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赤城・加賀 補用機 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 常用機は、平時や戦時に、常時稼働させる 事ができる機体で、補用機は、常用機が事故で 失われた時に、不足を補いための予備機と なります。  しかし、これは平時を想定したもので、 戦時の場合、予備機とは違うニュアンスに なります。  海軍は、年度予算で運用されるので、補用機は、 「年度予算内で決められた予備機」という定義と なります。1年間で失われる予想数を想定して、 予備機として予算計上して、搭載します。  そのため、年度内に、事故が発生し、 予備機が不足しても、年度内は定数不足で 運用されます。戦時の場合、このような 悠長なことはできず、直ちに補充する 必要があります。  従って、補用機は、戦時は、損害時の 補充用機体、あるいは、搭載機の定数を 増やすなどの手法がとられます。そのため、 搭載機数は、固定できず、平均的な数か、 特定の戦闘時の搭載数を 表すことになります。  また、補用機は、完成された状態での 収容はせず、胴体から主翼や尾翼などを 分解し、これらを胴体と一緒に木枠で 梱包して、場所をとらないように、 格納庫の特定場所に保管されて いました。  時には、分解された主翼や尾翼などを、 格納庫の壁面や天井に掛けたり、ぶら 下げたりして、収納していました。  そして、必要に応じて、格納庫内で 組み立てて、完成機として仕上げる 方式がとられていました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 アメリカの開放式格納庫 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 イギリスや日本の密閉式格納庫に対して、 アメリカは、開放式の格納庫でした。  開放式は、船体の甲板を装甲甲板にして、 格納庫の床とし、その上に支柱や構造物で 立ち上げ、飛行甲板で蓋をするものです。  格納庫の周辺は、機械室や煙路が配置 されるものの、大半はシャッターや薄板で 囲まれています。  開放式は、周囲に制約が少ないので、 格納庫の面積を大きくとれました。爆弾を 受けたときは、飛行甲板を貫通しても、床で 抑えられ、爆風は、脆弱な壁面を破壊して、 船体へのダメージを抑えられるメリットが ありました。  閉鎖式の場合、飛行甲板を貫通し、格納庫で 爆発すると、爆風の逃げ場がなく、飛行甲板を 大きく破壊するか、船体に大きなダメージが 加わります。  装甲空母は、この問題を解消するために、 飛行甲板に装甲を張るというものですが、 重心が上昇し、格納庫を減らさなければ ならなくなりました。結果、飛行機の 搭載数が減ることになります。  イギリスの大型空母はこの構造であり、 日本の空母は、大鳳以外は、密閉式で ありながら、飛行甲板は脆弱な構造と なっていました。  大鳳が、マリアナ沖海戦で一発の魚雷で 撃沈したのは、気化ガスが格納庫内に充満し、 爆発事故を起こしたためでした。  密閉式は、換気が充分でないと、このような 問題を引き起こします。  密閉式のもう一つの問題は、開放式より 床面積が狭くなることでした。赤城と加賀の、 当時の搭載機数は、常用機が48機と、 補用機が12機の、合計60機でした。  この数字は、この後に建造された中型空母の 蒼龍や飛龍と、同規模でした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 密閉式格納庫 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 飛行機の格納庫は、鳳翔を建造したときから、 手探り状態で行っていました。鳳翔は、戦闘機 6機と、攻撃機9機の15機と、補用機が6機と されていました。  しかも、規模は小型の上、攻撃機は、翼を 折りたたむことができたので、格納庫へは 容易に入れることができました。  しかし、赤城や加賀は、排水量で、鳳翔の 3倍はあり、そのまま応用することは できませんでした。  鳳翔は、手探りで作られているので、 運用結果から出される意見を充分に 参考にしない限り、赤城や加賀に 応用することはできませんでした。  赤城や加賀が建造された時は、鳳翔より、 イギリスのフユーリアスを、応用しています。 飛行機格納庫の配置や、形状、どのように 構築するかは、基本的にフユーリアスの 経験が反映されました。  そして、この配置は、その後の多くの 日本空母も踏襲しています。アメリカの 開放式格納庫とは違う、イギリスと同様の 密閉式格納庫になったことから、この事情を 証明しています。  密閉式は、様々は設備や、構造物で囲まれた 艦内の空所を、格納庫にするというもので、 蓋が飛行甲板となります。  敵の爆撃は、飛行甲板に装甲板を張ると同時に 格納庫甲板に装甲を張るという方法がとられました。 周囲には、居住区や、作業室、機械室などがあり、 格納庫の大半は、舷側から完全に、密閉された 構造になりました。  この構造は、実戦では大きな問題を引き起こす ことになりました。結論からすると、アメリカの 開放式の方が、良かったと言えます。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 横廠式横索型着艦制動装置 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 1930年に、フランスのシュナイダー社が、 世界最初のフユー式横索型着艦制動装置を 開発しました。  イギリス、アメリカ、日本は、いち早く この装置を購入し、既存の空母に装備して、 試験を繰り返しました。  日本は、試験の結果から、縦索式着艦制動 装置より、短距離での着艦が確実になることが 実証され、萱場製作所が、フユー式を改良した より実用的な装置を開発しました。  海軍は、横須賀海軍工廠が、独自に横索式 着艦制動装置を開発し、極めて優秀な結果を 生むことになりました。  この装置は、「横廠式横索型着艦制動装置」と 呼ばれ、太平洋戦争で活用された全ての空母に、 使われることになりました。  イギリスやアメリカも、フユー式着艦制動装置が 基本になって発達しました。この装置は、現在の 空母の着艦制動装置も、原理と構造は、全く 同じです。  縦索式型着艦制動装置では、1929年に 開発された89式艦上攻撃機は、止まることが できず、横索式着艦制動装置の開発は、 タイミングの良い時期でした。  横索型着艦制動装置は、飛行甲板に横に 張られた横索に飛行機の胴体部から下げられた フックを引っ掛けて、飛行機の行き脚を止める というものであり、横索は、飛行機により ある程度引っ張られ、機体の破損を防止 しています。  現在の空母は、引っ張られる横索を停止する のに、油圧式や、電磁式で行うようになっています。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 赤城の艦橋構造物 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城の艦橋は、加賀より大型の四層構造で、 平面形状も、加賀より大型化されています。  艦橋の一層目は、搭乗員や飛行科作業員の 待機所、二層目が、作戦室と、発着艦指揮所、 三層目が操舵室と、無線室、四層目が、 羅針艦橋でした。  艦橋の位置は、加賀の方が艦首寄りと なっていますが、これは、着艦時に パイロットの目障りにならないように ということから、なるべく前方にした という経緯があります。  さらに大きな理由は、この頃実用化された 横索式着艦制動装置の確実性に不安があった ということでした。  しかし、赤城の改造時は、着艦制動装置は、 進化しているため、指揮しやすい中央付近に なりました。  赤城と加賀の艦橋の教訓から、この後に 建造された空母の艦橋は、飛行甲板中央から やや前方よりに配置されるようになりました。  着艦制動装置ですが、当初は、飛行甲板の 前端から後端にかけて多数のワイヤを等間隔に 張り、このワイヤーに、飛行機の車輪の外側に 取り付けられたブラシ状の装置をこすり付けて 止まる、縦索式制動装置が装備されていました。  この当時は、飛行機は固定脚なので、車輪を つなぐ心棒も、減速効果を高めていましたが、 機体が回転して、海中に落下するという事態を 招いていました。  縦索式制動装置による着艦のために、長い 飛行甲板を準備しなければならず、多段式 甲板が現れた理由となっていました。  この状況は、1930年に入ってから 開発された、横索式着艦制動装置が できるまで、続くことになりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 加賀の艦橋構造物 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城と加賀の艦橋は、最上段甲板最前部下 (二段目の甲板の上)に配置されましたが、 ここにあったのは羅針盤艦橋だけでした。  操舵室は、二段目飛行甲板に予定されていた 右舷前端の装甲室内に配置されました。  赤城も加賀も、竣工当初は、発着艦機の指揮を するための指揮所は、最上段の飛行甲板前端近くの 右舷に設けられていましたが、羅針盤艦橋などの 連絡が不便でした。  そこで、加賀は、1933年に最上段飛行甲板の 前端近くの右舷に簡易式の航海艦橋兼発着艦機の 指揮所を設けました。これは、加賀が、上海事変に 投入されたことによる実戦経験からの配置でした。  この特設艦橋は、効果的と判断され、加賀が 一段式飛行甲板に改造される際に、飛行甲板 右舷前方に、小型の本格的な艦橋構造物が 配置されました。  加賀の艦橋は、三層構造となり、飛行甲板 右舷から、外側に張り出すように設けられ、 一層目は、作戦室と、飛行科要員待機所、 二層目が、操舵室と、飛行指揮所、三層目が、 羅針盤艦橋となっていました。  羅針盤艦橋の上部に、高射砲と、20cm砲の 測的装置と、射撃装置が配置されていました。  遅れて、一段式甲板に改造された赤城は、 加賀とは反対の左舷に艦橋が配置されました。 そして、艦橋の位置は、飛行甲板中央寄りと なっていました。これは、右舷の煙突との バランスをとるためと、気流の乱れを 抑制するためでした。  しかし、左舷に艦橋を配置したのは、 この後に建造された空母では飛龍のみで、 他は右舷側にあります。それは、左舷の 艦橋は、右舷の煙突の排煙を乱すことが 判明したためでした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 20cm単装砲 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城と加賀の20cm砲の装備については、 海軍内でも賛否が分かれていました。そして、 一段式飛行甲板に改造する時に、20cm砲は 再検討され、赤城と加賀で、違う結論を 出しました。  赤城は、連装砲を撤去するが、艦尾の 単装砲は残すことになり、加賀は、連装砲を 撤去する代わりに、前方舷側に、単装砲を 同数分装備することになりました。  赤城は、20cm単装砲を6門、加賀は、 20cm単装砲10門となりました。一段式 飛行甲板に改造する段階でも、空母の 運用のあり方が、明確でなかったことを 示しています。赤城と加賀は、撃沈するまで、 20cm砲を装備することになりました。  イギリスも同様で、フユーリアスには、 14cm単装砲を10門装備しており、 フランスの戦艦改造空母ベアルンは、 15.5cm単装砲8門を装備して いました。  アメリカのレキシントンとサラトガも、 艦橋前後に20cm連装砲を各2基装備して いました。  空母建造にあたり、艦橋をどうするかは 課題でした。日本の空母では、艦橋と煙突が 一体となっているのは、飛鷹、隼鷹、大鳳、 信濃だけで、他は、艦橋と煙突が分離して いました。  そのため、艦橋は、規模の大きくない 艦橋構造物だけとなり、羅針盤艦橋と 操舵室、航空機指揮所、通信室、作戦室、 乗員待機室などの、小規模な設備をまとめた 極めてコンパクトな構造でした。  赤城と加賀が、多段式飛行甲板型空母 として出現した当時は、飛行甲板上に、 艦橋構造物はありませんでした。二段目の 飛行甲板が使用廃止となったことで、 最上段甲板最前部下に配置されました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 加賀の排煙問題 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 一方の加賀は、赤城と全く違う方式を 採用していました。加賀は、イギリスの フユーリアスの排煙方式がとられました。  12基のボイラーから排出される排煙を、 片側6基のボイラーごとに、一本の煙路に まとめ、太い煙路を両舷の飛行甲板の 下に沿って、艦尾まで誘導し、艦尾付近で 斜め下向きに排煙する方式でした。  この方式を採用したのは、赤城との比較の 意味もありました。この方法なら、飛行甲板の 艦尾付近での気流の乱れが少なくなると 予想されました。実際、気流の乱れは減少し、 飛行機への影響も、減少しました。しかし、 別の問題を起こしました。  煙路が配置された舷側周辺の艦内温度が 上昇し、居住性を著しく損なう結果を 招きました。  排ガスは、500℃以上あるので、室内温度は、 冬場でも40℃を超えることになり、灼熱地獄を 形成することになりました。  居住性の劣化は、加賀が就役してからずっと 続いた問題で、早くこの事態を解決する必要に 迫られました。加賀の多段式飛行甲板を、 一段化する改造は、赤城に先立って 行われました。  多段式飛行甲板空母として完成した赤城と 加賀は、作戦行動中、敵巡洋艦と遭遇した 場合の対策として、20cm砲を装備して いました。これは、ワシントン海軍軍縮 条約で、空母に認められた武装でした。  赤城と加賀は、二段目の飛行甲板の両側に、 20cm連装砲を一基ずつ搭載し、艦尾の両舷に、 20cm単装砲を各3門ずつ配備されました。  片側5門ずつの20cm砲の射撃ができる ことになり、重巡洋艦古鷹や、青葉と同様の 火力と言えました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 赤城の排煙問題 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 赤城と加賀の建造に対し、大きな対策 課題となったものが、主機関の多数の ボイラーから排出される排煙の 処理方法でした。  鳳翔は、ボイラーは8基で、最大出力3万馬力 しかないため、排煙はあまり多くなく、排煙の 煙路を右舷中央に集め、それを3本の煙突で、 排出していました。  赤城は、ボイラーは19基、13万馬力も あるので、6本の煙路にまとめられて、 右舷舷側中央部に集められました。 6本の煙路は、一本の巨大煙突から、 排出されるようになっていました。  しかし、高速航行で、大量の排煙を吐き 出すと、艦尾に不安定な気流を作ることに なり、着艦する飛行機は、不測の事態を 起こさせる原因にもなりかねませんでした。  鳳翔では、3本の煙突を、普段は直立にして、 着艦するときは、横に90度倒すという工夫が なされましたが、これでも、飛行甲板末端 付近の気流が乱れ、不都合となりました。  この問題を解決するために、煙突を横向きの 固定とし、先端は海面に向けることで、煙を 海に向かって吐き出す方式としました。 この方式は一応の成功をみました。  赤城も同じ方法がとられ、海面に向けて 突き出す方式が採用されました。しかも、 高熱の排ガスが艦尾付近での気流を 乱さないために、着艦作業時は、煙突 先端のダクトから霧状に海水を噴霧し、 排ガスの温度を低下させるという試みも 行われました。  これにより、気流が安定したので、後の 多くの空母に採用され、日本の特異な 構造の煙突を出現させました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 特異な姿の空母 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 二段目の飛行甲板は使用しないと決めたことで、 発艦は、三段目の飛行甲板を使用することに なりました。  しかし、この後、3.6tの艦上攻撃機が、正式に 採用された時、この飛行機は、三段目からは発艦 できないと判断されました。  結局、三段目も使用中止となり、多段式でありながら、 使用したのは最上段の飛行甲板だけということになり、 この後、一段式に改造されるまで、特異な姿の空母 として存在することになりました。  二段目の飛行甲板が、使用中止となったことで、 格納庫の前面を閉鎖し、空きスペースに羅針盤 艦橋を配置することになりました。  結局、赤城も加賀も、運用の初期から、 多段式飛行甲板の使用は消え去り、 最上段の飛行甲板のみで、発着艦が 行われるようになりました。  この後、新たに、横索式着艦制動装置が ヨーロッパからもたらされ、日本の萱場 製作所が、より実用的な、萱場式横索式 制動装置を1931年に開発し、海軍は、 この装置で、短距離着艦制動に成功 させました。  この装置を使うことで、赤城と加賀は、 最上段飛行甲板を発着艦両用に使うことが できるようになり、両空母の一段飛行甲板 への大改造のきっかけを作ることに つながりました。  赤城と加賀は、参考になる発達した空母が ないままに、不完全な姿の大型空母や、小型 空母を手本に、手探り状態で、設計された 空母でした。  そのため、空母としては、様々な必要な 装置や構造、設備において、いくつもの 特異なものが準備され配置されていました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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