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航空母艦「赤城」「加賀」 ブログトップ
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赤城・加賀 太平洋戦争へ [航空母艦「赤城」「加賀」]

 加賀は、1938年10月の陸軍部隊の 香港東北方面のバイアス湾上陸作戦の 支援を行ったことで終わりました。  この頃の中国戦線は、沿岸から隔たった 地点に進行しており、空母の航空作戦の 必要性がなくなっていました。そのため、 空母戦力は、全て日本に帰還する事に なりました。  加賀は、実戦活動中に判明した各種の 不具合箇所の改造や整備が進められ、 修理完了後は、海南島の上陸作戦に 参加しました。  赤城は、1938年9月で改造が完了し、 所属飛行隊の錬成のため、翌年の2月~ 4月上旬にかけて、中支沿岸方面で、 航空作戦を展開しました。  しかし、本格的な航空作戦ではなく、 短期間の行動の後、日本に帰還して います。  赤城と加賀は、帰還後、所属航空部隊の 練度向上に努めることになりました。 そして、真珠湾攻撃に移っていきます。  太平洋戦争勃発前の、日本海軍が所持 していた10隻の空母の編成は以下の通り です。 第1航空隊:赤城、加賀 第2航空隊:蒼龍、飛龍 第3航空隊:瑞鳳、鳳翔 第4航空隊:龍驤、春日丸(後の大鷹) 第5航空隊:翔鶴、瑞鶴  この内、第1,2,5の各航空隊が真珠湾に 参加しています。6隻の航空隊に搭載された 航空機は、戦闘機108機、攻撃機144機、 爆撃機135機の合計387機となります。  この編成は世界最初の空母集団投入で、 機動部隊と呼ばれるものでした。この 戦法の有効性が認められ、アメリカや イギリスも、同じ手法を、採用するように なりました。  ここから、真珠湾攻撃からミッドウェー 海戦における、赤城と加賀の戦歴を 紹介します。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 南京攻撃 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 南京の攻撃は、艦上戦闘機36機、 艦上爆撃機12機、艦上攻撃機54機の 合計102機という一大航空作戦でした。 加賀から派遣された全機も参加しています。  中国軍も、南京上空に戦闘機を40機 配置して備えていました。両航空隊は、 たちまち空中戦を展開しました。  性能が優れた日本軍が有利に展開し、 敵機を19機撃墜しています。日本軍の 被害は、戦闘機1機と爆撃機3機を失って います。加賀搭載機の被害はありません でした。  一方、加賀に残った航空戦力は、特別 航空作戦の任務が下りました。この時 加賀に残っていた搭載機は、戦闘機16機、 攻撃機22機、爆撃機14機の合計52機 でした。  加賀に、揚子江上流に停泊している軽巡洋艦 平海の攻撃命令が来ました。この作戦に、戦闘機 4機、爆撃機8機、攻撃機8機の20機が 出撃しました。  この攻撃で、平海は機関部を損傷し、 行動不能となりました。その後、至近弾により、 船底の破損箇所から浸水し、艦尾が着底し、 放棄されました。  その後、加賀は、佐世保に帰還して整備や 補給を行い、引き続き、南支方面の沿岸 攻撃などの作戦に従事しました。 (追記)  平海(ピンハイ)は、後に、日中戦争の 戦利品として日本が浮揚させ、海軍工廠で、 改装工事を受け、当初は海防艦として使われる 予定でしたが、軽巡洋艦八十島(やそじま) として使われました。  1944年11月25日に、以前熊野で 紹介しました通り、熊野の重傷者をのせて サンタクルーズを出向しましたが、 リンガエン湾付近で沈没しています。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 艦上攻撃機と艦上爆撃機による攻撃 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 損害を受けた加賀は、敵戦闘機の優秀性を 悟り、直ちに搭載していた90式戦闘機より 格段に性能が上の96式艦上戦闘機を 加賀に送るように求めました。  航空本部は、直ちに態勢を整えた新型戦闘機を 加賀に送りました。96式戦闘機は、九州から、 東シナ海を渡って、加賀に搭載されました。  8月17日、加賀から12機の89式艦上 攻撃機が出撃しました。攻撃目標は、上海周辺の 鉄道施設でした。そして、その日から、加賀は、 連日艦上攻撃機と艦上爆撃機が出撃し、上海 周辺の各種の施設を攻撃しました。  8月23日、陸軍部隊が呉淞海岸に上陸作戦を 敢行しました。この時加賀は、艦上戦闘機が出撃し、 上陸地点の上空警戒を行いました。一連の作戦が 終わり、加賀は、一旦佐世保軍港に帰還し、整備と 補給を終えると、再び出撃していきました。  次の作戦は、南京周辺の航空基地や地上軍用 施設に対する艦上攻撃機と艦上爆撃機による 精密爆撃でした。この作戦に際して、上海西方に ある地上基地がありましたが、より大規模に するため、加賀に派遣応援を求めていました。  この要請に対し、加賀から艦上戦闘機15機と、 艦上攻撃機12機を送り込みました。南京までは、 450kmもあり、洋上から攻撃するには限界に近い 距離でした。陸上基地からの展開は、有利になると 判断されました。  南京周辺施設に対する大規模爆撃行動は、 9月15日から展開されました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 厳しい痛手 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日中戦争が勃発した当時、日本海軍は、 航空戦隊を編成し直していました。  第一航空隊は、鳳翔と、1933年に 完成した空母龍驤となり、第二航空隊が、 赤城と加賀で編成されていました。  しかし、日中戦争勃発当時、赤城は、 大改造の途中だったため、第二航空隊は 加賀のみ出撃しています。  1937年8月14日、加賀は、揚子江河口 東方沖に到着すると、翌日から作戦を開始 しました。  この日、加賀は、45機の攻撃機を出撃させて います。日本海軍が、空母から大量の航空機を 一気に出撃させたのは、これが最初です。 この日の目標は、3箇所の飛行場で、 各飛行場に13機~16機向かいました。  日本軍機は、飛行場の一箇所が、視界不良で、 別の飛行場に目標を変更するということが起きて います。中国空軍も迎撃態勢をとっており、 攻撃直後に、攻撃部隊に襲いかかって きました。  この攻撃で、6機が撃墜され、2機が 帰還途中に海上に不時着しています。 最初の攻撃で、8機の損害は、加賀の 航空隊にとって厳しい痛手でした。  戦闘機も付けずに出撃させ、敵の 迎撃をくうという、敵を侮った失敗と 言えます。 (追記)  空母龍驤は、鳳翔に次いで、日本海軍が 最初から空母として建造した二番目の艦 です。当初、議会では水上機母艦として 予算通過していたようです。  当初の排水量は8000tですが、復元性が 悪く、改造を重ねて1万tを超えることに なりました。速力29ノット、艦載機は 36機搭載できました。  第二次ソロモン海戦で、艦上機の爆弾と 魚雷を浴びて、撃沈しています。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 艦上機による世界最初の記録 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 上海事変当時、加賀の搭載機は、3式艦上 戦闘機16機、13式艦上攻撃機28機の 合計44機でした。  加賀は、2月4日、艦上攻撃機10機で 呉淞要塞の攻撃に向かいました。この時は、 各機30kg爆弾を搭載しており、目標に 低空から水平爆撃を行いました。これが、 世界最初の艦上機による敵地攻撃と なりました。  2月5日、加賀は、戦闘機3機と、攻撃機2機を 出撃させ、上海郊外にある無線局を爆撃しました。 この時、敵の対空砲火により、攻撃機が1機撃墜 されました。これが、敵の対空砲火で艦載機が 撃ち落とされた、世界最初の記録となります。  この戦闘時、鳳翔の艦上戦闘機と、中国 空軍の複葉偵察機9機が、空中戦を展開して います。  双方とも被害はありませんでしたが、これが、 世界最初の艦載機による空中戦闘記録と なります。  2月8日、海軍陸戦隊と、陸軍部隊は、 呉淞への上陸作戦を展開し、加賀と鳳翔は、 合計15機の攻撃機で、爆撃を行っています。  2月23日、加賀と鳳翔から艦上攻撃機 18機と、艦上戦闘機12機が出撃し、上海 周辺の中国軍の空軍基地爆撃を、実施 しました。  続く2月26日、加賀は、攻撃機を出撃させ、 杭州周辺の飛行場を爆撃しました。この時、 攻撃機の1機が、期間中にエンジントラブルに 見舞われ、海上に不時着し、駆逐艦に救出 されています。  2月27日、加賀の攻撃機が、獅子林砲台を 爆撃しています。これが、上海事変における 空母部隊の最後の作戦となりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 日中戦争 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 1937年、日中戦争が勃発すると、 加賀と鳳翔は、上海沖を中心とする 東シナ海に派遣されました。  上陸部隊の輸送船団の護衛や、上陸 部隊の上陸地点を中心とする上空警戒や、 揚子江周辺の航空機による地上攻撃を 展開しました。  この時は、上海沖を遊弋し、艦上攻撃機を 適宜出撃させ、敵地上施設の爆撃や、揚子江 下流域の攻撃、さらに小規模ながらさらに 上流の南京爆撃など行いました。  10月から、作戦海域が、中支沿岸海域から 南支沿岸海域方面に移動し、地上作戦の 上空支援を展開しました。  この後、戦線が内陸に移動したため、翌年の 11月に、空母の航空支援を終了し、日本に 帰還しています。  以後は、艦載機部隊は、機種の交換を含め、 練度向上に努めることになりました。ここまでが、 上海事変から日中戦争までの概要となります。 ここから両戦闘で空母がどのような作戦展開 したのか紹介します。  上海事変ですが、発端は1932年1月に、 日本の僧侶が殺害されたことでした。日本 海軍は、上海駐留の海軍陸戦隊を援護する ため、軽巡洋艦で編成された第三戦隊と 第一水雷戦隊を派遣することにしました。  この部隊に、第一航空部隊の鳳翔と加賀が 付き添って、第3艦隊を編成し、上海に出動 しています。  上海に到着した第一航空部隊1月31日に、 加賀から艦上攻撃機17機を出撃させました。 この時は、爆弾投下はしていません。  この行動は、世界最初の固定式飛行甲板から、 艦上機が敵地に向けて出撃した事例と なりました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 上海事変 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 ここから、赤城と加賀の戦歴を紹介します。 1927年に赤城が完成した時、5年前に 完成していた鳳翔はありましたが、運用に ついては、明確な方針が定まっていません でした。  後の機動部隊という発想もなく、この当時は、 艦隊に空母を1隻か2隻随伴させ、敵艦隊に 対する先制攻撃方法の一つの手段として、 運用するのが効果的と考えられていました。 これは、イギリスの空母戦術の柱でした。  日本海軍の課題は、航空機部隊の育成 でした。赤城が完成すると、連合艦隊付属 軍艦として飛行訓練に務め、搭載すべき 飛行機部隊の訓練を開始する事になりました。 時には、空母を加えた艦隊同士の海軍演習にも 参加しました。  1929年、鳳翔、赤城、加賀の3隻で、 第一航空戦隊を編成し、実戦に見立てた 厳しい各種訓練が展開されることに なりました。そして、1932年 上海事変が勃発しました。  鳳翔と加賀は、航空機を使った上陸部隊の 支援任務のため、搭載機による地上攻撃と、 敵地上空へ航空機を派遣して、敵側に対する 威圧行動を行っています。  この戦闘は、局地的なもので、短期間で 終わりましたが、日本海軍最初の固定甲板型 航空母艦を使った作戦参加でした。  この時、赤城は、通信施設や艦内通風設備の 改善工事のため、横須賀海軍工廠に入渠中で、 戦闘には参加していませんでした。この後、 加賀、赤城の順に、一段飛行甲板への 大規模工事が行われました。  そして、次の作戦は、1937年に起きた 日中戦争でした。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 97式艦上攻撃機 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 日本最初の単葉引込脚式の全金属製艦上 攻撃機が、中島飛行機が開発した97式艦上 攻撃機です。  優れた操縦性能と、稼働率から、日中戦争の 後半から日本の艦上攻撃機の主力となっています。 主翼は、左右中間で折り畳める構造になって いました。  1943年まで生産され、1250機以上 製造されました。次期艦上攻撃機として、 中島航空機が制作した天山が現れるまで、 機動部隊主力艦上攻撃機の地位を守りました。  零戦と同様、防弾装備が不十分で、主翼 内部一杯に装備された燃料タンクには、防弾 装備はなく、敵戦闘機の攻撃や対空砲火が 1発でも命中すれば、火災になる脆弱な 構造でした。  全幅15.52m、全長10.3m、 重量2279kg、最高速度378km、 航続距離1993km、武装7.7mm 機銃1丁を後方旋回で装備しています。 800kg爆弾か魚雷を搭載する ことができました。  爆撃機は、愛知航空機が製造した97式 艦上爆撃機があります。日本最初の全金属製 単葉艦上爆撃機ですが、脚は固定脚でした。 主翼は、参考にしたドイツのハインケル社の 機体の影響で、楕円形でした。  比較的大型でしたが、操縦性、急降下性能は 優れた性能を示しました。1937年から 1944年まで生産され、1492機 製造されました。  日中戦争後期から、1943年まで、機動部隊 唯一の艦上爆撃機として戦果を上げています。  全幅14.4m、全長10.2m、 重量2618kg、最高速度428km、 航続距離1353km、武装7.7mm 機銃2丁を前方に、同じものを1丁を 後方旋回で装備しています。 370kg爆弾を搭載することが できました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 零式艦上戦闘機 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 96式艦上戦闘機の後に開発された艦上 戦闘機が、同じ三菱航空機が開発した 零式艦上戦闘機、いわゆる「ゼロ戦」 です。  世界的にも有名な艦上戦闘機で、日中戦争 末期から、太平洋戦争の全期間にわたり、 日本の主力艦上戦闘機としての地位を 守っています。  1940年に正式採用され、初陣は中国 大陸戦線での長距離侵攻戦でした。日中 戦争当時は、空母から発艦したことはなく、 陸上基地からの出撃でした。  太平洋戦争では、空母の主力艦上戦闘機 として、または、基地戦闘機部隊の主力戦闘機 として、縦横の活躍をしました。  徹底した軽量化による高性能は、抜群の 操縦性能に反映されましたが、燃料タンクや、 パイロットの防弾が、犠牲となっています。 後に改良されましたが、重量の増加により、 操縦性が犠牲になりました。  初期型の21型は、全幅12mで、両翼端の 50cmが折りたたまれるようになっていました。 しかし、この後に現れた31型や52型は、 固定翼となっています。  1940年末から終戦まで、10425機 生産され、1機種としては、日本最多の 生産数です。赤城や加賀に積まれた 21型の性能は以下の通りです。  全幅12m、全長9.06m、重量1680kg、 最高速度534km、航続距離2200km、 増槽を付けることで、3350kmまで 航続距離を伸ばせます。  武装20mm機銃2丁、7.7mm機銃2丁を 装備しています。120kg爆弾を搭載することが できました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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赤城・加賀 96式艦上爆撃機 [航空母艦「赤城」「加賀」]

 94式艦上爆撃機の後継機が、愛知航空機が 開発した96式艦上爆撃機です。94式艦上 爆撃機の出力向上型です。  1936年に正式採用され、1940年まで 生産が続けられた、複葉型艦上爆撃機でした。 428機も生産された傑作艦上爆撃機です。  日中戦争の全期間を通じて、空母艦上 爆撃機の主力として活躍し、太平洋戦争中は、 陸上基地での艦上爆撃機訓練用練習機として 運用されました。  全幅11.4m、全長9.3m、重量1516kg、 最高速度306km、航続距離1335km、 武装7.7mm機銃2丁を前方固定で、 同じものを後方旋回で1丁装備しています。 370kg爆弾を搭載することができました。  最後の第三期は、日中戦争から、ミッドウェー 海戦までで、この時期に登場した艦上機は、 全て全金属製で、性能は飛躍的に向上して いました。  全機が、日本独自の設計による機体で、 日中戦争の後期から太平洋戦争中期にかけて 第一線で活躍しました。まずは戦闘機から 紹介します。  96式艦上戦闘機は、三菱航空機が開発した 機体です。日本の戦闘機レベルを、一気に世界 最高水準に押し上げた記念すべき機体でした。 これまでの、複葉羽布張り構造の古典的艦上機が、 この機体から一気に近代化しました。  操縦性は、同じ時代のアメリカやイギリスの いずれの艦上戦闘機の追随を許さず、トップ レベルの性能を発揮しました。しかし、固定脚や、 開放式操縦席など、移行する過渡的な要素が 残っていました。  1941年まで生産が続けられ、982機が 生産され、日中戦争の中期から、太平洋戦争 緒戦まで第一線機として使われました。 紹介書籍:航空母艦「赤城」「加賀」 著者: 大内 健二
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