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赤城・加賀 ワシントン海軍軍縮条約 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 鳳翔が完成した1922年頃、イギリス、 アメリカ、日本の各海軍は、これらの 空母の完成を前に、正式に海軍 航空隊を誕生させました。  1921年から翌年にかけてワシントンで 開催された、ワシントン海軍軍縮条約の中で、 航空母艦が、戦艦や巡洋艦と同様の主力艦と して位置づけられたことは、その後の列強 海軍国に影響を与えることになりました。  アメリカでは、建造中の巡洋戦艦レキシントンと サラトガを、近代的な大型航空母艦に改造する きっかけとなり、さらなる新鋭大型航空母艦の 建造を促進することにつながりました。  日本海軍は、建造中の天城急巡洋戦艦2隻を、 航空母艦に改造するきっかけとなり、近代的な 航空母艦の建造を進めることになりました。  フランス海軍も、この流れの中で、旧式戦艦を 航空母艦に改造する作業を進めることになりました。 イギリスは、既に大型空母3隻とこが空母3隻を 保有しているので、建造は一時の休息の時間を 持つことになりました。  ワシントン軍縮会議は、本来、各国の戦力拡充が、 膨大な費用になるという問題を、各国が抱えたことに ありました。  日本が計画していた八八艦隊の整備には、国家 予算の3分の1に相当し、維持費が国家予算の 半分になるという膨大なものでした。  これは、他の国も同様で、戦力増強が、国家存続の 基本になると判断されてはいたものの、国力の維持の 限界に達していたといえます。  アメリカが提案した海軍戦力の軍縮に関する 基準づくりの会議が開催されたのは、このような 背景がありました。ただ、主導権は、当初から、 アメリカとイギリスが握っていたと言えます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 実験艦鳳翔の運用 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日本海軍は、空母への着艦に成功したことで、 運用方法を真剣に研究することにしました。  同時に、各種艦載機の開発を、民間の航空機 製造会社を巻き込んだ共同研究で、積極的に 展開することになりました。  日本は、鳳翔完成とともに、空母の運用に 関わる技術や様々なノウハウについて、独自 研究するとともに、先進国のイギリスから技術 導入で学ぶ必要がありました。  鳳翔は、イギリスのアーガスや、フユーリスの 設計思想を組み入れて作業を進めていますが、 日本海軍独自の発案によって開発されたもので あり、空母の実験艦という位置づけでした。  鳳翔の飛行甲板は、全長とほぼ等しい168.3mで、 全幅は、艦の全幅より広い、22.7mでした。 合計15機の航空機を、前後に分離された格納庫に 収納し、それぞれの格納庫にエレベータが一基ずつ 配置されていました。  格納庫は、前が戦闘機用、後ろが、攻撃機用として 使われる予定でした。  飛行甲板の形状は、この後の航空機の急速な 発達により、様々に変化しました。木製骨枠に 布張りから、全金属製の重量ある機体に変わって いき、訓練艦として鳳翔を使うことになった際は、 艦首と艦尾からはみ出すほどに延長しました。  これでは、かろうじて運用可能というレベルであり、 実戦には、到底使用できるものではありませんでした。 鳳翔の実戦参加は以下の通りです。  1932年の上海事変、1937年の日中戦争、 1942年のミッドウェー海戦です。ミッドウェー 海戦では、戦艦部隊の直援であり、搭載していた 96式艦上攻撃機の1機が、漂流している 飛龍を発見しています。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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