行機の安定を 乱し、操縦を困難にしたため、前方 障害物に激突したためでした。  イギリス海軍は、この反省から、第一次 世界大戦の終結直前の1918年9月に 建造中の商船(イタリアが発注した客船)を 買収して改造し、全通の飛行甲板を設けた 特設航空母艦アーガスを完成させました。  この艦が、改造型ではありますが、世界 最初の全通飛行甲板式の航空母艦となります。 そして、イギリスは、設計段階から全通 飛行甲板の航空母艦ハーミズの建造を 進めました。  同じ頃、日本も全通甲板式の航空母艦を 進めていました。これが、後の鳳翔と なります。  ハーミーズは、1923年7月に完成し、 鳳翔は、1922年12月だったので、 設計段階から全通甲板式の航空母艦として 作られた世界最初の空母は、鳳翔と なりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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