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巡洋艦摩耶 笑えない話 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 伊豆大島の見張所からの、
「敵大輸送団見ゆ」と、
大本営、連合艦隊司令部から出された、
「決戦配備につけ」
の指令により、井上氏は、横浜司令部で、
最後の決意を固めていました。

 しかし、その後一向に情報が入りません
でした。約1時間もたったと思われた頃、
大島見張所からの電報で、「さきの船団は、
夜光虫の誤り。」という報告があり、思わず
ホッとして苦笑し、警戒をときました。

 源平合戦の際に、平家の軍勢が、水鳥の
飛び立つ音におびえて、退却したという
話がありましたが、よく似た話であると、
つくづく感じたとしています。

 もっとも、大島付近は、海流の流れが
激しく、夜光虫の繁殖する時期になると、
前記のような笑えない話も起こることは、
しばしばあの付近を航海した井上氏には、
分からないことではないとしています。

 いよいよ追い詰められた観がし始めた頃、
国内の物資は、ますます底をつき、各部隊
とも自給自足の対策に狂奔していました。

 横浜大桟橋の突端にも、横付けする船も
なく、部隊では海水を沸かして塩を作ったり
していました。また、山下公園の芝生は
掘り起こされて、サツマイモの畑と化
していました。

 8月上旬になると、兵隊たちの間にも、
日本が、連合国に対して休戦の申込みを
したという噂が流れ始めました。

 井上氏は、流言に惑わされることの
ないように、連日部下を戒めていました。

 いよいよ8月14日になりました。当日、
朝からラジオを通じて、「明日の12時に
重大な放送があるので、国民は一人
残らずそれを聞くように・・・」という
政府からの伝達が行われました。

 そして翌日の15日の正午、井上氏は、
第22戦隊司令部において、司令官
石崎昇中将以下、他の戦友たちと共に、
いまだかつて経験したことのない大元帥陛下の
御肉声を、ラジオを通して耳にしました。

 ついに骰子は投げられ、万事休すとなり
ました。聞き終わった井上氏は、ただ
呆然として落涙するのみだったと
しています。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦摩耶 本土決戦 [巡洋艦五十鈴、摩耶]

 1945年3月、小磯内閣から、鈴木内閣に
変わり、戦局の収集を図ろうとする意図は、
国民にも見てとれました。

 一方、連合国側は、2月にヤルタに会し、
イタリア脱落後の日独伊の処理方針を会議し、
5月にドイツが降伏すると、7月にはポツダム
宣言を発して、日本に降伏をうながしてきました。

 この頃、どこからともなく、日本が連合国に
対して、降伏の意思表示をしたとか、しない
とかの噂が流れていました。政府及び、
大本営としては、あくまで徹底抗戦を
はかる方針でした。

 来るべき本土決戦に備えて、陸海空の
特攻部隊を持って、敵軍百万を、上陸時の
水際にとらえ、全滅させるための作戦計画を
たてて、国民とともに本土を死守する方針を
決めていたようでした。

 特攻部隊や、特攻兵器の温存には、特別の
施設を作り、毎月のように猛特訓を実施して
いました。もちろん、軍人には、敵に対する
降伏など論外のこととして無視され、軍の
士気は、極めて旺盛でした。

 井上氏らも、横浜基地にあって、抜刀術や
対戦車攻撃訓練などを受けつつ、本土決戦の
成功を固く信じて、毎日を送っていました。

 1945年も盛夏をむかえて、暑い日が
続いていたある夜のこと、伊豆大島の
見張所から、全軍あてに、「敵大輸送団見ゆ」
という緊急電報が入電しました。

 大本営、連合艦隊司令部から、ただちに、
「決戦配備につけ」の指令が飛んできました。
井上氏は、横浜司令部にあって、いよいよ
きたるべきものが到来したという、最後の
決意を固めていました。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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